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今日も僕は電車に揺らされ、数駅先の海岸まで来てスケッチブックを広げる。
目の前に広がるのは大きな海。
穏やかな風。
潮騒の音。
身体全体でそれらを感じながら目に映る景色を描いていく。
「先生」
そう声を掛けられた。
僕はスケッチブックから目を離して、声の方へと顔を向ける。
「ああ、君か」
近くに住む高校生の女の子だった。
僕は暇を見つけては絵を描いている。それに興味を持つ子供もいて、僕はそんな子供達に絵を教えていた。この女の子もその一人だ。その中でも一番長く、もう十年くらいの付き合いになる。
「どうしたんですか。今日も絵を描きますか?」
「ううん、今日はいいや」
「そうですか」
無理強いはしない。先生なんて呼ばれてはいるが、僕は教師じゃない。
「ねえ、先生はさ」
「はい」
「ずっと絵を描いてるけど、本当はやっぱり絵描きなんじゃないの?」
「何度も言っていますが違いますよ」
「すごい上手だし、プロなんじゃないかって皆話してる」
「それは嬉しいですけど、僕レベルじゃまだまだ」
絵を描くことは嫌いじゃない。でもそれは趣味の範疇としてだ。専門の勉強も受けていないし、全部独学で知識があるわけでもない。
「じゃあ、ただの趣味?」
「そんなところです」
「どうして趣味になったの?」
「趣味になった理由ですか」
その答えは持っている。
「大学生の頃、好きになった人がいるんです」
「好きになった人?」
「そう。その人が言ってくれたんですよ。僕の絵は嫌いじゃないって」
「へえ、それで嬉しくなっちゃって?」
「最初はそんな感じで。その後はちょっと違います」
「違う?」
「その人と作った思い出を続けていきたかったんですよ」
「結構ロマンチストだね」
「それはどうも」
照れ隠しにかちゃりと眼鏡を掛け直す。
「ねえ」
「はい」
「海は好き? ずっと見ていて退屈しない?」
「退屈なんてとんでもない。好きですよ。なんたって思い出の場所ですから」
「そっか。ここは何も変わらないままだから、好きならいいんだけどね。私は少し見飽きてきたかな」
「変わらない方がいいこともありますよ」
「そう?」
「変わらないからこそ、ここが思い出の場所だって覚えていられるんです」
「そっか」
女の子は納得したように言った。
「君は何か悩み事ですか?」
「どうして?」
「いや、珍しく質問が多いなと思いまして」
「絵のことはいつも質問してるじゃん」
「それ以外は踏み込んでこなかったでしょう」
「そ、それはそうだけど」
少女は少し言い淀んで、それから悩みを打ち明けてくれた。
「進路でさ、ちょっと悩んでて」
「そうか、もう高校生ですからね」
「先生はどうだった? 高校時代とか、大学時代とか」
「どうだったと言われましても、どこにでもいる普通な感じでしたよ」
「普通な感じだったら、そうやって絵を描いたり、誰かに教えたりしてなくない?」
「そんなことはないと思いますけど」
「ね、聞かせてよ。先生の話」
「別に構いませんが・・・・・・」
少し思い出してみても、高校時代なんて語れる思い出がない。
「せっかくだし、その好きだった人の話とか聞かせてよ」
「それ、あなたの進路と関係ないと思いますけど」
「いいじゃんいいじゃん。女の子は恋バナが好きなんだよ」
「そんなに面白い話じゃありませんよ?」
なんせ大学時代の半年にも満たない時間の話だ。
「そんなことないって。先生の昔話面白そうだし」
「絶対にそんなことないと思いますけど」
・・・・・・まあ、いいか。
この場所が大切な思い出になった出来事でもある。
「絵を描きながらでよければ話しましょう」
「うん、やった」
少女は僕の隣に座った。
「では――」
僕はスケッチブックに絵を描きこみつつ、昔の記憶を思い出しながら語っていく。
*
長い人生だ。
生きていれば怪我や病気は誰にだってある。入院することだって珍しいものじゃない。
ただ、僕――川瀬春馬は自分の情けなさを嘆いていた。
大学三年の春。
大学生活にも慣れ、新しい季節に一喜一憂する年齢でもなくなり、今まで続いてきて、これからも続いていくであろう連続した日々の中で怪我をした。具体的には足を滑らせて階段から落ちた。
運動音痴の僕だ。満足な受け身も取れず、そのまま転がり落ちて右足を折ってしまった。
痛いし、動けないし、初めて救急車に乗る羽目になった。運び込まれたのは近所の病院で幸い自宅から徒歩圏内にある場所だった。
