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小腸

 十二指腸の足場は意外にしっかりしていて、私は桃色の洞穴の中をひたすらに駆け抜けた。


 気がつくと、一歩ごとに足下から上がっていた煙は失せている。


 足自体の焼けつくような痛さは変わらなかったが、酸が中和されていた。そういえば川の色もいつしか褐色を帯び、悪臭の性質も変わっている。


 ――やった!


 拍動する胸の奥で、勝利の芽がむくむくと育ちはじめるのが感じられた。


 なぜドラゴンの腸は自身の胃酸で溶けないのか? その答えこそが希望だった。


 胃にはぶ厚い粘液の層があったが、ここにはない。そのかわり十二指腸内ではアルカリ性の胆汁や膵液が分泌され、胃酸は中和されるのだ。


 知識の勝利だ。事前に図書館に通いつめたことは間違ってはいなかった。


 私は重い鎧の下、中身を吐きつくしすっかり空っぽになった腹に力をこめた。歩幅を広く、手をできるかぎり大きく振って走り続けた。


 長いトンネルだった。


 揺れるライトの光が粘膜壁に反射する回数が増えてくる。進めば進むほどに、洞穴は少しずつ狭くなっていく。


 ついに私は身をかがめざるをえなくなった。


 足元を流れる消化物と顔との距離がほんのちょっと近くなるだけでも、やるせない気持ちになる。


 いやよく見ると、管が狭くなったぶん川の水位も増しているのか?


 幅が狭くなっても、風景はまるで変わらなかった。


 一定の感覚で内面を走る輪状のヒダ。時折ランダムにくびれたり膨らんだり、伸びたり縮んだりする粘膜のトンネル。走っても走ってもピンクの単調さはまるで変わらず、時間と意識は無限に引き伸ばされていく。


 勝利の芽とやらがさっそくしなびそうになる。


 作戦は間違っていないという気持ちと、さっき自死しておけばよかったという気持ちとが、風に吹かれる枯れ葉のように何度も何度も反転する。汚水に隠れたヒダと疲労とが、気を抜くたびに私の足を絡め取ろうとする。


 急に足下からの抵抗感がなくなり、ふわりとした感覚に変わった。たぶん十二指腸を通過したのだろう。


 こうなるとさすがに走ることはできない。ペースを落とすと、ピチャピチャと粘度の薄くなった水音が管内を反響して不気味だった。


「絶対なんとかなる」「いや……」「クソ、臭すぎる!」「あとどのくらい……」

 余計なことを考えないように、ネガティブな感情が凝り固まってしまわないようにと、意識して感情を声に出してみる。


 しかしこれがよくなかった。


 小さなつぶやきは、予想以上の音量と湿度を帯びてどこまでも拡散していく。返事などあるはずもなく、自分で自分に答える羽目になり、しだいにドツボにはまっていく。


 先に流れていったはずの先輩の死体は見つからなかった。


 今となってはそもそも死体なんて本当に見たのか、ただ狂った頭が幻覚を見せただけだったのか、よくわからない。そのくらい小腸の下水管にはなにもなかった。残渣状になったトウモロコシや動物の肉や、グズグズになった水草や木の根っこの繊維があちこちに浮かんでいるだけだった。


 一層管は狭くなり、私は膝を深く曲げたかなり厳しい姿勢で進んでいる。


 天井のヒダを避けるためには四つんばいにならざるをえず、茶色い川にしぶしぶ手足を浸す。


 鎧はすっかり錆びついて、なにかするたびギシギシときしんだ。ところどころに穴も空いていて、生ぬるい汚水が火照った身体にまとわりついた。


 すこし高めのヒダを乗り越えようとしたとき、肩当てが天井の粘膜にぶつかった。


 その瞬間、ゴォォ、という蠕動音が腸管全体に鳴り響き、驚いた私はライトを汚水に落としてしまう。一瞬完全に真っ暗になるが、慌て手探りでそれを救出する。第二胃の鳥の群れを思いだす。ドラゴンの食事次第ではこの汚物の川もいつ増水するかわからない。この狭さならすぐに排泄物に溺れて死んでしまうことだろう。


 気がつくと、肩口に妙な圧力を感じた。オリハルコンに粘膜を引っかかれたせいか、輪状の腸壁が反射的に収縮していた。その締め付けは予想外に強く、私は弾き出されるように後ろへ退いた。


