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第四胃

 痛みと悪臭に私は目を覚ました。


 グリフォンの体臭を煮詰めて濃縮したような、食人植物の吐く息のような臭いに飛び上がるも、まったく姿勢が安定しない。靴の底に感じる感覚が先ほどまでとはまるで違っている。それに鎧の左半身がおかしい。可動部のパーツがなにやらねちゃついている。


 ――溶けている? オリハルコンが溶けかけている!?


 第二胃までよりあきらかに濃く白い霧が、まるで温泉の蒸気のように自分にまとわりついていることに気がついた。その瞬間、針の刺激が角膜を襲った。目を閉じてももう遅い。私は生理的な涙をとめることができず、ボロボロと泣きながらやわい床にひざまずく。


 目だけでなく、頭も燃えるように熱かった。兜がずれているのだろうか? 角度を変えるべく手をあてがうと、兜はボロリとねじ落ちた。おそるおそる薄目を開ける。涙でにじんだ視界のなか、兜の左半分、寝転んでいた側のオリハルコンがすっかり溶解してなくなっていた。心臓が早鐘を打ち、汗なのか粘液なのかわからぬ液体がむき出しになった額を流れた。その液体とともにごそりと髪が焼け落ちる感覚に、鏡を見るのが恐ろしくなった。


 私はレモンを丸かじりしたような酸っぱく粘つく唾を吐き出し、ここがどこなのかを確信する。第四胃だ、間違えようがない。最強の酸であらゆる溶け残りを溶かしきり、腸へと送り込む最後の胃。


 私は第三胃をスルーし、第四胃までやってきてしまっていた。


 目をつむったまま、ベタベタの指先でなんとか兜からヘッドライトを回収する。投げ捨てた兜は、音もなくどこかへ転がっていった。


 まぶた越しとはいえやたらと暗く、ヘッドライトの光はあきらかに弱っているように思われた。中のヒカリゴケの問題というより、表面のガラスが酸にやられて曇ってしまい、外に向かって光が十分に出ていけなくなっているのだろう。


「あぁ、神はいないのか!」


 思わず口をついた問いに対する答えは当然なかった。ここは辛酸と苦痛しかない地獄の底であった。


 肺は底まで焼けるようで、万力の圧迫感が心臓を締め付ける。咳き込むたびに全身の違和感が倍増する。頭のなかで鳴り響くノイズはドラゴンの羽音なのか、消化管の蠕動音なのか、はたまた自分自身の耳鳴りなのか、わからない。とにかくそれらは私の精神をじりじりとすり潰し続けていた。


 とにかく新鮮な空気が吸いたい。まともで清浄な呼吸をしたい。


 私は少しでも苦痛の少ない場所を求め、第四胃のなかをあてもなく這い回った。


 目をつむったままでも辛うじて歩けた。第二胃とは違い、ここには障害物がなにもない。これだけの酸だ、内容物が溶けてほとんどなにも残らないのだ。そのかわりひたすらに足下がぬかるむ。粘膜が柔らかく、気を抜くと、ブラインドでもその密度の濃さを読み取れる致命的な煙の中に倒れてしまいそうになる。頭に天井からの酸が降りかかれば一巻の終わりだが、そこはもう祈るしかない。すり減ったオリハルコンと濡れそぼった靴下越しに伝わってくるのは、生暖かい死のぬくもりだけだった。


 すぐに壁に到達した。


 壁に手をつくとオリハルコン越しでも掌が焼けるように熱くなり、薄らぼんやりしていた意識が一気に現実へと立ち戻る。第四胃の粘膜はヒダの流れがランダムで、やけにつるつるしているように思われた。


 おそるおそる薄目を開く。なんとなく酸がしみない目の開けかたをつかめた気がする。コツは意識だ。意識を別の方向に向けるのだ。来年の種籾の選別だとか、私のことすら忘れるほどにボケきった親の介護だとか、兵役だとかに……しかし、酸性を帯びた汗が目に入ってくるのまでは意識だけじゃどうしようもなかった。


