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肛門

「なにっ!?」


 私は右手が持てる力のかぎりで折れ曲がりにしがみつく。


 ――なんて揺れだ、こんなの反則だ!


 肉壁は湯のような熱気を帯び、闇のなかで粘液と汗の滴がはねる。その粘りの高まりが、見えなくともフィーリングでよくわかる。


 ロープごと体が浮き上がる。くそ、支えきれない。

 私はやむなく左手につかんでいるロープを手放した。浮遊しながら前方になだれ込み、崖の縁になんとか身体をめり込ませる。


 そこで鼓膜が裂けるほどの大音量が響きわたった。


 粘膜の向こう側でドラゴンが激しく暴れているのだろう。


 とうに麻痺した鼻にゴリ押しの臭気が差し込んでくると同時に、管中を揺らす破壊的な蠕動音がさらに大きくなる。二重三重のやまびこの波状攻撃が私の脳を破壊する。


 下か、上か? とにかく今までたどってきた口側、上流側の空間密度が異様に高まっている。悪臭のざわつき、粘膜の蠢き。こだまの轟音とともに闇が震え、唇をめくり上げるほどの強風が吹き始める。


 頭をよぎるのは堰を切って激しく流れる鉄砲水だ。たぶんドラゴンは今から歴史的な下痢を起こそうとしている。


 ―― 一刻も早くここから逃げなくては。


 だが身体は上下左右に激しく揺さぶられ、縁からふるい落とされないようにするだけで精一杯だ。いや、ふるい落とされたところで大して変わりはないのだろう。


 またもや大きな天地の反転が起こり、私は横行結腸と思わしきパイプの中へと弾き出された。


 いまや上行結腸は下行結腸だ。


 頭から粘膜に叩きつけられ、足から液体状の便の中に沈められる。


 右から波打つ粘膜にトラップされ、左から腕をヒダに絡め取られる。


 いまや下行結腸は上行結腸だ。


 こだまの間隔が密になる。下痢便の急流がもうすぐそこまでに接近している。


 管が縦に回転する。横に回転する。


 私は辛うじて立ち上がり、闇のなか肛門向かって全力で走り出す。


 ――排出が近い。


 この便の勢いに乗れば確実に外まで行けるだろう、でもクソの中で溺れ死んだ状態で外に出されるのだけは絶対イヤだ。


 天井は床だ。床は天井だ。


 荒波のようなアップダウンを繰り返す粘膜のトンネルのなかを駆け抜ける。


 とにかくあの音から逃げる。それだけ。


 壁は地面で、地面は頭の上にある。


 シェイクされた宿便が上から下からかぶさってくる。


 理屈の上では横行結腸を進んでいるはずなのに、まったくそんな実感が湧いてこない。軽減された重力。ソフト過ぎる足場。


 突然、濁流の音が高くなる。


「やばい!」


 土石流の先端が横行結腸の折れ曲がりを通過したのだろう。


 時間がない。


 夢中で手足を動かし続ける。


 下行結腸、S状結腸、直腸、そして肛門。ゴールに近ければ近い位置にいるほど、私が溺れている時間は短くなる。生存確率が上がる。


「あとちょっと!」

 誰に聞かれることもない叫びが自然と口をつく。


 心臓が爆発して、口から飛び出してしまいそうだ。両足は音もなく粘膜にめり込んでは弾き出され、幾度もヒダにひっかかり転びそうになる。時折完全な無重力に襲われ、その場で上下左右にバウンドしているだけのときもある。


 唐突に足場がなくなり、足首をつかまれたかのように下方へ身体が引っ張られた。下方結腸か!? 私はわけもわからず何度も身体を粘膜に打ち付けられながら無様に落下していく。


 そして数秒後、明らかに便と思わしき泥の中にはまり落ちた。


 ならここはS状結腸か直腸か?


 確かめる間もなく、頭の上に迫る絶望的な圧縮感。


 私はドラゴンが一日に一回以上は排便をしてくれているよう祈りながら、鼻をつまみクソの中へ頭から潜水した。


 閉じた目にも暗すぎるほどの濃密な闇に耳がつんとなる。鼻をつまんでいても毛穴からおぞましいまでの腐臭が身体の内側に忍び込む。


 そして私は爪先まで完全に便に沈み込んだ。


 同時に爆発音、次いで凄まじい水圧。


 異様な音がして、全身に黒く重い闇のプレッシャーがねばりつく。圧倒的な流れに意識を持っていかれそうになる。


 圧力と圧力と圧力。


 そして一瞬、宇宙のすべてを凝縮したかのような半端ない緊張がかかって、


 私は突如として圧から解放された。


 酸素が肺に急速に入り込んできた。頭がシャキッとして、全身がすべてを清めつくすすがすがしさに包み込まれる。


 まるで空を飛んでいるみたいだった。


 目が見えなくとも、裸で感じる尋常でない開放感、爽快感に私は自分がドラゴンから排出されたのだということを悟った。


 酸で焼けた皮膚からこびりついた便が剥がれていく。ひりつく肌に冷たい風がピリピリとしみいって、自分は生き残ったのだという喜びをこころの底から実感する。


 私はまぶたの便を拭い、ゆっくりと目を見開いた。


 とてもまぶしかった。


 まぶしくて、あまりにもまぶしすぎて、そして寒くて、私は今自分が置かれている状況を理解する。すぐそこに太陽があるのに、視界が嘘みたいに暗くなった。


 バサッ、バサッという羽音が身体を切り裂く風のなかに消えていく。


 あぁ、私はこの羽音がなくなるまで腹の中で待つべきだった。


 どうせならロープと一緒にパラシュートも作っておくべきだった。


 第二胃でもっと使えそうなものを拾っておくべきだった。


 ものすごい勢いで迫りくる地面を眺めながら私は悔やんだ。


 ――もっと準備をしてくればよかった。



        (了)

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