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大腸

 私は唐突に小腸のトンネルを抜けた。


 前のめりに頭から転がり落ちる。今までの狭い管ほどではないとはいえ、やはり床はソフトかつウェットで、私は粘膜の上でバウンドしつつ前方向に一回転した。


「くっ……」

 痛む首を押さえ、ヒダの隙間に埋もれていくライトをつかんで立ち上がる。


 私は不安定な地についた両足を広げ、つまっていた息を一気に吐き出した。縮まりきった身体に喝を入れるように大きく背を伸ばす。そして、伸びができるということに呼吸が止まった。


 ――回盲部だ。確信した。小腸と大腸が交わる場所だ。


 あたりをライトで照らしてみる。


 管の幅が一気に広くなっている。腐臭を帯びた風が上から下へと吹き下りて、粘膜に囲まれた直径五メートルほどの広場で滞留して音を立てる。


 北もピンク、南もピンク、東も西もピンクだった。


 唯一床から二メートルほどのところに私が出てきた小腸との接合部がある以外、三六〇度どこを見てもピンクの粘膜しかなかった。


 私は明かりを上へと向ける。


「嘘だろ……」

 思わず声に出た。


 壁に沿ってまっすぐに伸びた光は、数メートル程度で闇に飲まれて見えなくなる。ここが回盲部であるとすると、私を取り囲むこの壁は上行結腸だ。上行結腸の長さは人間だと十五センチから二十センチくらいだが、ドラゴンだと……


「畜生!」


 ――私はバカだ。まるでなにも考えちゃいなかった。 


 小腸に吸収されずここまでこれたのはたしかに幸いだった。しかしこれはあまりにも高すぎる障壁だった。


 ドラゴンの羽音はさっきからずっと規則正しく安定していて、体位を変えてくれそうな気配はまったくない。一方、ゴロゴロという蠕動音はあいかわらず不安定で、いつ小腸の方から便の濁流がやってこないともわからず、どうやらこの壁を登る以外にもはや手はないらしい。


 筒状の壁には、一メートルほどの感覚で半月状のヒダが等間隔に並んでいる。


 迷う時間すら惜しく、試しに近くのヒダをつかんでみる。


 ぐにょりと薄気味悪い内蔵の柔らかさ。


 膝を曲げ足もかけてみる。ヒダが壁ごと外側へ大きく動いた。片足立ちのまま足を開き、趾を曲げてなんとか強引にひっかける。


 大腸の粘膜は相当に柔らかいようだ。胃よりももっとずっと柔らかく、足の重みに負けたヒダはすぐにぐにゃりと折れ曲がる。だがやはり、折れ曲がるまでに多少の時間差がある。私はそのわずかなタイムラグを狙い、ヒダからヒダへと跳ね上がるように壁を登りはじめた。


 たった三つヒダをよじ登っただけで限界がきた。


 伸ばした手が次のヒダに届かず、私は底へと落下する。


 なんとか受け身を取って持ちこたえた。尻に鈍痛が走ったが仕方ない。それより着地の反動で腸管全体が大きく揺れ、また、ゴォォォォ、という例の音。恐怖に身体が固まったそのとき、小腸の排出口から勢いよく汚水が吹き出し、私の顔にもろにかかった。


 私は身体を丸め縮こまるしかなかった。今日だけでも何度経験したかわからぬ死の実感を再び味合わされて、どうしようもなく這いつくばるしかなかった。水より比重の重い液体は頭から背中からとどまることなく降り注ぎ、不安定な粘膜の床との隙間に挟まれ溺れそうになる。


 だがもがいているうちに、轟音はあっけなく鳴りやんだ。


 排水は長く続いたが結局は床を水浸しにした程度で、水分のほとんどはヒダの隙間に吸収され、致命的なことにはならなかった。


 おそるおそる立ち上がる。湯気のように体から悪臭がにおいたち惨めだった。だがいまさら、こんなところで諦めるわけにはいかなかった。


 ライトを床に置き、汗と汚水を吸いきって重たくなったインナーウェアを上下ともに脱ぎ捨てる。


 ――どうせ誰も見ちゃいない。裸だろうがなんだろうが死んだら一緒だ。


 脱いだウェアの水気を絞り、適度な長さに千切る。そのボロきれを床に散らばる正体不明のやわい繊維と一緒に撚り合わせて結び、ロープもどきを作成する。先端部は丸めた靴下を二つ結んで輪っかにした。即席の投げ縄といったところか。


