「魔法近代人の常備薬」
頑固者で、マルクスが好きな水亜さんの為にこの小説を捧ぐ。
お前らは俺のことを患者だと思っている。
患者は犬コロと同じ、憐れな仙のしもべである。仙は汚ない。度が合わず、長期的にかけていると視力に影響しそうな古い型の眼鏡をかけるよう、「仙声」で勧めてきたり、「仙声」をかけて、朗の不老不死を少しでも崩そうとする。自分たちは不老不死であるにも関わらずである。頭の髪を自分で撫でると仙からの影響力が落ちる。朗は情が厚いからかなり蓄財をして、その上で皆のために善行を働きたい、その為に大学時代から政治学の古典的名著のマキャベリの「君主論」などを読んできたし、現場現実主義の政治サークル「政中会」の会の活動、盛夏の中、自転車に乗って、蒲田の街を一軒一軒訪ね歩き、「ポスター貼り」をしたこともある。朗は元々は「新聞記者」になりたかったのである。
時は今、コロナウィルスが蔓延し、「魔女の世」が定まるかの様な毎日が続き、渦のように巻く朗の時勢的な上昇志向の気持ちが泡立つ。
朗は王族、ナルニア国の王族の血を遠縁ながら引いている。
朗は、摩族の侵攻を防いで、この街を守るために読書をしている魔法近代人である。
今日から朗は自分の直近だけでもいい、人生を正しく振り返っていきたいと思う。
その前に、犬は気高い一面も持っている事を言わなければならない。朗もそう言う一面を持っている。例えば、青樹家の飼い犬スコッチは家人が何か悪さをすると、気にくわないのであろうか、「そういう事をしてはいけないよ」と吠える。案外正義漢である。朗はと言うと、事小説と本に至っては、己の意見を通すところがある。「気高い」というのとは少し違うかもしれないが、「フェティッシュ」は強い。
朗は大学時代、モード系のファッションに身を固め、政治サークルに顔をだし、小説も夏場の暑い部屋で村上春樹の『ノルウェイの森』などを読んでいた。思想書は橋爪大三郎、他には浅羽朗などを読んでいた。
あるとき、朗は気付く、大学に進むため2浪した苦労人の朗は気付く。
基になる書籍があるはずだ。
「そう言う本を読まなければダメだ」
「何時までも、のび太でいいのか」、とは朗がその時入会を決意した、「政治経済攻究会」の大学院の先輩が違うサークルで書いた、1996年の秋にあった早稲田際で、売っていた学内情報紙のワセクラの「見出し文章」である。のび太はドラえもんに道具を出してもらう一方で、何ら自分では状況を解決する能力を持っていない状況にいつも置かれている。ドラえもんと謂う庇護者によってである。
その先輩は、私がその絵と文を見て、そう言うと、「もっとシニカルな事を言っている。」と少し暗めに笑いながら言った。朗はなにも言わず、テーブルを後にした。
朗が発症し、一年休学後、早稲田大学に復学し、30歳の時に初めて小説を書き緑風社の「フーコー短編文学賞」に応募して、一次審査には通過したものの、結果として落選した時、身体をビリビリした痛みが走った。明確な鋭い痛みだった。
反撃せよ、魔族の侵略に対して。本、CDを読んだり、聴いたりして、言葉による攻撃、呪術やシニフィエ・シニフィアンをかけよう。
朗は精神科の薬を飲めば、気持ちが安定して、「魔法近代人」だが、薬を飲まなければ、今回の魔族の構造転換の新しい自我と意識の影響により、恐らく「天洲族」である。天洲族の朗は「神魚」を完全に召喚することが出来るが、同時に人が悪くなる。気性が高ぶる。人間的な思考力も落ち、何より、ナチュラルな「神話の時代」の自我しか確立出来ないようになる。薬によって整えられた自我は「個人の非本来的な自我」みたいで、よく考えてみると、嫌だったら海外か比較的今までの仙の関係者が居ない別の土地へ引っ越しをすれば良い。人類の未来は仙人の未来と同一ではなく、仙人に現状に不満があるのなら人間を巻き込むことなく、独自の力で何とかすべきなのである。ただし、「声」によると仙人には攻撃に使える戦術がほとんどなく、戦術上、又近場の人として朗を頼らざるを得なかったと言う面はあるようである。
朗は煙草を吸う。毎日、煙草を吸う。変わらない毎日と言うのは大変貴重なものだが、戦乱期、混乱期には、特にそれが二大勢力のぶつかり合いという様相を呈している場合には、誰かが一歩思い切って踏み出さなければ、踏み込んでいかなければ、状況は変わっていかない。そのままでは待っているのは、勢力が均衡している場合は千日手であり、勢力が不均衡に陥った場合は一方が一方を押さえ込む大規模な衝突、軍事的衝突である。今、時間は深夜の3時頃、さっきまで不規則な眠りをしていたが、眠気はない。韓国のミュージシャン、KARAの音楽が流れている。
朗はずっと無職だったが、これと言って不安はなかった。1つには月66000円ほどの障害年金の支給があったからである。
お金は大事であり、日本の社会と言うものはお金を軸として運営されていると言って良い。お金のライフ・プランニングの出来ない人はだめと言う絶対的な前提がある。かく言う朗も家は実家だし、食費も入れていない。払えない支出・カテゴリーだからである。神話の時代の雰囲気を払うため、一箱、一箱を大事に煙草を吸う朗、そんな朗を朗自身は大好きである。飯は、食えるような時代的職業についてから、嫌々生きているような人生に決然とさよならを言おう。神々、仙人たちよ、あなた方間違っていますよ。
犬は意思を持ち、少なくとも神話の時代になって、鳥や犬などの動物は意思を持ち、食物連鎖の鎖の円環の環は崩れつつある。科学は崩壊し、人は気高き血、天洲族の朗を尊ぶようになる。朗が魔法近代人をして、仙の味方をしているのは、「神魔の大戦の世」、つまり、現状が嫌だかに他ならない。
現状を変えていこう、嫌なら変えていこう。
神話が嫌なら、科学をしよう。インターネット、本当に科学ですか?私には現実のコミュニケーションを破壊するデーモンの手先にしか見えません。
朗は小説は書くことによって、生活がドラキュラ化することはあるように思う。悪魔に魔法的コギトをつけ狙われることも正直あり、大変な長編小説なら書く間に作家の「何か」を「何か」が削り取っていくことはあると言える。
文章と言うのは先ず、書かれた側の人のためにあるのであって、小説が弱い人達のために在る、と言うのはそこに根拠があるわけである。
小説を読もう。
朗個人にしてみれば、水亜さんと言う仙の彼女がいる。だから、精神科の薬を飲んで、人間の教養が引き続いて冷静に使える段階まで心や精神のレベルを定着させ、周囲に、人間の教養による力を人間に与える、それで良いはずである。
近所の町名さんはこちらを見て眼を開き、大きく開きびっくりした。
朗が、彼女に「こんにちは」と挨拶をした時である。
よく知っている、朗が子供時代から知っているおばちゃんである。
朗はレモンティーがその瞬間、レモンティーが飲みたくなった。
戦争は大抵個人にろくな体験をさせない。戦っている当事者同士は、英雄気取りの闘争心溢れるヒロイズムの高揚に見舞われているのだろうが、戦場になっている現地ではこのような心暖まらないエピソードに事欠かない。何が戦争の原因かはよく真相は知らないが、早く仲違いを止めて、地上に再び平穏と安寧の日々を取り戻してほしい。