6
向かった先は僕達が入院していた病院だった。処置室に運び込まれる彼女を見送る。
どうしてこんなことになったんだ。
元から体調が悪かった? 僕が連れ回しすぎた?
後悔ばかりが募る。もっと春華さんのことを見ていれば、体調を気にしていれば、こうして彼女が倒れることなんてなかったかもしれない。
「・・・・・・無事でいてください」
祈るような気持ちで椅子に座り、医者が出てくるのを待つ。
どれくらいの時間が経ったか。
長い時間、いや、そうでもないのかもしれない。
「あ・・・・・・」
壮年の男性と女性、そして見知った男がやってきた。
「秋貴・・・・・・?」
「春馬」
「なんでここに」
言いながらも答えは分かっていた。
だってこの場に訪れるのは春華さんの身内だけだからだ。
「君が、春華さんの弟だったのか」
「・・・・・・ああ、そうだ」
秋貴はそう頷いた。
そして、何故秋貴は僕に話しかけたのか、優しかったのかを察する。
おそらく春華さんから話を聞いて僕のことを知ったから接触したのだ。
「黙っていて悪かった」
「いや、それは」
別に悪いことじゃない。
お互いに素性を話したわけじゃないのだから。
「それで、姉さんは」
「今は処置室で」
「そうか」
「えっと・・・・・・」
何か言わなきゃいけないと思い、言葉を探していると。
壮年の男性が近づいてきて、僕の胸倉を掴んできた。
「あなた!」
「親父!」
女性と秋貴が声を出すが、そちらに気を取られることなく僕を睨みつける。
「お前が、お前が春華を誑かしたのか」
「た、誑かした?」
「あの子は外出していい体調ではなかった! 一時退院すら本来なら許されるものではなかったのに! 最期の機会だからと認めてみればこれだ!」
「え・・・・・・?」
「お前はなんだ、娘を殺したいのかっ?」
「そ、そんなこと・・・・・・」
あるわけがない。
そう言いたいのに、叫びたいのに言葉を上手く発することが出来ない。
まったく知らない人にここまでの怒りをぶつけられたのは初めてのことで、恐怖と戸惑いがごちゃ混ぜになる。でも、それ以上に男性の発言が耳に残った。
一時退院は本来なら許されなかった? 最期の機会?
どういうことだ? そんなに、そんなにも春華さんの体調は悪いのか?
「何か言ったらどうだ!」
「親父、暴力はまずいだろって!」
秋貴が男性――春華さんのお父さんの間に入ってようやく僕は解放された。
ドサリとその場に座り込んで数回咳き込む。
「すまん、春馬。大丈夫か?」
「う、うん・・・・・・」
頷いて、春華さんのお父さんへと視線を向ける。
彼は多少の落ち着きを取り戻したようだったが、それでも瞳に宿る怒りはちっとも薄れていなかった。
「帰れ。お前みたいなのがいいていい場所じゃない」
「で、でも」
「わからないのか。迷惑なんだよ。我々にとっても、春華にとっても」
「迷惑・・・・・・」
そうなのだろうか。
僕のやっていたことは春華さんに迷惑をかけていただけだったのか?
「春馬」
手を差し出された。それを取って僕はゆっくりと立ち上がる。
「状況は逐一連絡する。だから、今日のところは帰ったほうがいい」
「・・・・・・うん」
「すまん」
「秋貴が謝ることじゃないよ」
僕は秋貴とご両親に頭を下げてその場を後にする。
後ろ髪を引かれる思いはあった。春華さんの傍にいたかった。
でも、僕にはその資格がなくて。
「あ・・・・・・」
病院から出ると外はいつの間にか雨が降っていた。
昼間はあんなに晴れていたのに、今日の予報は夜から雨だったろうか?
