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あのデートから、春華さんが倒れてから二週間が経った。
僕はまだ春華さんに会えないでいる。
秋貴からは「もうしばらく待っていてくれ」と言われた。僕は当然頷くことしかできなくて、春華さんのことが抜けていった日常を過ごしていた。それは自分が考えていたものよりもずっと静かで、 どうしようもなく寂しかった。
そして、今日もぼーっとしながら大学で授業を受ける。
授業の内容は頭に入ってこないけど、ホワイトボードに書かれた文字をノートに写していく。後で見返せばテストに困ることはないだろう。先生が口頭で言った内容が出たら大人しく諦めるしかない。
「・・・・・・ん?」
ポケットに入れたままのスマホが揺れる。
コソコソと確認してみると秋貴からのメッセージだった。
『見舞いできるようになった』
『春馬のこと、姉さんが待ってる』
病室の番号と一緒にそんな文章が送られてきた。
ようやくの連絡だ。僕の待ちわびていた内容だ。
僕はすぐに『わかった』とだけ返して、でも、僕が会いにいっていいのだろうかと躊躇してしまう。
もちろん会いたい。自分の目で無事であることを確かめたい。
だけど、どんな顔をして会えばいいのか分からなくて、僕は動けないままだった。
「・・・・・・?」
またスマホが揺れる。今度はメッセージアプリじゃない。
一通のメールだ。しかも電話番号からのショートメール。
今時そんなメールを送ってくる知り合いを僕は一人しか知らない。
『絵、描こう?』
たった一言だけ。そんなメールだった。
僕は返信するなんて思考は浮かばず、授業が終わった同時に大学を出た。
どんな顔をして会えばいいのか悩んでいたことなんて頭から完全に抜け落ちていた。
ただ一刻も早く彼女に会いたかった。
ただ一刻も早く彼女の笑顔が見たかった。
学バスの待ち時間も、電車の待ち時間も、どれもが遅く感じる。早く来いと祈るような気持ちで病院へと向かう。
病院の中は走らないように、けれども許されるくらいの早歩きで進んでいき、
「春華さん!」
そして、伝えられた病室のドアを開いた。
「春馬・・・・・・?」
そこにはベッドの上で少し驚いた表情を浮かべる彼女の姿があった。
少し痩せただろうか。ベッドにいるから弱々しく感じてしまう。
「驚いた。こんなに早く来るなんて」
春華さんは悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「そんなに私に会いたかったのか、青年?」
「当たり前でしょう」
彼女に近づく。
「本当に心配したんですから」
「そか、ごめんね」
「今は大丈夫なんですか?」
「まあ、一応ね」
一応という言葉が胸に刺さる。
でも、それはそうだ。風邪みたいに治って終わりということはないだろう。
「本当にごめん。迷惑ばっかかけちゃって」
「いいですよそんなの」
「でも、お父さんにもなんか言われたって聞いたから」
「ああ、それは・・・・・・」
「私からきつぅぅぅく叱っておいたから、春馬は何も気にしないでね」
「・・・・・・そうですか」
とはいえ、じゃあ気にしない、なんてことはできない。
「春華さん」
僕はここにいて迷惑じゃないですか? もう来ない方がいいですか?
そんな言葉が口から漏れそうになる。
「春馬」
春華さんは全て分かっているような様子で僕の手を取った。
「今まで通りでいいよ」
「今まで通り、ですか」
「うん。春馬が来てくれるの嬉しいから。来なくなったら寂しくて寿命が縮んじゃうよ」
「それは笑えないですよ」
「じゃあ、今まで通りに過ごして」
「・・・・・・はい」
なんて強引な人だ。そんなこと言われたら頷くしかないじゃないか。
「ま、それも長い時間じゃないけどね」
「そんなに、悪いんですか」
訊きながら、すぐに後悔する。
そんなこと知ったってどうすることもできない。ただ傷つくだけだろうに。
「うーん、悪いねぇ」
春華さんは顔色一つ変えずに答えた。
「自分でも分かるんだ。もう長くないって」
「・・・・・・そんなの、気のせいかもしれないじゃないですか」
「これが気のせいじゃないんだな。実際に数値だって悪くなってるからね、本当は入院している意味もないんだよ。もうどうしようもないから。こうして入院してるのは、ま、親の意向だね。わずかな可能性に賭けてってやつ」
「どうしようもないって・・・・・・」
「もう治りません。助かりませんことかな」
あっけからんと言う。
「引いた?」
「引きまくりです」
「そっか、ごめんね」
「あなたが謝ることじゃないですよ」
春華さんが悪いわけじゃない。誰も悪くないのだ。
「一つ訊いてもいいですか」
「この際だよ。一つと言わず何でも答えてあげようじゃないか。何? スリーサイズ? そんなの知りたいなんて青年も男の子なんだなぁ」
「この空気で茶化さないでください」
「ごめんごめん。で、何かな?」
「どうして僕と仲良くしようと思ったんですか?」
「うーん、難しい質問」
「そうですか?」
「うん。だって友達を作るのに理由なんて必要ないでしょ?」
