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足を骨折してからだいたい三週間後。
僕はようやく大学へと登校した。
松葉杖での生活は不便だけども、それも慣れてしまえば問題なく取り扱える。
それに大学が自宅からそこまで離れていないというのも救いだった。
僕が住んでいる町は所謂田舎の都会というやつで、電車で五駅ほど揺らされたら大学の最寄り駅。 そこからは駅前にある大学の学生専用バスに乗って十分も乗っていれば大学の敷地内だ。
後は休んでいた間の授業内容だけが心配だったが、今学期の授業が始まったばかりであり、事前に事情を話していたおかげか、プリントと今までの講義内容を先生から教えてもらうこともできた。
こうして僕もだんだんと日常へ戻っていくのだろうと思いつつ、しかし、一つだけ懸念している授業があった。それは専攻ゼミだ。ほとんどの講義は先生が一方的に話して完結するものだが、ゼミだけは少人数でのグループ活動があり、そのメンバーには僕の苦手とするタイプもいるわけで。
「失礼しまーす・・・・・・」
何事もないことを祈りつつ、ゼミの教室のドアを開く。
「お」
「あ」
僕よりも先に集まっていた学生の視線が集まる。というか、どうやら僕が最後だったらしい。
「あ、えっと・・・・・・」
「お、川瀬っちじゃん」
「ほんとだ、おひさー」
「うわ、ほんとに足怪我してんだ。ウケるね」
「いたそー。だいじょぶ?」
名前もちゃんと覚えていない、僕の苦手なタイプである陽キャ二人組が話しかけてくる。
「なに、どしたの?」
「い、いや、どうも・・・・・・」
「話しかけてるんだからさ、ちゃんと返事しなよ」
「ああ、はい、そうっすね」
言うことはもっともなのだが、僕としては放っておいてほしい。
「つか、なんで怪我したの?」
「それは、足を滑らせて、転んだというか」
「だっさ。それで大怪我かよ」
クスクスと笑い声が聞こえる、いたたまれない気分になって固まっていると、
「うるせえぞ」
そんな声が教室の奥から聞こえてくる。
一番端の席に座っている男――彼は僕でも名前を知っていた。岡崎秋貴、浅黒く焼けた肌にいくつもつけられた右耳のピアス。この大学でも目立つ不良っぽい見た目の人だ。
「あ、あれ、どしたん。秋貴。不機嫌?」
「そういうガキみたいなもん見せられたらな」
彼の発言で笑っていた陽キャ達が黙る。何とも言えない空気が教室に流れ出したところで、ガラガラと教室のドアが開かれ、
「あれ、どうかしたのですか」
この専攻ゼミ担当の教授が教室に入ってきた。
「あ、川瀬君。退院おめでとう」
「は、はい。どうも」
「さて、それでは授業の時間は始まってますからね。皆さん席についてください」
教授の言葉で授業が始まる。僕は救われた気持ちになって席に着き、真面目に授業を受けた。
そして授業終了後。
「なあ、おい」
「え?」
「お前だよ、お前」
「あ、は、はい」
何故だか岡崎秋貴に呼び止められた。
「この後暇か?」
「え、ええ、一応」
「そか、ちょっと付き合えよ」
そんな一言に身構える。
さっきの陽キャ達もそうだが、彼とも住む世界が違う――というか、彼だって陽キャの一員だ。僕なんかにわざわざ声を掛けるなんてノートを写させてほしいとか、昼飯を奢れとか、返さないけど金を貸せといったものに違いない。
「おい、何ぼーっとしてんだ」
「あ、いや・・・・・・」
「さっさといくぞ。時間もねえし」
「え、あ、はい」
恐怖はあるが断る勇気もない。僕は言われるまま彼の背中についていき、校舎を出てすぐ近くのコンビニまでやってくる。そこにある喫煙スペースで立ち止まって、岡崎秋貴はポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「ふうぅぅ・・・・・・」
煙を吐き出して、岡崎秋貴はようやく口を開いた。
「ほんと不便だよな。一服するためにわざわざ学校から出ないといけないんだから」
「そ、そうですね」
「ちょっと前までは学校内に喫煙スペースがあったんだとさ。禁煙ブームなのかなんだか知らねえけど、全部撤去されっちまって。教員用はどこかにあるらしいんだけど、学生にもせめて一か所くらいは残しておけって話だよな」
「まあ、そうですね、はい」
「・・・・・・なあ」
「な、なんですか?」
ついに来たか。本題が。
「さっきから気になってたんだけど、なんで敬語? 俺達タメだろ。・・・・・・タメだよな?」