 くそ、なんて日だ。それになんて暑さだ。溶ける。もう数分も耐えられないほどに暑い。その原因が汗と体温だけとはとても考えられない。酸にモノが溶けるとき発生する反応熱とかいうやつに違いない。鎧の下はもうかまどの中と大差がなかった。


 チョロチョロと、耳鳴りの隙間から水の滴る音がする。視線を下ろすと、革の水筒にいくつもの穴が開いていた。酸でやられたのだろう。穴から水がじわじわと溢れ、ライトの光を受けダイヤモンドのようにきらめいている。貴重な水は水筒の表面を伝い落ち、どんどん霧の中へと消えてしまっている。


 火照ってざらつく喉が先輩の声色を真似て「飲めよ」とつぶやいた。


 心のなかの天秤が正義から悪徳へと一気に傾いた。私は水筒の蓋をこじ開ける。勢い余って蓋はどこかへ飛んでいく。死体から奪った罪で地獄に落ちようが知るもんか、まずここがなによりも地獄じゃないか! 誰だってこうする、仕方ないんだ、と口づける。


 一口目は酢の原液かと思うほどに酸っぱく、私は激しく咳き込んだ。


 二口目は軽くふくみ、ぬかるむ口の中をゆすいで吐き出した。今気づいたが、舌の先からはいまだ出血が続いているようだった。


 三口目からは乳房に吸い付く赤児の勢いでかぶりつく。歯茎に水筒のヘリが勢いよくぶつかり新たな出血源が生まれるが気にしない。喉はまるでそれ自体が独立した生き物かのように、私の胃の中に水を流し込んでいく。


 あっという間に水筒は空になった。


 人生で一番に美味い水だった。あまりにも美味く、水と一緒にプライドや罪悪感まで飲み干してしまったかのよう思われた。まだまだ全然物足りず、喉という名の新生物はゴロゴロと唸ってさらなる水を求めている。水はまだあるだろう、と喉が言う。たしかに耳元のノイズはいつしか収まっているが、下方からの水音は変わらない。水筒は空になったはずなのにどうして? しかし幻聴と呼ぶにはそれはあまりにも現実感があって、すぐ近くから聴こえるようにも思われ、私は身をかがめ、白い霧の中に目を凝らした。