両親からは命の別状も後遺症の心配もないと知ると心配もそこそこ馬鹿にしてくる始末で散々な目に遭ってしまったものだ。ギブスをつけられた自分の足を見ていると溜息しか出てこない。
「はあぁぁ」
そして何度目かの大きく溜息を零したと同時だった。
「なーにを辛気くさい声出してるのかね」
そんな声が病室の入り口から聞こえてきて、ビクッと驚く。
「え、な、なんですか」
病院――ましてや入院中の大部屋病室ではおおよそ不釣り合いな声が出る。幸いにも他に入院している患者はおらず、僕だけの貸し切り状態になっていてよかった。
「あはは、驚きすぎ」
外していた眼鏡をかけ、閉じていたカーテンを開く。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
栗色の長い髪をポニーテールに結い、服装は水色の飾り気がないパジャマ。百円ショップで売っていそうなスリッパを履いたその姿に――僕は全く見覚えがなかった。
「えっと、誰ですか」
「誰だと思う?」
「え、いや、わかりませんけど・・・・・・」
まさか訊き返されるとは思っていなかった。
大学の知り合いだろうか。記憶を掘り起こしてみる。
サークルや部活に参加していないから後輩の知り合いはいない。そうなると去年、一昨年でお世話になった先輩か? けれども覚えがないし、こんなにも美人という言葉が似合う人を忘れるとは思えなかった。
「今ちょっと嬉しいこと考えてくれた?」
「な、なんで」
「あはは、冗談冗談」
楽しそうに笑う。
「すいません、えっと、どこかでお会いしたこととかありましたっけ」
やっぱり覚えがない。
正直に聞くと、女性はニコリと笑って。
「いいや、ないよ」
「え?」
「まったくない。初対面」
「そう、ですか」
「うん、はじめして。少年?」
「これでも一応成人してるんですけど」
「そかそか、それなら青年だ。初めまして。青年」
「初めまして・・・・・・」
釣られるように挨拶するが、それなら何をしに来たのだろうか、この人は。
「何しに来たんだって思ったでしょ」
「え、まあ、はい」
ちょくちょく心を読むようなこと言ってくるな。
「いやね、私って入院期間長いのよ。こう見えても」
「はあ」
服装からして入院患者だろうとは思っていたが。
「で、病院って退屈でしょ」
「はあ、まあ」
「考えてもみてよ。外には出れない、遊ぶ場所もない、時間だけは手元にあるの。それを使うには本を読むか、じっと寝てるか、こうして探検するかしかないじゃない」
「そうでしょうね、病院ですし」
探検が病院での行動に相応しいかはともかく。
「自由に使える足があってよかったわ。ずっとベッドに張り付けなんて状況だったら私なら狂っちゃうかも」
「それ、今の僕見て言います?」
「ありゃ」
ありゃ。じゃない。
「それで、あなたは探検ついでに他の入院患者をおちょくって歩いてるんですか?」
「あらあら不機嫌。そんな怒りなさんなって」
反省する様子のない笑顔で、どさりとベッドの脇に座る。
「新しい入院患者が来たって聞いたからね。友達を作りに来たのさ」
「はあ」
「君、名前は?」
「僕ですか?」
「うん、教えてよ」
「・・・・・・川瀬。川瀬春馬です」
「はるま、晴れるに馬?」
「いえ、春の馬で春馬です」
「おお、いい名前だねー」
「どうも」
「私は春華。春の華で春華。春仲間だね。よろしく、春馬」
「あ、ああ、はい。よろしくお願いします」
これが僕と春華さんの出会いだった。
春華さんはそれから毎日のように僕の病室へと訪れてきた。
あるときは、
「やあ、青年」
「あ、こんにちは」
「何してるの?」
「見ての通りです」
彼女の視界に映る通り、何もしていない。
「こらこら、君みたいな若人がそんなんでどうする」
「どうも何も」
することがないのだ。
分かっていたことではあるが、入院生活とはおそろしく退屈なものである。
「しょうがない。ここはお姉さんとお話でもしますかね」
といった感じで一日雑談に費やしたり。
またあるときは、
「ねえ。春馬」
「なんです?」
「今日のご飯やばくなかった?」
「まあ、そうですかね」
病院食は不味い。これはもう諦めることしかできない。春華さんの言う通り、今日のおかずに出てきた煮物のような何かは美味しくなかったけども。
「でも、病院食ってあんなもんじゃないんですか」
「いいや。入院生活の長い私でも、今日のは上位に入るやばさだった」
「え、そうなんですか」
「病院生活の嫌なところの一つだよね。リクエストしようもないから食べたいときに食べたいものは出てこないし、いくら不味くても献立に文句はつけられないし」
