第一話 宇宙怪獣と通信機
大学からの帰り道。雨上がりの道を急いで、改札を抜ける。故障中のエスカレーターを横目に見ながら、水気のある階段をかけ足で登った。
店前の傘と新聞紙の並んだキオスクで、定価108円のくるみパンと無糖紅茶をレジに持っていった。合計金額が210円とのことだったので、財布から1000円札を置く。
ついで10円玉を取り出そうと思ったが、ぶっきらぼうな店員がさきに会計を済ましてしまったらしい。小銭がじゃらじゃらと大量である。
……悔しい、と思いつつも、そのままジト目で退店した。すると、それと同時に、駅構内にアナウンスが流れ始めた。
「まもなく1番線に各駅停車、琴吹市行きが参ります」
パンと紅茶を乱雑に「双葉 真白」と自分の名前が書かれたトートバッグにしまい込むと、慌てて電車へ駆けこんだ。今しがた乗り換えた電車は、平日のローカル線ということもあってか、誰も乗せていないようだ。見事に貸し切りである。
車内の端に陣取ったあとに、トートバッグの中に大学のプリントがあったのを思い出した。
紅茶のペットボトルの水滴が紙にくっついてしまってはないか、すこし気になった。
「……し、しまったかも」
バッグを開けてみると、やはりプリントはびしょ濡れになっている。まぁ。いいか、と自分に言い聞かせた。その後は、走る小箱に身体を揺られながら、差し入る朝日に水滴が乱反射する窓を眺めていた。昨夜の雨粒はまだ町全体に残っている。
しかし、もう雨模様は、春の陽気と一緒にどこかへ飛んでいってしまったようで、車内からは、はるか遠くの山脈が見渡せるほどに晴れていた。
トンネルに入るとせっかくの景色も見えなくなって、代わりに自分の姿が映し出された。せっかくの景色が見えなくなったことを残念に思いながらも、その鏡となった窓を眺めた。ひょっこりと寝癖っぽく跳ねた前髪の毛先をすこし整えてみたりしてみる。
そんなことをしていると、突然、車内で音が鳴り始めた。
着信音のような音だった。
いきなりの音に戸惑いながらも、音のする赤い生地のロングシートへ近づいてみる。すると、そこにはスマートフォンのような薄型端末の通信機と思われるものが置かれていた。
「なんでしょうか、これ?」
外見は近未来的なデザインで、とても理知的かつ曲線っぽい造形をしている。一見、スマートフォンかと思ったが、そのどことなく不思議な銀色の光沢が、この世のものとは思えないほど魅入ってしまう未知な光沢を醸し出していた。
周囲を見渡してみても、私のほかに乗客はおらず、依然として持ち主は不明である。
「誰かの忘れ物とかでしょうか?」
もしそうであれば、次の到着駅で駅員に届けたほうがいいかな、なんて思いながら、その通信機を手に取った。
――すると、その瞬間、急に車内の照明が暗転すると同時に、電車が急停止した。
慣性の力で、前に転びそうな身体を咄嗟につかんだ握り棒で繋ぎとめる。
「停電!? 何かあったんですか?」
唐突な車両の急停止と停電。トンネルの中での停止ということもあって、辺りは真っ暗である。しかし、いくらか待っても車内アナウンスが流れることもなく、かといって電車が動きだす様子もない。いつもの車両停止とはなにかが違うと、なんとなくそう思えた。
心を落ち着けようと、深呼吸を何度かしたあとに、肩からずり落ちたトートバッグの持ち手をしっかりと握りなおす。一人でいるのも心細いので、となりの車両へと移ろうとしたその時、向かう先の車両から女性の悲鳴が聞こえてきたのだった。
「助けて!」
反射的に悲鳴のした前車両へ駆け寄り、連結間のドアを開けると、そこには、得体のしれない怪獣がいた。
──電気を帯びながら逆立つ毛並み。
──威嚇するように広げたひだ飾り。
目の前に現れたのは、見たこともない雷獣。私はそれを前に唖然として、息を飲み込むことしかできなかった。ただただその場で立ちすくんでしまうほどの威圧感。それは虎のような、狼のような姿だった。見たことのない造形をしたUMAである。
襟巻蜥蜴のような襟状の皮膚を首元に携えて、丸まった背中と、捕食者のような鋭い眼をしていた。
そして、なによりの特徴は、その身体中の毛先から電気を放電していることだった。電気の衣をまとったように、獣はたしかに帯電していた。その電光を見て、私は、おそらくはあれが停電の原因だろう、と勘づいた。
雷獣は、私がドアを開けた音に反応したようで、私のいる方にゆっくりと振り返る。
その雷獣の奥には、怖気づいて床に座り込んだ女性が見えた。
──こんな時、どうすればいいのか。
あのままでは彼女が危ない。しかし、ここで声をあげれば、きっとあの雷獣は私に飛びかかってくるだろう。
ふと、「困っている人がいたら、助けなさい」という祖母の言葉が脳裏によぎった。
「おりゃあー!」
気がついた時には、もう身体が動いていた。私は、手に携えていたトートバッグを一式丸ごと雷獣に向かって投げつける。
バッグをあてられた雷獣はすこし動揺した様子で、水を振り払うように身体を震わすと、私の方を強く睨みつけた。
「あの、これは、ち、違うんです」
取り乱しすぎて、目線を泳がせながら、獣相手に必死の弁明をしてしまった。いつも臆病者なくせして、こういう時だけ、蛮勇が湧くものだから、まったく自分が嫌になってしまう。しかし、こちらに雷獣の気を引くことで、あの女性からは、引き離すことができたようだ。
怒りを含んだ低音の唸り声が雷獣から発せられた。
ついで、雷獣は車両が震えるほどの遠吠えをあげると、それは、牙を剥き出しにして、こちらに襲い掛かってきた。
とっさに連結間のドアを閉める。かぎ爪が私の目の前でドアの窓を抉った。あまりの恐怖に腰が抜けそうだった。
しかし、幸い、雷獣はドアに爪が引っかかってしまったようで、窓から爪を抜き取るのに、手間取っているようだ。
いまのうちに逃げようと、私は恐怖で目に浮かんだ涙を、片腕で拭って、後方車両へ逃げこんだ。もっと後方へと、さらに私は足を速めていく。
しかし、久しぶりに走ったせいか、私は、足がつったためにその場で躓いて転んでしまった。転んだ拍子に、手に握っていた通信機も手放してしまった。
「……いてっ!」
なんと情けない。
雷獣はドアから爪を振り切ると、電光のような速さで瞬く間に、転んだ私のもとへと距離を縮めた。そして、私を威嚇するように、雷獣は至近距離で再び吠えた。
ああ、こんな雷獣に食べられることになるのなら、もっと運動しておくんだった。あのくるみパンも食べておけばよかった。ぶっきらぼうな店員に一言もの申してやればよかった。
そんなことを走馬灯のように思い浮かべていると、ふと、通信機が光を放った。
そして、眩しさに塞いだ瞼を開けると、目の前には、突然、影のように黒く染まった鯨が私の前で宙に浮かんでいた。
またもや、新たな怪奇が私の前に現れたのだった。