間違ったボタン
「ふう……なんとか間に合った」
汗だくの男がシートに腰かける。ここが始発のため、いつも座ることはできるのだ。
通勤──自宅から会社まで遠いため毎日1時間半はかかってしまう。行き返りの時間が勿体ないという考え方もある。朝起きる時間も他の人より早いし、帰宅も同様に。
しかし、電車に揺られながら男は本を読む。いわゆる自己啓発本といった意識高い系のものではなく、古本屋で何気なく購入したものだ。特に決まったジャンルはない。
揺られはじめて1時間が経過したころだろうか、身体が傾いた。
停車駅を把握しているため、どのタイミングで停車するのか分かっている。無意識に隣の人に寄りかからないようになっていたから、意外に思った。
何が起きたんだ──車内アナウンスが流れる。
「線路内に人が立ち入ったため停車しています。ご理解とご協力お願いいたします」
よくあることだ。それを見越して若干早めに家を出るようにしているから、慌てることはない。のんびり本に目を落とす。
どれだけの時間が経過したのだろうか、一向に動く気配がない。ぽつっと一滴の汗が本に落ちる。
珍しいな、さすがにこれは遅刻してしまうかもしれん──そう思った男は、携帯電話を取り出した。普段真面目だったため、課長には信じてもらうことができた。
ほっとしたからかもしれないが、どっと汗が噴き出してきた。気が付けば空調が止まっている。
澱んだ空気、死んだような眼をしたサラリーマン達。
どうやら停電も起こしているらしかった。おそらく線路内に人が立ち入っただけではなく、他のトラブルも発生したのだろう。真夏にこれは堪える。窓を開けようにも昔と違って開けることができないタイプだった。
「参ったな……」
人からの発熱は60Wの裸電球と同じらしい。どれだけの人がこの小さな車両にいるのだろうか、ものすごい熱量を発しているに違いない。
どんどん上がる温度。もう我慢できない……そう思ったとき、電車が動き出す。ほっとするものの、車内は冷えることなく益々暑くなっていく。
意識が朦朧としかけたときにまたアナウンスが入った。
「申し訳ありません、冷房のつもりが暖房にして運転を再開してしまいました」