第二胃
「くそっ!」
私は汚い言葉を吐き、仰向けのまま粘膜に拳を叩きつけた。第二胃の粘膜は第一胃よりも硬かった。
喉がどうしようもなく乾いていた。怒りと悔しさと絶望が入り乱れて、耳の内側あたりが破裂しそうに痛く、なんだがひどく薄暗かった。
――いや、薄暗さに関しては違うみたいだな……
ふと頭に違和感を覚えた。見るとすぐそばで霧が帯状の光に切り抜かれている。落下の反動で兜が脱げ落ちてしまったのだろう。
私は立ち上がり、ヒダの隙間にひっかかっている兜を引っつかむ。
そのくぐもった金属面に頭から血の気が引いていく。
一番酸が強くなる第四胃でもないのに、兜のサビ加工がはがれつつあった。面甲部分は折れてどこかにいってしまって、あたりを探しても見つからなかった。
兜をかぶると裏側にこびりついた粘液が頭皮に触れ、私は小さな悲鳴をあげた。粘液は汗と混ざると、ぬるりとした熱を帯びはじめ、不快で不快でしかたなかった。
第二胃の雰囲気は異常だった。
あたりをほんのすこし見回すだけで、痛いほどの圧迫感が増していく。
第一胃に比べると粘液は少なく霧の濃度も薄くて、臭いや呼吸は少し楽だが、その分少し乾燥している。
薄い乳白色の霧の底には、血管の透けぬ煤けた鉛色の粘膜が広がっている。第一胃より密に並んだヒダの床。筋張ったヒダはまっすぐ一列に並び、まるで畑のように見えた。
そしてなにより――
そんなくすんだ風景のあちこちにはキラキラと明かりを反射する大きな物体が点在していた。近づいてみると、具体的には角ばったクリスタルの結晶や、鈍く発光するミスリル鉱石などである。ヒダの畝の中には、巨大な岩の塊が粘液にまみれ無造作に転がっていた。
本で読んだとおりだった。
ドラゴンは悪食で有名だ。奴は目についたものを手当たり次第に食い散らかす。牧場に果樹園に小麦畑。小さな村一個くらいなら丸呑みにするほどである。いくら強力な牙や胃を持つとはいえ、咀嚼や胃液だけでは食事量に消化が追いつかない。
そこで役に立つのが第二胃だ。
砂ずり、砂肝、砂嚢。そんな別名を持つこの内臓はぶ厚い筋肉を持っていて、あらかじめ飲み込んだ硬い岩とともに内容物を粉々にすりつぶす。
霧の中、ライトに反射する光の色が時折変わる。
岩といっても色々あるが、このドラゴンは光り物が好きなのだろうか? アメジストやマラカイトの原石まで飲み込んでいるみたいだ……
腹の中が宝石の原石や貴重な鉱石の集積場となっているのは、なんだかシュールな光景だった。
私は足元に気をつけながらヒダと岩の隙間をぬうように歩いた。
よく見ると、ヒダの隙間には岩以外にも奇妙なものが埋もれている。大小、色も様々な岩石に混ざって、角の取れたタイルや擦り切れたレンガといったあきらかな人工物も時折認められた。
こいつはこんなものまで胃石として利用しているのか?
私は好奇心に任せ進んだ。どちらにしろ行くあてもなかった。
ヴィンテージなんてレベルでない瓦。汚れた商店の看板のようなもの。溶けて砕けて誰だかわからなくなった石像。ドラゴンの腹の中からはそんなものすら見つかった。
場所によっては足下からチャカチャカと乾いた音が鳴り響くところもあった。時代も文化も様々な異物――いや遺物か――がただでさえ不安定な足場をより一層不安定にしていた。年代、国籍ともに不明な硬貨や器の破片。錆びついたロザリオらしきものを蹴りそうになり慌ててよけると、ボロボロになったワインボトルの底を踏み潰した。
そうこうしているとすぐに壁に到達した。
第二胃は食物を壁同士で擦りつぶす必要がある以上、第一胃よりは狭そうだが、いかんせん広さの感覚がつかめない。岩石があちこちに点在しており、空間自体にも傾斜やねじれがあるためか、ヘッドライトの貧弱な光では全体像を映し出せないのだ。私の眼前には鮫肌のようにざらつく壁が、獣の牙のようにヒダを縦一列に並べどこまでも立ちふさがっている。
第一胃と第二胃との接合部はどこなのだろう? 中心付近にあると考えるのが自然だが……、第一胃よりは低い天井を視界の端にとらえつつ、今度は壁に垂直な方向に歩き出す。
三メートルほどの巨大な御影石を回り込んだところで、半分になった水車が見つかり、私は目を丸くする。
底が抜けた舟。馬のいない馬車の残骸。
壁から離れれば離れるほど、比較的原型を留めた遺物が増えてくる。
窓枠だけの窓。ねじ曲がった街灯。
こんなことあるはずがない。夢でも見てるんじゃないか? と思う。むしろそう思い込んでしまいたいが、現実は決してそうではない。
半壊状態の石造りの倉庫。長針も短針も欠けた時計塔。
こうなるともはやちょっとした街である。溶けかけの遺跡。胃石でできた街。
ドラゴンの生活史は体内の胃石の年代によって定義されると、城に出入りしている学者が言っていた。学者は鉱物的な部分だけに着目していたようだが、岩石の組成なんて調べなくてもこいつがどこでなにをしてきたのかは簡単にわかる。このドラゴンは二千年前の東洋で苔の生えた鏡を食らい、五百年前の暗黒大陸で土偶を食らい、三年前から我が国でリンゴを食い散らかしてきたに違いなかった。
いつしか美しい装飾が施された銀製のテーブルナイフを手にとっていて、ぞっとする。一体私はなにをしているのだ? なぜガラクタなんかを注意深く観察しているんだ?