「た、多分」
岡崎秋貴は身長も雰囲気も僕と比べてずっと大人びて見えるが、同じ大学三年生だ。おそらくは同い年だろう。
「じゃあ、敬語じゃなくていいだろ」
「う、うん」
じゃあそういうことで。そう言いながら煙を吐き出す。ただ煙草を吸っているだけだ。いったい僕に何の用があったんだ。
「え、えっと、その、岡崎君は僕に何か用があったの?」
「あん?」
「いや、付き合えって言うから何か用があったのかなって・・・・・・」
「ああ、そうそう」
思い出したように言って、
「ああいうの気にすんなよ」
「ああいうの?」
「ほら。さっきのゼミでさ。ああいうガキみたいなやつらシカトしとけ」
「え、あ、うん」
「つかウゼエ奴らだよな。別に怪我したくてしたわけじゃないっつー」
僕は何故か励まされていた。
「成人してもガキみたいなことしててさ。見てるこっちがイライラしてくるわ」
「え、えっと」
「そだ。なんかあったら言えよ。助けてやっから」
「は、はあ、どうも」
頷きながら、いったいどうしてこんな話になっているのか分からないでいた。励ましてもらっているのはもちろんだが、助けてもらうほど僕達は親しくないはず。そもそもまともに話したのだって今日が初めてだ。
「お前、次の授業はねえの?」
「う、うん。今日はもう終わり」
「そか。じゃ、俺次のコマあるから」
岡崎君は吸殻を捨てて校舎の方へと体を向ける。次があるのにここまで煙草を吸いに来たのか・・・・・・授業に遅刻するんじゃないのか?
「あ、一つ聞き忘れてた」
「は、はい」
「お前、名前なんつーの」
今まで名前も認知してもらってなかったらしい。まあ、別にいいんだけど。
「春馬。川瀬春馬」
「そうか。オーケー、春馬。俺は岡崎秋貴。秋貴でいい」
「う、うん」
「じゃ、またな、春馬」
「あ、うん。また・・・・・・」
結局何がなんだかわからないまま岡崎君――もとい秋貴は去っていった。
最後まで彼が何を考えているのか分からなかった。
リハビリ通院の日、その出来事を春華さんに話すと、
「へえー、よかったじゃん、友達が出来て」
「友達って言えるんですかね」
「立派な友達でしょ」
春華さんは「めでたい」と笑うが、僕は腑に落ちないでいた。
「まあまあ青年。いったい何を悩むんだい」
「悩むって程じゃないですけど、やっぱり友達とは違うような気がするんですよね。知り合いがいいところなんじゃないかなと」
「ふーん? じゃあ春馬にとって友達ってなに?」
「友達ですか?」
言われてみて、いったい何だろうと頭を捻る。
「えっと、それは、あれですかね。一緒に遊んだり、話したり・・・・・・」
「知り合いよりも親しくなったような?」
「そう、そうです」
「じゃあ私は春馬にとって友達?」
「それは、そうですね。僕にとってはそのつもりですけど」
「ありがと。でも、私にとって春馬はまだ知り合い程度かなー」
「え」
思わず変な声が出る。
「冗談冗談、落ち込むなよ。青年」
「い、いや、別に落ち込んでないですけど」
嘘だ。少し傷ついた。
「まあ、私が言いたいのはさ、別に線引きしなくていいんじゃないってこと」
「線引き、ですか」
「そそ。友達とか、知り合いとか、明確なラインがあるわけじゃなくて自分の気持ち一つじゃないの。この人は親しくないから知り合い。この人は親しくしてるから友達。そういうのも間違いじゃないと思うけどさ、向こうが歩み寄ってくれて、春馬が悪い気持ちじゃないなら友達の括りでいいんじゃない?」
「そうですかね」
「というわけで、新しい友達ができておめでとう、春馬」
「まあ、どうも」
「お、素直で偉い」
ぐりぐりと頭を撫でられた。
もちろん恥ずかしいが払いのける気にもなれなくて、そのまましたいようにさせておく。
「さて、今日もお絵描き?」
「そのつもりですよ」
鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出す。
「春華さんも描きます?」
「んー、いいや。私、どうにも絵心はないんだよねえ」
「そうなんですか?」
「私の絵はすごいよ? 入院してる子供に「ライオン描いてー」と頼まれるとするじゃん」
「はい」
「当然、よっしゃ任せろー! と私は描くわけだよ」
「はい」
「そして完成! 自信満々に見せると「このおサルさんなに?」って返された時の悲しみ」
「それは、まあ」
悲しいというかなんというか。
サルに見えるようなライオンの絵を描けるのもある意味才能ではないだろうか。