 皮のむけた素足に吸い付く粘膜に苛立ちつつ私は腰を落とした。輪からすこし離れたところを右手で持ち、体の側で円を描くようにグルグルと振り回す。


 腸の壁はあいかわらずうねうねと膨らんだり縮んだりしていたが、ここぞという頃合いを見計らい、ロープを思い切り上へと放り投げた。


 投げ縄はきれいな軌道を描いて上空の闇のなかへと消えていく。数瞬後、先端がなにかに当たった感触があったが、特に手応えなく輪っかは手元に戻ってきた。


 私はめげず再びロープを放る。


 だが何度やっても、ロープはどこにもひっかかってくれなかった。


 縄を振りかぶるたびに性器が揺れた。別に下までは脱がなくてもよかったのかもしない……まあ、とにかくなんでもいい。ポリープでも大腸ガンでも構わない。なにか突起のようなものはないのか?


 そんなのあるはずない、お前はここで終わりなんだ、という考えが身を屈めロープを拾うたびに高まっていくが、私はなかばやけになり、サルのようにロープを投げ続けた。


 二十回目くらいだろうか、天井方向から激しい風が吹き、ロープが弾き落とされ、私もよろめき膝をついた。


 立ち上がると便と垢の混じった汗が目に入り、視界がにじみはじめる。両手両足の筋肉はもうとっくに限界を越えていて、正直なぜ動けているのかわからない。


 遠くから、されど無視はできない音量で、やはり聞こえてくるドラゴンの羽音。それは息を荒げる私をあざ笑うかのように単調なリズムを刻み続けている。


 苦い液体が頬から口の中へと垂れる。唾とともに吐き出して、動物じみた奇声をあげる。喉は擦り切れて痰に血が混じる。呼吸するたびヒューヒューと笛のような音がなる。


 それでも私はロープを放り続ける。


 しかしついに大腿の筋肉が攣って、私は涙を流しながら床へ崩れ落ちた。


 ――もう無理だ。


 私は粘膜の井戸の底で頭を垂れた。


 素っ裸のみすぼらしい姿で、汗と涙と粘液と便にまみれ、もうなにひとつ打つ手がなかった。


 ギリギリで自分を支えていた感情がポキリと折れていた。急激に高まった疲労感にあらがえず、そのまま横倒しにヒダのなかへとへばりこむ。前借りをしていたエネルギーの取り立て屋がすぐそこに迫っていた。泥だらけの私は文字どおり泥のように疲れていて、暖かく柔らかい粘膜のベッドはそんな私を優しく包み込んでいた。


 すぐ目の前に三十センチにも満たない小さな穴が開いているに気がついた。これはおそらく虫垂につながっているのだろうか?


 虫垂――切除したところで身体に大した影響もない、不要な器官だ。


 自分の体がその小さな穴に吸いこまれていくような錯覚を覚える。


 そうだよな。私だって不要だ。私が死のうが別に誰も悲しまない……


 ゆっくりとまぶたを閉じようとした視界のすみでなにかが光った。


 反射的にそちらに目を向けると、近くのヒダの隙間でライトの光を受けてなにかが輝いている。


 ――溶け残りの遺物か?


 私はかすかな望みを抱き、力を振り絞りすがるようにそこへ這い寄った。


 そこにあるのはクリスタルのネックレスであった。水晶はくぐもって傷だらけになって、プラチナのチェーンは錆びついて真っ黒になっている、先輩のネックレスだった。


 ネックレスの周りにはバラバラになった溶けかけの骨が埋もれている。頭蓋骨に脊椎に肋骨に大腿骨など。折れたり砕けたりで原型を留めておらぬものも多く、それが当人のものという証拠はどこにもないが、間違いなく先輩のものだと確信した。