 ライトが映し出した光景に心臓が縮みあがった。


 腸管がさっきまでとは見違えるほどに細くなっていた。胃と違い腸の粘膜は薄く、それ故に過敏なのか、軽く当たっただけなのに毛細血管から内出血が起こり、痛みに反応した粘膜表面がブクブクに浮腫みはじめていた。


 しかもそれは慌ただしく痙攣しており、今以上に狭くなりそうですらある。


 ――早くしなければ。


 私はもう一度突っ込もうとするが、着膨れしてダルマのような自分の格好を思い出し、浮腫みの手前で立ちどまる。鎧を着ている限り粘膜にダメージを与えず通過するのは不可能だ。特性上、細やかな動きは難しく、なにかの拍子に靴なり肘当てなりがまた壁を傷つけることは避けようもない。そうなれば浮腫みはもっとひどくなり私の身体は小腸のパイプに引っかかり、ただ吸収されてしまうのを待つだけとなる。


 ――時間がない。


 腫れはみるみるひどくなってくる。繊細な毛細血管の網目は、浮腫んだ上皮に隠れて見えなくなってしまった。ゴロゴロという音は一段と大きくなり、まるで侵入警報かのように思われた。


 手詰まりか? いや、一つだけ方法がある。


 鎧を脱げば、もしかすると通れるかもしれない。


「身軽になれ」

 先輩の声を思い出す。


 馬鹿言うな! 鎧を捨てるだと!? そんなことありえない!

 

 オリハルコンの鎧。貯金をはたいて奮発した鎧だ。それになにより、これを捨てれば防御力を失う。インナーウェアには耐久性もクソもない。


 茶色い液体が浮腫みの手前で停滞している。濁り泡立つ汚水の中には原型を保ったままの鶏の骨が見える。首すじに背後からの生暖かい風を感じる。管の狭さはいよいよ限界に近づいていて、


 やるしかなかった。


 私は覚悟を決めて、悪臭を胸いっぱいに吸い込んだ。


 ライトを口にくわえ、まずは籠手を外す。ひどい蒸れから解放された指先が空気に触れ、躍るようにゾワついた。


 ナマの掌で肩当てに触れると、ねちょりと不快な感触に皮膚が痺れる。重い肩当ては大きな水音を立て、液体状の便の中に沈んで消えた。


 鎧を脱げば脱ぐほどに、息苦しさが少しずつましになる。


 肘当ても、胸当ても、腰当ても、腿当ても、すね当ても徐々に水かさを増す汚水の中へ沈めていく。


 靴はもうとっくに用をなしておらず、脱いでもしみいりひりつくような痛みは変わらなかった。ただ生ぬるい水の中に浸る足下が軽くなった、それだけだった。


 擦れると痛そうな鎖帷子も脱ぎ、インナーウェアと穴あきの靴下だけになると、いよいよ内径は限界だ。いつの間にか蠕動の警報音は止まってしまっていて、逆に気味が悪い。


 急いでむくれた粘膜の隙間に滑り込む。体全体になんともいえぬ弾力が直に伝わる。インナーがカバーしてくれない腕やふくらはぎが粘膜にじかに触れ、怖気が走る。イカやタコの触手にでも絡みつかれたみたいで、最悪の気分だった。


 蛇腹状の伸縮に押し戻されぬよう力を入れた瞬間、肘の先が浮腫みきって白くなった壁にぶつかる。腸管全体に反動が走り、腹のなかに吊り下げられただけの不安定な管がふるふると揺れる。


 ――やばい。


 息を飲んだ。汚れた水まで一緒に飲み込んで咳きこみたくなるのを必死でこらえた。


 が、このくらいの刺激では出血や壁の収縮は起こらなかった。


 私は一進一退の匍匐運動を繰り返して、なんとか浮腫みのトンネルを這い出し、反対側へと転がり落ちた。


 急に力が抜け、ヒダの壁を背に汚い泥の中に腰を沈めた。ライトを口から手に持ち替え、大きく息をつく。


 ライトをつかんだ私の手はすっかりクソみまれだった。私は首に絡まった海藻なのか水草なのかよくわからぬ繊維を外しながら、「くせえな」と呟いた。鼻が腐って、もげ落ちてしまいそうだった。


 しかしその奥、胸の底からは妙な気持ちがこみあげてくる。


 喉が勝手に震え、頬の筋肉が緩み、涙がにじんで笑ってしまう。笑うと鼻のなかがもっと臭くて、はははは、と息を殺した口先だけの笑い声が闇の奥へ広がって消えていく。ついに私は気が触れてしまったのだろうか? ほとんど裸でドラゴンのクソにまみれて、一体なにが楽しいというのか?