「たしかに」
「ということで、今日は私の愚痴を延々と聞いてもらっちゃおうかな」
「はあ。まあ、いいですけど」
「よしよし。まずはね――」
延々と一日愚痴に付き合ったり。
僕達はそうやって時間を使い、日々を過ごしていった。
そして、骨折から二週間後。僕ようやく松葉杖で移動ができるようになった。
車椅子での生活は不便で不便で病室から出ようなんて気にはなれなかったが、一応とはいえこうして自分の足で歩けるようになると、散歩がてら出歩いてみようという気持ちにもなる。
「天気もいいし」
ゆっくりと歩を進めて中庭に降りて、適当なベンチに座ると持ってきた鞄を開く。中身はスケッチブックと鉛筆――今日はここで絵を描こうと決める。
そうしてしばらく目に映る風景をスケッチブックに描き込んでいると、
「やあやあ、今日も精が出ますね」
声を掛けられて振り向く。
「あ、春華さん。こんにちは」
「こんにちは。隣、いい?」
「はい」
十分なスペースはあったが、ほんの少しだけずれる。
「歩けるようになったんだ」
「ええ、今日ようやく」
「良いこと良いこと。でも、退院も近いね、寂しくなるなぁ」
「本当にそう思ってます?」
「もちろん。遊び相手が減るもの」
「あ、そうですか・・・・・・」
しかしこの入院生活、春華さんには感謝している。
彼女の言っていた通り、動けないとなるとどれくらい退屈なのか考えてみただけでも憂鬱だったのだけれど、もともと僕がインドア派であったこと、そして春華さんが毎日のように話し相手になってくれたおかげでそこまでの苦痛はなかったのだ。
「退院しても見舞いにきますよ」
「え?」
「まあ、どうせリハビリ通院だってあるでしょうし」
「そっか。いい子だねえ青年」
頭を撫でられる。
「な、なんですか」
「褒めておこうと思ってね。ありがと。春馬」
「いえ・・・・・・」
はっきりと言われると流石に気恥ずかしい。気を取り直してスケッチブックと向き合おうとしたところで、
「ねえ、春馬」
「なんですか?」
「そういえば病室でもずっと絵描いてたけど、やっぱり絵描き志望なの?」
「いや、そんなことはないですよ」
「そっか。すごい上手だし、プロでも目指してるのかと思った」
「僕レベルじゃまだまだですよ」
絵を描くことは嫌いじゃないが、専門の勉強も受けていないし、全部独学で知識があるわけでもない。
「じゃあ、ただの趣味?」
「そんなところです」
「どうして趣味になったの?」
「趣味になった理由、ですか」
鉛筆を止めて、しばし考えてみる。
絵を描き始めて、それが日課になったのは・・・・・・。
「小学生の頃、写生大会ってあったじゃないですか」
「うん。あれでしょ? 学校の外に出て、近くの公園とかで絵を描くやつ」
「そうです。それで賞を取ったんですよ。きっかけといえばそれですかね」
「へえ、嬉しくなっちゃって?」
「最初はそんな感じで。まあ、その後はちょっと違いました。当時から僕って友達少なくて・・・・・・。誰かに認めてもらえるかもしれない、話しかけてもらえるんじゃないかって、そんな気持ちで書き続けていたら日課に、趣味になっていた感じですね」
「理由が暗いなー」
「すいません」
「でもさ、私は嫌いじゃないよ。春馬の絵」
「それはどうも」
やっぱり恥ずかしい。カチャリと眼鏡を掛け直す。
「おいおい、そんなに照れるなよ青年」
「そりゃ照れますよ。そんなに褒められたことないし」
「そうなの? 美術部とかで評価されそうじゃない?」
「いや、僕、帰宅部でしたし」
「え、なんで」
「なんでって言われても・・・・・・」
自分の絵に自信を持っているわけでもないし、知らない人達と囲まれて絵を描ける自信なんて全くと言っていいほどなかった。しかも趣味で適当にやっているだけの僕が、周りの真剣さについていけるとも思えず・・・・・・。
「あー、ネガティブな理由だ」
「まあ、そうですね」
「よくないぞー。人生は一度きりなんだから。ポジティブでいないと」
「はあ」
言いたいことが分からないわけじゃない。
けれども簡単に根の性格が変われば苦労はしないのだ。
「自分には無理だなとか思ってるでしょ」
「い、いえ、そんなことは」
「あるでしょ」
「・・・・・・まあ、ありますね」
「まったく、ま、すぐにとは言わないけどさ。ポジティブって意気込み忘れちゃダメだよ」
「はい」
僕は春華さんに教わることもあって。
それから一週間後、僕は病院から退院することになった。