当然傘なんて持っていないが、
「どうでもいいか」
そうだ。どうでもいい。こういう事だって起きるだろう。
僕は濡れることも気にせず雨の中を歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
家に帰ろう。今日のことは忘れよう。
濡れた体を拭いて、熱い風呂に入って、そして寝てしまおう。
「そうすれば・・・・・・」
そうすれば、いつも通りの日常が戻ってくるはずだ。
そう思っているのに。そのはずだと信じているのに。
頭の中から春華さんの存在は離れてくれない。
浮かべていた笑顔。
一緒に並んで絵を描いていた姿。
話すたびに笑って、喜んで、怒って、いろんな感情を見せてくれた彼女。
自分が倒れてもなお、笑顔だった彼女。
その全てが脳裏にこびりついて離れない。
いつも通りなんてもう帰ってこないんだと。
いつも通りなんてまやかしなんだと。今日の記憶が語ってくる。
「・・・・・・くそ」
歩く歩幅が広がる。踏みしめる一歩が早くなる。
「くそ、くそ、くそ」
感情のままに足を動かす。無我夢中に、がむしゃらに走る。
走る。
走る。
走る。
どうして何も言ってくれなかったんだ。
体調が悪いんだって、しんどいんだって、つらいんだって。
言ってくれれば、伝えてくれれば、すぐに病院へ連れて行った。
デートなんて浮かれることはなかったのに。どうしてだ。
走る。走る。走る。
足の骨を折った場所が痛む。ズキズキと痛んでその場で崩れそうになる。
それでも足を止めることはできなかった。むしろいっそもう一度砕けてしまえと願う。
そうしたらあの時が――二人病院で過ごした時間が戻ってくるかもしれない。
走る。
走る。
走る。
そして、遂に崩れた。
痛みのせいか、運動音痴だからか、理由は分からないが、滑るように倒れこんで視界にひびが入る。どうやら眼鏡のレンズが割れたらしい。
そして僕はそのまま動けなくなった。
「くそ・・・・・・くそぅ・・・・・・」
情けなくて涙が出てくる。
僕は何も知らなかった。
春華さんがどういう状況なのか、どんな辛い思いをしているのか。
彼女のくれた一日がどれだけ貴重なものだったのか。彼女の時間がどれだけ大切なものだったのか。
それなのに僕は、馬鹿みたいに笑って。こんな日々が続くと思い込んでいた。
「くそぅ・・・・・・」
いつまでもこうして倒れているわけにはいかない。
それは分かっているのに、身体を動かすことはできないでいて、しばらく全身で雨を受け止めていると、
「あ、あの」
おずおずとした声。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・・」
大丈夫だ。放っといてくれて。
そう言いたいのに口は動かない。
「あの、大丈夫ですか――って、もしかして・・・・・・先輩?」
そう僕を呼ぶのは知り合いでも一人だけだ。
「冬木・・・・・・?」
「そうですよ、先輩こんなところで何倒れてんですか」
「・・・・・・転んだだけだよ」
ゆっくりと身体を起こして。
「転んだって、また脚を痛めたとか?」
「脚は何でもない」
「それならよくは・・・・・・ないですね。とりあえず立てます? 歩けます?」
「うん」
「私の家すぐ近くなんで来てください」
「大丈夫だよ、僕の家もそんな遠くないから」
「大丈夫じゃないでしょう。そんな姿で歩いてたら体壊しますよ!」
手を取られる。冬木の手は温かかった。
「ほら、行きますよ」
引っ張られるように僕は歩きだし、冬木の家へと案内される。
「あらあら」
出迎えてくれたのは冬木のお母さんだった。
「先輩君じゃない」
「どうも・・・・・・」
何度かバイト先にも来てくれていたからか、僕の顔も覚えていてくれたらしい。
「こんなに濡れて・・・・・・すぐにタオル持ってくるわね」
「あ、ありがとうございます」
「シャワーも用意しないと。服の替えはどうしようかしら」
「お父さんのジャージが着れるんじゃない?」
「それがいいわね」
そのままご厚意に甘えてシャワーと着替えを借り、着ていた服も洗濯してもらった。
「あ、あの、何から何まですみません」
温かいコーヒーまで用意してもらって申し訳なくなってくる。
「いいのよー、叶がいつもお世話になってるんだから」
冬木のお母さんは「それじゃあ、私は部屋にいるからね」とリビングから出て行って僕と冬木は二人になった。
「ま、お世話になってるかはともかく、困ったときはお互い様ですからね」
「ありがとう」
「それで」
冬木は本題だと言わんばかりの真剣な顔で。
「いったいどうしたんですか。ただ転んだって雰囲気じゃなかったですよね」
「それは・・・・・・」
「今日、デートだって言ってましたよね。まさか大失敗したとか?」
「失敗、失敗か」
たしかにそうとも言える。
「え、本当にそうなんですか」
「実は――」
僕は今日の出来事をありのまま伝えた。
デート自体は問題なく楽しめたこと、
帰り道で春華さんが倒れたこと、