 上空からまた強い風の吹き下ろしがあった。


「使えよ」


 風の切れ目からそんな声が聞こえた気がした。


 私は無意識のうちに半分に折れた先輩の肋骨をつかんでいる。


 肋骨はうっすらと黄ばみ、表面にはポツポツと無数の穴が開いていて、酸による腐食というより生前の不摂生さが疑われたが、形や強度としては十分で、


「たしかに使えそうだな……」


「だろ?」


「ああ」


 ここにきてはじめて先輩とまともに会話できた気がした。


 私はよろめきながら起き上がり、もう一本手頃な肋骨を拾う。砕けた大腿骨の破片と合わせて全体像を把握したあと、ネックレスやトウモロコシの葉の溶け残りを使い、骨をつなげ形を整える。


 即席にしてはまずまずのものができた。骨で作ったフックである。


 私は靴下の輪を外し、代わりにそのフックをロープの端に結いつけた。


 フックのなかでクリスタルはライトの光をキラリと反射した。傷だらけだったが、粘膜と便しかないこの場所ではそれはとても美しかった。


「よし!」


 再びロープをつかみくるくると回し、祈るように上へと放り投げる。


 一回目。失敗。


 二回目。失敗。


 三回目。失敗。


 四回目……にして、今までとは違う強い手応えを感じた。


 ドクリ、と心臓が強く拍動する。


 試しに引っ張ってみると……、


 大丈夫? なのか? どこかにひっかかっている。でもなににひっかかっているのかはまるでわからず、かなりおぼつかない感じもする。なんとかなりそうな気もするし、ダメなような気もするが、もうなんとかなってもらわないと困る。


 私はライトをくわえ、滑らないよう掌に床の粘液を十分に擦り付け、ロープに手をかけた。


 そのとき、フックのために外した靴下が目に入った。


 私はふと楽しいことを思いついた。


 引っ掛けようとしていた足をヒダから離し引返し、汚れきった靴下を虫垂の穴の中にねじ込んでやる。いきなり異物を突っ込まれた虫垂は嫌な音を立てながら粘液を噴き散らしはじめたが、うるさいその口に近くにあった頭蓋骨で蓋をする。


 先輩の頭は虫垂口にぴったりとフィットして、盲腸の下部にある小さな臓器はそれっきり完全に沈黙した。


「ざまあみろ」


 しばらくすれば、ドラゴンは虫垂炎を起こすことになるだろう。人間なら手術をすれば治るが、ドラゴンにそんなことはできない。お前は燃え上がるような腹の痛みにうなされて、上から下から今まで食ったものを垂れ流して、そして死ぬのだ。


 私は死後地獄行き間違いなしの悪巧みに口元を緩めながら、再びロープに手をかけた。体重を預けると、伸縮性のある素材が一気に伸びて背筋に寒けが走る。急いでヒダに足をひっかけ体重を分散させ、ロープとヒダとを頼りに自重を持ち上げる。


 裸足になると、靴や靴下を履いていたときよりも指先のグリップ力を実感する。


 一歩、また一歩と、上行結腸をよじ登っていく。


 ロープの三分の一ほど進むと、私はあきらかにドラゴンから拒絶されはじめた。ヒダに足をかけようとするたび、腸はわざとらしく外側に膨らみ私を拒んだ。


 ――いくらでも嫌うがいい。私だってさっさと出ていきたいんだ。


 私はヒダから足が外れるたび、ロープに足を絡ませ振り子状に体を揺すり壁にへばりつく。ロープは思っていたよりずっとしっかりしている。やれる。どれだけ壁に逃げられようが、何度だって食らいついてやる。


 だいたい半分ほど登ると、今後は腹全体がまるで雷の轟きのような金属音をたてた。


 その騒音は今までの蠕動音と違い、ドラゴンの羽音をもかき消し、私の腹の底にまで響きわたる。さすがに少し不安を覚え、きりのいいところで一息つこうとした瞬間、粘膜が大きくざわつき波打った。ロープごと大きく揺れ、慌てて体勢を立て直そうとするもバランスを崩し、反動でくわえていたライトが奈落向かって落ちていく。