それはその通りだ。
「なんとなく。余生の暇つぶし。波長が合った。どれも当てはまるけど・・・・・・あ、でも一つだけ明確なものがあるかな」
「なんですか」
「一人でいるのが嫌だったから」
「それで白羽の矢が立ったと」
「そうだね。嫌だった?」
「色んな感情が混ざって簡単には言えないですけど」
出会えて嬉しい気持ち。
この先別れが来る苦しい気持ち。
言葉にするのは難しい。でも、やっぱり、
「僕でよかったです」
「え?」
「この病院に入院して、春華さんの友達になれたのが僕でよかった」
「そっか。そっかそっか」
「はい」
「嬉しいこと言ってくれるね、青年」
「当たり前のこと言っただけですよ」
カチャリと眼鏡を掛け直す。
「あ、照れてる」
「そんなことないですって」
「そう言いつつ、顔は少し赤くなってるんだな」
「気のせいですよ!」
そんなことを言い合って、僕達は二人笑い合う。
「さて、今日は何をしますか」
笑ったおかげで少し気分が切り替わった。なるべくいつも通りでいようと話を振る。
「あ、でも、体調考えたらそろそろお暇した方がいいですか」
「ううん、大丈夫。ここで帰られたらもっと体調悪くなるよ」
「え、そうなんですか」
「そうなんです」
そう言われたら帰るわけにはいかなくなる。
「でも、何します?」
「うーん。そうだなぁ・・・・・・流石に今は中庭に出られないからね」
それはそうだ。倒れてから二週間、点滴もまだ繋がったままだし。
「私としてはここでお話続けるのもいいけどね」
「そうですか?」
「うん。でも、それじゃあ春馬が暇でしょ」
「そんなことないですよ」
心からそう思う。春華さんと話しているのは何よりも楽しい時間だ。
「ほんと?」
「本当です。嘘なんかつきませんよ」
「そかそか。じゃあ、決まり。今日は一日お話の日だね」
「はい」
「それじゃあ、春馬の話聞かせてよ。昔話」
「僕の話ですか?」
「うん、だって私の過去話なんてほとんど病院生活だから楽しい要素皆無だよ? それなら春馬の話の方が盛り上がるでしょ」
「いや、それはどうかな・・・・・・」
僕の人生だって今まで平々凡々なものだ。
これといって面白い要素があるとは思えないのだが、ワクワクとした目で求められてしまったら話さないという選択肢はなくなってしまった。
「あんまり期待しないでくださいよ」
「大丈夫、めっちゃしてる」
「ハードル上げてくるな・・・・・・」
コホンと咳ばらいを一つ。それから昔話を始める。
小学生の頃から人見知りの激しい性格だったこと。
そのくせ独りぼっちが嫌いだったこと。
認められたくて絵を描き続けていたこと。
中学生の頃、美術部に誘われたけども断って後悔したこと。
話してみると本当にしょうもない人生を送っているなと思う。でも、そんなしょうもない人生の話を春華さんは真面目に、ときに楽しそうに聞いてくれて、僕は嬉しかった。
「まあ、こんなところですかね」
話し終えて一息つくと、気が付けば日が傾き始めていた。
「なんだよ、結構楽しい時間過ごしてるじゃん」
「最後はずっと絵を描いてる場所の話でしたけどね」
「いいじゃん。絵描きって感じで」
「そんな大層なもんじゃないですよ」
ただの趣味なのだから。
「ねえ、春馬」
「なんです?」
「一つ質問してもいい?」
「ええ、はい」
「春馬はさ、昔は独りぼっちが嫌だったって話してたけど、今は大丈夫?」
「今ですか」
言われてみると、いつの間にか友達の少なさに慣れてしまっていた気がする。
「今は・・・・・・」
だけども、思い出してみると友人と呼べる知り合いができていた。
冬木の顔が浮かぶ。
秋貴の顔が浮かぶ。
そして、目の前に春華さんがいる。
僕にはそれで十分だ。
「春馬?」
「ええ、今は大丈夫ですよ。友達も少ないですけどいますし」
「そっか」
優しい笑顔で頷いて、
「じゃあ安心だね」
そう呟くように言った。僕はその意味を理解したくなくて、
「・・・・・・春華さんもその一人なんですからね」
「そっか。なんか嬉しいね」
「あ、友達と言えば――驚きましたよ、秋貴のこと」
話題を変える。
「え、秋貴? 秋のこと?」
「弟がいることは聞いていましたけど、まさか秋貴が弟だって知らなかったですもん」
「あー、私も春馬と一緒の大学だって知らなかったし。アイツ、自分のこと話さないから」
「そうなんですか」
「そう。昔は「お姉ちゃん、お姉ちゃん」って私の後ろをついてくるような子だったのに、いつのまにかチャラチャラした感じになっちゃってさ」
「仲が悪いってことはなさそうですけど」
「まあ、そうね。ごくごく普通の姉弟仲だと思う。春馬は兄弟とかいないの?」
「一人っ子です」
「そうなんだ」
春華さんは「こればっかりは親次第だからね」と言葉を続けて、
「ま、これからも秋と仲良くしてあげてよ。見た目は不良っぽいけど、中身はそうでもないからさ」
「もちろんです」
「うん」
「それにしても」
「どうかした?」
「今のはお姉ちゃんって感じでしたね」
「そりゃお姉ちゃんだもん」
そんな雑談を続けて。
その日の面会時間終了まで僕達は話続けていた。