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 深夜、僕は寝付けないでいた。

 今まで寝る間を惜しんで絵を描き続けていたからか、疲れがでて逆に眠れないのかもしれない。ぼーっと天井を眺めて睡魔を待っていると、時間としては不釣り合いな着信が部屋に鳴り響く。

「誰だ・・・・・・?」

 こんな時間に電話なんて。スマホの画面を見ると秋貴からだった。

「もしもし?」

「よかった! 起きてたか!」

 らしくない随分と慌てた声。

「あ、ああ、うん」

「早く来い。病院まで」

「え? 病院って・・・・・・」

「姉さんが呼んでるんだ。頼む」

「春華さんが・・・・・・?」

「ああ、だから早く」

 電話が切れる。僕はベッドから跳ね起きた。

 パジャマ代わりのTシャツを脱ぎ捨てて私服に着替える。その時間さえも勿体ない。

 焦るな、焦るな。自分に言い聞かせる。

 ただ僕を呼んでるだけ、ただ僕と話したいと思っただけだ。きっとそうに違いない。

 病院まで走る。こういうときになんで自転車を持っていないんだと後悔した。

 もう足は痛まないのに、何度も転びそうになって。それでも全力で足を動かす。

 ようやく病院までたどり着くと、入口で秋貴が待っていた。

「秋貴っ」

「・・・・・・来たか」

「春華さんは?」

「こっちだ」

 彼の後ろを付いていく。

 案内された場所はいつもの病室。そこには春華さんの両親も集まっていた。

 どういう状況なのかそれだけで察してしまう。

「よく来てくれた、春馬くん」

 ただ立ち尽くしていると、春華さんのお父さんにそう声を掛けられた。

「春華の傍にいてやってくれないか」

「・・・・・・はい」

 促されるまま歩き、いつも座っている椅子へ腰を下ろす。

 優しく手を握った。とても冷たい手だった。

「春華さん」

 かすれた声が出る。

「春華さん」

 今度はちゃんと発音できた。

 それに反応して、彼女はうっすらと目を開くと、

「・・・・・・やあ、青年」

 弱々しい声。

「はい、春華さん」

「来てくれたんだ」

「はい」

 当たり前だ。あなたが呼べばどこへだって駆けつける。

「春馬」

「何ですか」

「ごめんね」

「何を、どうして謝るんですか」

「・・・・・・頼み事。聞いてあげられなくなっちゃった」

 弱々しく笑う。

「そんなこと、どうでもいいじゃないですか、気にしないでください」

 ぎゅっと握る手に力を込めて、

「というか、そんなこと言わないでくださいよ」

「でもさ」

「いいんです。僕ができることをしただけなんです。僕があなたにしてあげたかったことをしただけなんです。だから、春華さんは何も気にしなくていいんですよ」

「うん」

「だから、謝らないでください」

「うん」

 それ以上の言葉が出ない。

 もっと会話したいのに、もっと言いたいことがあるはずなのに。

「ねえ、春馬」

「なんですか」

「また一緒に絵を描きたいね」

「はい」

「いっぱい描いたもんね。病院の中庭、病室からの風景・・・・・・」

「ええ、いっぱい描きましたね」

「それから海も」

「そうですね」

「また一緒に行きたいなー」

「はい」

「穏やかな風、潮騒の音、大きくて広い海。全部覚えてる」

「僕もです」

「もちろん服を見たことだって覚えてるよ。私の選ぶ服は子供っぽいっていうし、春馬、下着コーナーで動揺してるところとか」

「はい」

「でもさ、やっぱり海が一番かな」

「楽しかったですか?」

「うん。海に入ってさ、冷たくて」

「春華さん、止めたのに行くから」

「うん」

「それから絵も描いたよね。楽しかったなー」

「はい」

 どれも忘れられない。忘れることなんてできない。

 忘れようとしたって、忘れられない。

「春馬」

 僕が握っている手を持ち上げる。誘導してあげると僕の頬へと触れた。

「泣かないでよ、春馬」

「泣いてなんて」

「泣いてるよ。まったく、泣き虫だなぁ」

 そう言われてようやく自分が涙を流していることに気が付いた。

「春華さん・・・・・・春華さん・・・・・・」

 気が付いてしまうと。涙がとめどなく溢れ出てくる。

 もう止められない。嗚咽だって出てきそうだ。

「生きて、生きていてくださいよ・・・・・・それだけでいいんです・・・・・・」

 言わないつもりだった。黙っているつもりだった。

 そんなこと言っても傷つけるだけだって、でも僕には堪えられなかった。

「ごめんね」

「謝らないで、ください・・・・・・」

 謝ってほしいわけじゃない。

 そもそも謝るようなことじゃないんだ。だって、春華さんは何も悪くないんだから。

 僕はしばらく春華さんの手を握りしめて泣いた。

 ようやく落ち着いたところで、

「大丈夫?」

「はい・・・・・・すみません」