「というわけで、大人しく横で見てますよ」
「そうっすか」
「はい。あ、でも、会話のキャッチボールはしてよね。してくれないと寂しいから」
「それはもちろん」
スケッチブックに視線を落としつつ返事をする。
「ところで春馬」
「なんです?」
「絵描きになりたいわけじゃないって、前に言ってたけどさ、それなら将来的な目標とか夢とかってあるの?」
「パッとすぐには思いつかないですね。あ、ブラック企業には勤めたくないかな・・・・・・」
「そりゃ誰だってそうでしょうよ。てか、そういうんじゃなくて、もっと大きい何かはないの?」
「と言われましても」
生まれてこの方夢らしい夢を抱いたことはない。
もちろん幼少の頃に戦隊ヒーローになりたいとか、宇宙飛行士になりたいとか、アニメのロボットを現実に作りたいとか、そういった夢は抱いたこともあるだろうけども。
「でも、大学に進学したってことは何かしたいことがあったんじゃないの?」
「その逆ですよ」
「逆?」
「したいことがないからとりあえず進学したんです」
「夢がないなぁ」
「そんなこと言われても」
ほとんどの学生が大きな理由も持たずに大学まで進学しているだろう。
義務教育は中学生までだが、高校に大学と暗黙の了解のごときレールが用意されているのだ。
「じゃあ、春馬は将来のためにやってることはないのか」
「ないですね、やっぱり資格の勉強くらいはしといたほうがいいんですかね」
「そりゃどこに努めるかによるでしょ。普通の会社を務めるのに栄養士の資格を持っていても仕方ないじゃん」
「それはたしかにそうですけど」
「長い人生なんだからさ。大きな夢の一つや二つくらい持ってもバチは当たらないと思うけどね」
「はあ」
と言われてもやりたいことが突然降ってくるわけでもないし、できることなら就職もしたくないし、就活だって考えたくもないのだ。今のままだらだらと学生をやりつつ、ときたまバイトでもして――
「あ」
それで一つ大切なことを思い出した。
「ん、どうかしたの?」
「ああ、いや、退院したこと連絡しなきゃいけない場所があったんですけど、すっかり忘れたこと思い出して」
「どこ?」
「バイト先です。出勤できるようになったら連絡してって言われてたんですけど、一応退院したことも伝えておかないとと思って」
「そりゃいけないね。すぐに連絡しないと」
「はい、ちょっと失礼しますね」
幸いにもこの時間ならお店も忙しくないはずだ。
ポケットからスマホを取り出して、電話帳に登録している番号に電話を掛ける。
数回のコールで、『お電話ありがとうございます』と聞き覚えのある男の人の声が出た。
「あ、お疲れ様です。店長。川瀬ですけども」
『ああ、川瀬君。お疲れ様。どうかしたの?』
「連絡遅くなってしまったんですけど、先日、退院しまして。そのご報告を」
『おー、そうなんだ。それはおめでとう。出勤はまだできないんだよね?』
「それは、はい。まだ松葉杖の生活で。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
『いいよいいよ。出勤できるようになったらまた連絡ちょうだい。待ってるから』
「はい、すみません。失礼します」
電話を切って「ふう」と息を吐きだす。
「お疲れ様。大丈夫だった?」
「はい」
「春馬はなんのバイトをしているの?」
「普通にコンビニのレジ打ちです」
「へえ、接客業か。なんか大変そう」
「まあ、ときたまめんどくさいこともありますけど、慣れちゃえば結構楽なもんですよ」
「そんなもんか」
「そんなもんです」
「じゃあ、あれだね。将来は接客業の就職とかいけそうだね」
「まあ、たしかにバイトの経験は活かせるかもしれないですけど。個人的には遠慮したいかな・・・・・・」
「どうして?」
「だってブラックって聞くじゃないですか」
「またそれかー」
「結構重要ですよ」
「気持ちは分かるけど」
「はい。それに楽なのはアルバイトの立場だから言えるのであって、また立場が変わったら大変だと思うんですよね。色んな責任が付きまとうと言いますか」
「責任のない仕事なんてないと思うけどなー」
「それはそうかもですけど、僕は極力背負いたくないんです」
「ゆとり世代だ」
「そうですよ。まあ、就職先の一つの選択肢としては頭に入れておきますけど」
背に腹は変えられないと思うときもくるかもしれない。そんなことは考えたくないけど。
僕達はそんな風に語って、笑って、今日の時間も過ぎ去っていく。