「奪っちまえばいい」
背後からよく知った男の声が聞こえた気がした。
恐怖を感じ、私は声のした方へナイフを放り投げた。
カチャン、と金属質な音とともに、
「勇者たるもの、常に身軽でなくっちゃな」
なんてさっきより大きな声が聞こえてくる。それは間違いなくギルドの先輩の声で、
「うるさい!」
私は振り向きざまに声を張り上げた。
「足りなきゃ戦場で調達すればいいだろ?」
声はあいかわらずだが、後ろには当然だれもいない。
「だからうるさいって!」
現地調達などあってはならない。火事場泥棒などもってのほかだ。いついかなるときでも勇者は勇者たらねばならない。倫理感を失ってはおしまいだ。
「そんなこと言ってる場合かって……」
「だからっ――」
私は先輩が嫌いだった。
「考えるよりもまずは行動」「足りなきゃ殺して奪えばいい」
などが口癖の、野蛮で騎士道精神のかけらもない男だった。
ただ行動力だけは折り紙つきで、今回のドラゴン討伐に関しても、彼は十全な装備を整える私を鼻で笑い、何日も前に出発していた。
「準備したって結局一緒だったんじゃねーの?」
「違う!」
その一方、私は真逆のタイプ。彼と私は水と油だった。私はあらかじめあらゆるシチュエーションを想定し、常にすべてが完璧でないと気がすまなかった。
しかし水の盾を用意していたからこそ、ドラゴンの炎を無効化できた。
竜の特性を理解し、湖近くで待ち伏せしていた私のほうが先輩より早くこいつを発見できたのだ。
私は決して間違ってはいない。
「だけどお前はドラゴンに食われた」
「でもこれから脱出する!」
「どうやって? 常に万全の体勢だなんて無理だ。筋はいいんだ。俺の言うことを聞いときゃあ、お前はもっと稼げる」
「いい加減にしろ!」
本格的に酸が頭に回ったのだろうか? わけのわからぬ感情を抑えきれず、幻聴相手にねとつく唾を撒き散らしながら、私はガラクタの山のなかをさまよい歩いた。街に持って帰れば金貨百枚になろうかという隕石鉱も、歴史的に意義のありそうな古代教会のステンドグラスも無視し、ひたすらに歩いた。
ドロドロの街の中央付近に、そこだけ妙に腐食が少ないゴミの山がある。
「しかし本当にどうすんだ? 今のお前にゃ道具袋も盾もねぇ」
その山は他とは明らかに違っていた。粘液のテカリ具合がみずみずしいというか、まだそこまで腐食されていないのだ。
「ま、今回だけは俺に従えや」
山の頂上には穴の開いた兜。山の側面からは薬草だったと思わしき繊維の束が見え隠れしている。
「パクっちまえばいい。どうせ文句言うやつは死んでいる」
無視したい。無視しなくてはならない。そう思うのだが、幻聴はなりやまず、私は歯噛みしながら操られる人形のようにその山を解体していく。
溶けて持ち手のとれた銅の盾。柄だけになった剣。
嫌な予感がした。粘液に濡れぐちゃぐちゃになった籠手のなかで指先がこわばった。
薄い胸当ては不自然な方向に折れ曲がっている。道具袋には穴が開き、中にはなにも入っていない。しかし革製の水筒は中にはまだ水がたくさん残っているようで、喉がゴクリと音をたてた。私の喉頭は野獣のようにいらがっていた。
「ほら飲めよ」
手がとまる。まるで耳元でささやかれているみたいだ。
私はぐっとこらえる。
「まだだ。まだお前と同じところには堕ちない」
「へっ、いつまでそんなこと言ってられるかな……?」
とはいえ喉の渇きは本当に暴力的だった。私は散々迷ったあげく、答えを保留した。情けなく肩から水筒を斜めがけにして、さらにガラクタの山を掘り進む。
「そうだ、それでいい」