 考えれば考えるほど、不条理で理不尽でわけがわからないと思う。だけどそのわけのわからなさがまた最高におかしくて、笑いがとまらない。いい加減脇腹が痛くなってきて、私ももう諦めて、これが最後かもしれない、ここで笑えるだけ笑ってしまおうかと、腹から喉にかけての筋肉の痙攣に身を任せることにする。


 すると、その途端冷静さが戻ってくるのだから不思議なものである。


 私はまったく狂ってなどいなかった。いっそ狂うことができればよほど楽だったのだろうが、ここまでくればもはや仕方がないのだろう。


 私は両頬を叩いて体勢を変えた。


 さあ、このまま一気にいこう。


 明かりの先はやはり闇だが、先ほどよりは広い闇だ。


 私は粘膜の感触を確かめるように、トンネルのなかをさらに進んだ。


 二、三十分ほど進むと、徐々にヒダの数が少なくなってきた。そろそろ回腸に突入したのだろうか? そういえば浮腫んでもいないのに、経はさらに狭くなってきている。


 いよいよ腹ばいになる。鼻や唇に汚水がじかに触れて死にそうになる。


 畜生、水かきを持ってくればよかったと思うが、いまさらそんなことは言っちゃいられない。


 カタツムリのようにじりじりと進み続ける。


 管の太さはある一定のところからは細くならず、とりあえずほっとする。しかしときに異様に進みづらいと感じるときがあって、これはおそらく重力に逆らっているのだろうか? よくわからない。いやそれだけでなく、右に向かっているのか、左に向かっているのか、胃からどれくらい離れたのか、出口まであとどれくらいあるのか、まったくわからない。


 不安定に揺れるヒカリゴケの光はいまにも消え入りそうでなんとも心もとない。


 地鳴りじみた蠕動音や、低くくぐもったドラゴンの羽音が散発的に聞こえてきて、幾度となくパニックに陥りそうになる。その都度ごとに私は、蠕動運動の向きは基本的に順方向であるはずだ、図鑑で見たドラゴンの一本糞の太さはバッファローよりも太かったはずだ、などと自分に言い聞かせ、無理矢理にでも手足を動かした。


 女の裸や酒場のご馳走、風呂釜いっぱいの金貨など、下衆な想像も働かせてみようとするが、慣れぬことはなかなか上手くいかず、むしろ先輩の顔がチラツキはじめる。


 数年前に初めて勇者――いや、今思えばあれはただの傭兵だった――の仕事を受けたとき、私は北国の勝手がわからず、極寒の戦場で震えていた。ひとり軽装で凍える私に先輩がマントをくれた。それが先輩との初めての接触だった。ギルドで見かけたときは威圧的なオーラがすごかったが、いざ話してみるときさくな男で孤独感が和らいだことをよく覚えている。


 だが、そのマントは敵兵を殺して奪ったものだった。後で内側にこびりついた血糊を見つけた私はほとんど発狂寸前までになった。


「でも……」


 当時はかなり取り乱してしまったが、今考えるとあのマントがなければ私は凍死していたかもしれず、さきの先輩の水筒だってそうであって……


 ――いや。


 頬の内側の肉を強く噛み締める。


 略奪をよしとするのはやはり間違っている、そう思う。現地調達を正当化すれば、すぐに悲惨な時代に逆戻りだ。非常時においても節度礼節をわきまえてこその勇者だろう?


 私は視線を上げ、なにもないパイプの奥をじっと見据えた。


 そうだ。生きて戻れたら、水筒のことは必ず懺悔しよう。ただし無事に戻れたら、だが……


 再び蠕動音の警報が鳴った。今度は今までよりも大きい。遠く背後で水音。嫌な予感がする。


 私は頭を大きく左右に振り、疲労感がこびりついた四肢に今一度鞭を打つ。


 ふいに、進行方向に拡散する明かりの密度が変わった気がした。




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