 今にでもまた涙がこぼれそうになるけど堪える。

「春馬」

「なんですか?」

「少しだけ皆と話す時間をもらってもいい? 春馬ともお話してたいけど、このままじゃ親不孝になりそうだから、ね。皆の顔も見せてほしい」

「わかりました」

 僕は少し逸れて春華さんに家族の姿を見えるようにする。

「お父さん」

「ああ」

「ありがとね、遺影使っていいって言ってくれて」

「・・・・・・ああ」

「ありがと、ごめん」

「謝らなくていい。謝らなくていいんだ」

 春華さんのお父さんが頷く。

「お母さん」

「うん」

「ありがとね、いっぱい迷惑かけちゃって」

「いいのよ。もっと迷惑かけなさい」

「うん。ごめん」

 春華さんのお母さんは口元を抑えて、今にも崩れてしまいそうだった。

「秋」

「姉ちゃん」

「真面目に生きてね。ちゃんと彼女とか作って、ちゃんと子供作って」

「ああ・・・・・・ああ・・・・・・」

「ちゃんと春馬と仲良くするんだよ」

「もちろんだ」

 秋貴は俯いて答える。

 僕はただ静かにその様子を見守る。

「春馬」

「なんですか」

「家族には挨拶したから」

「でも、もっと・・・・・・」

 話した方がいい。僕なんかに構ってちゃいけない。

 そう言おうとしたところで、

「いいの。残りは二人の時間」

 そう言う彼女は笑顔で、

「それは、光栄ですね」

 だから僕も必死で笑顔を作る。

「あ・・・・・・」

 春華さんの手の力が抜けて、僕は慌てて握り直す。

「えへへ、ごめん。せっかくなのに、眠くなってきちゃった」

「そう、ですか」

「うん」

「少し眠りますか?」

「うん、傍にいてくれる?」

「もちろんです」

「じゃあ、私が眠るまで手を離さないでね」

「はい」

 離せと言われても絶対に離したりしない。

「起きたら、またたくさん話しましょう」

 返事はなかった。その代わり、

「ずっとね。言おうかどうか悩んでたことがあるんだけど」

「悩んでたこと?」

「うん。言わない方が幸せかもしれない。そう思ってたんだけど、言わないと後悔しちゃいそうだから」

「なんだって聞きますよ」

「ありがと」

「はい」

「あのね。好きだよ、春馬」

「え・・・・・・?」

「気が付いたら好きになってた。いつからかな、出会ったとき、絵を描いてる姿、何度も私に会いに来てくれたこと。理由になりそうなのはたくさんあるんだけど」

 僕が言おうと思って、ずっと言えなかった言葉をあっさり口にする。

 動けなくなった。時が止まってしまったかのように。

「ごめんね、私みたいのに好かれても困るよね」

 そんなこと。

 そんなことあるわけがない。

「謝らないでください、謝らないでくださいよ」

 ぎゅっと春華さんの両手を握りしめる。

「僕もです。僕もずっと前から好きだったんです」

 もっと早く伝えればよかった。なんで躊躇していたんだ。

 そうしたらもっと幸せだったかもしれない。幸せを渡せたかもしれない。

「えへへ、両思いだ」

 春華さんは笑顔だった。自然な顔で嬉しそうに。

「はい・・・・・・両思いです・・・・・・」

「嬉しいな、本当に嬉しい」

 春華さんの目から涙がこぼれる。僕はそれを拭って、

「僕も、僕も嬉しいです。最高です」

「春馬」

「はい」

 手を握る力が少しだけ強くなった。

「春馬」

「はい」

「幸せになってね」

「それは・・・・・・」

 どうやったら幸せになれるんだ。

 春華さんと一緒にいることが幸せなのに。ずっと二人で、幸せでいたいのに。

「たまに思い出すくらいでいいよ。『あー、こんな女もいたなー』ってくらいでさ、そうでないと浮気になっちゃうかもしれないから」

「そんなこと、言わないで、言わないでくださいよ」

 あなたのいない人生のどこに幸せがあるんですか。

「だからさ」

 どんどん春華さんの力が弱くなっていく。

 僕はその分だけ力を込める。落ちないように、離れないように。

「今だけは私のことだけ好きでいて」

「当たり前じゃないですか。今でも、これから先だって・・・・・・」

「うん、ありがとう」

 瞼が閉じる。

「春華さん。大好きです、愛しています。だから・・・・・・」

 こんな別れなんて、幸せになってなんて、あんまりじゃないですか。

「春馬」

「春華さん・・・・・・春華さん・・・・・・!」

 神様っていうのがいるなら、どうか連れていかないでくれ。春華さんを離してくれ。

 何でもいい。誰でもいい。春華さんを救ってくれ。

 祈るような気持ちで手を握る。

「春馬」

 春華さんは笑顔だった。とても幸せそうで、満ち足りていて。

「大好き」

 そうして彼女は眠った。

 穏やかな笑顔で、そんな言葉を遺して。


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