春華さんのお父さんから怒られたこと、
その時に伝えられた春華さんの身体のこと。
「それは、何と言いますか」
「・・・・・・僕は何も知らなかったんだ」
春華さんがどうして入院しているのか、どういう状況なのか。
「でも、そんなの伝えてもらわないと分からないじゃないですか」
「それはそうだけど、僕は知ろうとしなかったんだ」
聞く機会は何度もあったはずだ。
でも、僕は何もしないでいて。
「それで、先輩はどうするんですか」
「そうだな・・・・・・」
秋貴が春華さんの近況は伝えてくれるだろう。おそらく見舞いに行けるタイミングも分かるはずだ――と思う。だけども、いったいどんな顔をして会いに行けばいいのか分からない。
「どうすればいいのかな・・・・・・」
「それは先輩にしか分かりませんよ」
「そりゃそうだけどさ」
「まあでも、いいんじゃないですか? 何もかも忘れて、なかったことにして、私と一緒にぼっち生活に戻るのも。それはもちろん歓迎しますよ」
「それは・・・・・・」
「できないですか?」
「随分と意地悪な質問だな」
できるわけがない。春華さんのことを忘れるなんて。
「じゃあ、きっとそれが答えですよ」
「答え?」
「忘れられない、なかったことにできない、それなら今を続けていくしかないじゃないですか。どうすればいいかなんて悩む必要ないでしょう?」
「・・・・・・うん」
「これからもその人と関わっていくなら、きっとここが踏ん張りどころですよ」
「うん、冬木の言う通りだ」
それは分かっている。
分かっているつもりだ。
膝に置いた拳をぎゅっと握りこむ。
「だけど、怖いんだ」
「怖い、ですか?」
「・・・・・・僕はただ春華さんといつも通りの日常が続いてほしいと思っていた。でも、彼女にはそんな保証もなくて、いつか、いつか今日みたいに倒れたり、春華さんが僕の前からいなくなる時が来るんじゃないかと思うと、それがとてつもなく怖い」
「先輩・・・・・・」
「だからと言って、僕が彼女のためにできることなんて何もなくて」
「そんなことないですよ」
「あるさ」
自分の非力さなんて痛いくらい自覚している。
「ないです」
「どうしてそんなに言い切れるんだよ」
「いいですか、先輩。そりゃもちろん今から医者になるとか、未知の力に目覚めて病気を治してあげるとか、そういうのは無理でしょうけども。でも、先輩がその人にしてあげるべきことってそういうことじゃないと思うんですよね」
「じゃあ、何が」
「笑顔ですよ」
冬木はにこっと笑顔を作って、
「春華さんでしたっけ。その人、先輩と一緒にいるときどんな表情をしてました?」
「表情・・・・・・」
「ずっとつらいとか、苦しいとか、そんな顔してたんですか?」
「・・・・・・いや」
そんな表情一度だって見たことない。
「笑顔だった」
ずっと笑っていた。にこにこしていて、病気なんて感じさせなくて。
「先輩と一緒にいると笑顔でいられるんですよ。それなら、先輩は一緒にいてあげるべきです。一緒に笑顔を浮かべるべきです」
「けど、作り笑いかもしれない。無理してるだけで」
「作り笑いを浮かべていないといけない人をデートに誘うような人なんですか?」
「それは・・・・・・」
「先輩との時間が楽しいから、笑顔でいられるんじゃないですかね」
「・・・・・・」
そうだと思いたい。冬木の言う通りだと信じたい。
だけど、どうしても都合のいい解釈なんじゃないかと思えてしまって。僕は素直に頷くことが出来なかった。
「もちろん先輩の考えていることも分かりますけどね」
「そうか?」
「もちろんです。これでもぼっち拗らせてませんよ」
「ぼっちは関係ないと思うけど」
「そうですかね。それはともかく」
「うん」
「先輩が私の言葉を信じられないというのなら」
「信じてないわけじゃないよ。確証を持てないと思ってるだけで」
「似たようなものじゃないですか。・・・・・・まあ、とりあえずいいでしょう。私の言葉に確証を持てないと言うなら」
「言うなら?」
「やっぱり直接あって胸の内を全部、何から何まで話すしかないですよ」
「胸の内って」
それは、つまりどういうことだ。
「そのまんまの意味です。つらい思いをしてませんか、苦しい思いをしてませんか、ちゃんと笑顔でいてくれてますかって。全部伝えるんですよ」
「伝える・・・・・・」
「はい。先輩がすべきことって、そういう事だと思いますよ」
「そうなのかな」
「私はそう思います。さてと、そろそろ洗濯が終わる頃ですかね」
冬木は洗濯機の様子を見に席を立ち、僕は一人残された。
胸の内を伝える。
それは簡単なようで、とても難しいことだ。
伝えても、優しさから頷いてくれるかもしれない。
本当の本当の意味で伝わらないかもしれない。
そもそも僕が彼女の傍にいることが許されるのだろうか。
「僕は・・・・・・」
考えていたら今日のことを思い出して泣きそうになってしまう。
「僕は、どうしたらいいんだ」
ただ呟くことしかできなかった。