 私が立つ粘膜の壁のすぐそばに巨大な洞穴が開いていた。


 おそらく十二指腸へと続く穴だろう。床に穴の中へ向かう水の流れが見えた。


 ――音はこれか。


 明かりを流れへと向ける。


 穴に向かう床にはわずかな窪みと傾斜がある。白濁し原型を留めぬヘドロ状の肉や穀物がちょっとした小川を作り出し、穴の奥へと流れていく。


 私は大きな溜息をついた。私は四つの胃の最も底に立っていた。


 ――これからこの川をはるか上流まで遡って行かねばならないのか……


 そう考えたとたん、途方もない無力感に襲われる。


 第三胃、第二胃、第一胃、そして食道から口腔へとたどっていける自分をまるで想像できなかった。


 私は川のほとりで立ちつくす。


 いったい何メートル登ればいい? そもそもいまさら登るなんて手段が通用するのか? 兜も水もなくなった。そしてそれらが手に入ることは二度とない……


 妙に固いなにかが突然、恐怖に震える足にぶつかり、私はライトを川に落としそうになる。


 悲鳴をあげつつ下を見る。


 曇った視界にうつ伏せの死体が映った。白骨化した腕が川から伸びて私の足にひっかかっていた。


 飛び退くと、自分の頭のネジまで吹き飛んだ気がした。


 死体は再び流れ出した。それは溶解寸前の人間の死体だった。私のせいで停滞していた川の流れが、うつ伏せから仰向けへとその死体をひっくり返した。


 大きく煙が上がったあとで、揺らぐ光のなかにぼんやりと死体の顔面が浮かびあがった。


 顔の皮は完全に溶け、目の片方は白濁し、もう片側は黒い眼窩しかなかった。衣服どころか皮膚や肉はほとんどこそげ落ち、むき出しの骨を晒していた。


 その身分を証明できるものは首元で輝くクリスタルのネックレスだけで――


 心臓が一瞬で凍りついた。


 先輩だった。その死体は間違いなく先輩だった。


 酸っぱい唾を飲み下す。唾は食道にそって粘膜を焼いていく。


 それはなんの準備もなくドラゴンに突っ込んだ人間の末路だった。為す術なくドラゴンに食われた人間の最期でもあった。


 だけど私には、彼を笑うことなどとてもできなかった。


 なぜなら私だって、結局先輩となにひとつ変わらないから……


 ただ時間だけの問題だった。さっさと事切れるか、こうやってグダグダと苦痛に苛まれるか、先輩と私にはそれだけの違いしかない。最終的にはふたりともドラゴンに吸収されて養分となってしまうだけなのだ。


 ――もうダメだ。


 こうなったら自害しよう、ふとそう思った。だがすぐに小刀すら携帯していないことに思い至って、私は自らの浅はかさを呪った。


 ――鎧を脱ぎ捨てるか? 


 そうすれば五分もしないうちに私もあの死体と同じ状態になるだろう。しかしそれまでの苦痛を思うと……


 水筒を吊り下げていたベルトがブツリと切れた。同時に私の勇気も切れた。


 一気に力が抜けた。私は小さく頭を振りながら、ただ死体が流れていくのを眺めることしかできなくなった。絶望と後悔と恐怖に完全に取り込まれてしまった。


 全身を小さな虫の群れが這い回っているような違和感があった。ドラゴンの酸は鎧だけでなく、私の皮膚、そしてその内側の心までをも溶かしていた。あれだけ暑かったのに、なぜか今はどうしようもなく寒く、そして暗かった。孤独だった。どうしようもない私を嘲笑うものすらいなかった。


 死体は胃の出口に向かって流れていく。


 先輩は泡をまとい煙を上げ、ゆっくり時計回りに回転しながら闇の奥へと消えていく。


 穴の先、第四胃の次は十二指腸だ。そして空腸・回腸といわゆる小腸が続く。そこで先輩の溶け残りも完全に消化吸収されることだろう。


 その次は大腸だ。盲腸、結腸、直腸とで水分の吸収と便の形成が行われ、その先は……? え? その先って――


「おいおいおいおい!」

 ふいに私は気づいた。気づいてしまった。


「戦場には流れってもんがある。臨機応変にやるんだ」

 死体の消えた穴の奥から先輩の声が聞こえた気がした。


 そう、流れだ。なにも流れに逆らうだけが唯一の脱出経路じゃない。どうしてこんな簡単なことに今まで気付かなかったのだろう。


 ライトを川へ向ける。白いヘドロの川はやはりもうもうと煙を上げ不気味に輝いている。


 弛緩し脱力しきった筋肉に再び血の流れが戻ってくるのを感じた。私は何度か屈伸し呼吸を整え、いつでも飛び出せるようにと重心を落とした。


 ――やる。やるしかない。


 目を開けるのと同じ理屈で意識を強引に楽観的な方向へ持っていく。拳を強く握って自分を奮い立たせる。とはいえライトの光は震えているし、歯の根が合わず、足はどうしようもなくすくんでしまう。


 ――いまさらなんだ、覚悟を決めろ!


「うおぉぉぉぁぁぁ!」


 私は雄叫びをあげ、地獄の川の中へ突っ込んだ。煙が激しく湧き上がり、靴の隙間から入り込んだ強酸が千本の釘となって私を襲った。


 ――だが今すぐに死ぬわけじゃない。


 まだだ。まだ終わっちゃいない。決してスマートではないが勝機はまだ残っている。


 私は涙を流しながら、十二指腸の洞穴向かって走り出していた。




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