 ほどなく漆黒が私をつつみこんだ。


「くそっ!」

 ロープをつかむ手を強く握る。手はすっかり乾いてしまっていて、繊維が皮膚にきつく食い込んだ。


 ロープは音をたててきしみ捻れ、背中に生暖かい粘りが近づいては遠ざかる。


 もうゴールは近い。焦るな、このままゆっくり進むんだ。


 体をひねって、呼吸を整え、壁までの距離を詰める。足でまさぐってヒダの出っ張りを見つけ出し、なんとか足場を確保する。


 大丈夫だ。慌てるな。冷静に。


 言葉に出さず唇だけを動かし、うわ言のように繰り返す。


 暴れているヒダを強引に踏みつける。ロープをグッとたぐって這い上がる。


 羽音と蠕動音と謎の金属音に雄叫びが混ざる。ドラゴンがいなないている。腹が痛いのか? なら先輩の頭を使った甲斐もあるってもんだ。


 私は登る。


 あと少しだ。ロープを構成する服と服の結び目ごとに自分で自分を鼓舞して登る。


 フックまであとわずかというところで、急にロープを引く力が空転した。


 体が斜め後ろに投げ出され、闇全体がガクッと揺れた。


 ――フックが外れた!?


 すぐに両足とも支えを失い、完全に重力だけに支配される。


 あっ、と情けない声を出し、私はそのまま井戸の底向かって落下していく。


 ――落ち着け。


 歯を食いしばり唇の震えを押さえ込む。ロープをつかむ拳を強く握る。


 私は宙を舞いながら、手先の感覚だけを頼りに上方へとロープを放り投げた。


 手の中でロープがするすると上に向かって進んでいく。孤独な闇のなかで時間の流れが遅くなる。ロープはすべて上方へと投げ出され、私はその端をぐっとつかんで天に願う。なにかにぶつかった感触があり、ロープのテンションが緩み、そして――


 強い力がかかって落下がとまる。


 だが一息つける暇もなく、今度は上向きの強い反動に襲われた。バンジージャンプよろしく、体が上方へ持っていかれる。私はどうすることもできず頭から腸壁に叩きつけられた。


 腸粘膜が柔らかいせいか興奮しているためか、そのことで私は特に痛みを感じなかったが、ドラゴンのほうは違ったようだ。


 爆音とともに闇が振動した。


 依然として上下のバウンドを繰り返す私の耳に、下方から異常な音量が鳴り響く。


 なんだ? 原始的な反応として顔がこわばり、総毛立つ。


 真っ暗な闇のなかで呼吸が乱れ、動悸は痛いほどに激しくなる。全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出し、垂れ流しとなる。


 ――死にたくない……いや、死んでもいいからとにかく風呂に入りたい。それもとびきり熱いやつに。こびりついたドラゴンのクソを洗い流して、風呂のあとはビールだ。こっちは最高に冷えてるやつを……


 ロープの揺れは激しく、まったく収まる気配がない。これは腸管全体が揺れているのだろう。予想よりも早く虫垂炎になってくれたみたいだ。だけどちょっと早すぎだ。


 まあいい、クソドラゴンめ、せいぜい私を食ったことを悔やむといい。


 私は汚い言葉を吐きつつ汚い掌に汚い唇から垂れた汚いよだれを擦りつけ汚いロープにしがみつく。浅いながらもできるだけ大きく息を吸う。


 わずかに揺れが落ち着いたタイミングで再び登るのを再開する。


 すでにそれなりの距離を登っていたはずだ。おそらくゴールは近い。私はゆっくり慎重に手をかけ足をかけロープをよじ登っていく。もうヒダに足はかけない。そいつはただひたすらに震えてよじれて蠕動している。ドラゴンの叫び声、羽音、自分の鼓動、ドラゴンの鼓動、様々な音が入り乱れる。


 ――もう少し!


 恐怖は変わらずあったが、なんだか体が軽く感じた。


 あのクソ重い装備は一体なんだったんだろう。今思えばあれは本当に無駄な出費だった。貯金を使い果たす意味などまるでなかった。あぁ、これからはもう二度と貯金なんてするもんか。むしろ借金してでも散財してやる!


 ロープのきしみがとまる。壁との距離も十分に近く、私は激しく震える壁にへばりつく。空気の流れが明らかに変わりつつあった。手を伸ばすとついに、


 右手がヒダではない腸壁の折れ曲がりに触れた。


 ――やった!


 私は歓喜に震えながら、上行結腸から横行結腸に切り替わる崖の縁をよじ登ろうとした。


 そこで、天地左右が真っ逆さまに反転した。





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