「違う! これはこの者の遺族に……」
続いて出てくるのは破れた手袋だ。その指にはなぜかブロンドの髪の毛がこびりついている。
錆びた矢じり。服の切れ端。ボロボロの靴。
そんななか、あきらかに見覚えのあるクリスタルのネックレス――
「うおわっ!!」
次いで出てきたモノを見た私は足を滑らしひっくりかえった。
その拍子に兜が頭から再び外れ落ち、粘膜のヒダにひっかかる。ライトがそのモノをうまい具合に照らしだす。
瓦礫の中心には死体があった。
むき出しの肌は酸で焼けただれ紫色に変色し、ひび割れ剥げ落ちた鎧にはあちこちに穴が開き血がにじんでいる。頭は岩が直撃したのか頭蓋骨が陥没し、顔は醜く歪み死の間際の苦悶がありありと読み取れた。
間違いなかった。あのギルドの先輩だった。先輩がドラゴンに食われて死んでいた。
「あっ、あ、ああぁっ……!」
私は息をすることもできず、ねとつく床の上でじたばたと転げ回る。混乱する頭に唯一浮かんだ考えは、
――逃げなくては!
かろうじて立ち上がり一歩踏み出した直後、腐った果実のような柔いなにかを踏み潰しつんのめる。靴越しに感じた嫌な感触に背筋が凍る。
下を見るのも恐く、力のかぎりに駆け出した。
――逃げなくては! ……だけどどこへ?
兜を拾うのを忘れてしまい、視界はすぐに暗くなる。
どこに逃げたらいいのか、どうすればいいのか、頭はもう真っ白で、なにも考えられない。
粘膜の深みにけつまづく、酸溜まりに頭から突っ込みそうになり、身体をひねると、ごつい岩に肩口をぶつけ激痛が走る。
動揺し、自分自身ですら理解できぬ単語をわめき散らす。口の中に入り込んだ陶器の欠片のようなものを吐き出せない。立ち上がりざまに床が波打ち、またすっころびそうになる。舌の先を思い切り噛んでしまい、乾いた口に鉄の味が広がった。
私は中腰と四つんばいの中間みたいな体勢で、腐りきってボロボロの木板を跳ね飛ばす。息も絶え絶えに、どこかの宮殿の柱によりかかる。
「ありえないありえないありえない」
唇が尋常でなく震え、膝から崩れ落ちてしまいそうになる。
しかし、あれは間違いなく真実だった。
頼りなくとぼとぼと再び走り出す。みぞおちあたりで先輩の水筒がパンパンと音を立てる。さっきまであれだけ聞こえていた幻聴は、今はまるで聞こえてこない。
私の前にはもう闇しかなかった。息をするたび肺が張り裂けそうに痛かった。
柱から数メートルも進まぬうちに、腐りかけのロープかなにかが足に絡みつき、絶叫とともにヒダのなかへ倒れ込む。
カチコチになった指先に発狂しそうになりながら、足に絡まったなにかを取り除く。
それはロープなどではなかった。硬い、それに白い? 私はその白っぽいなにかを、暗い目の前に近づけた。
目を凝らしてよく見ると、それは鋭くカーブした肋骨だった。
私の足元でベヒーモスと思われる大きな動物が白骨化して死んでいた。
急に涙が溢れてきた。
――あぁ、もうすぐ私もこうなってしまう。
身体の内側からむくむくと疲労感が芽吹きはじめ、みるみるうちに私の四肢を絡め取っていくのが感じられた。
先輩はモラルも口も手癖も悪かったが、腕だけは立った。彼は私よりもはやくドラゴンを見つけていたのだ。そんな先輩ですら食われた。殺された。
脇腹が差し込むように痛い。鉛など鼻で笑えるくらいの重みで鎧はどっしりと全身にのしかかり、中は体温でじりじりと蒸れているかのようで、皮膚という皮膚に鳥肌が立っている。
「畜生!」
私は骨を投げ捨て叫んだ。
死にたくない。こんなところでだれに顧みられることもなく朽ちたくない。
心臓が激しく脈動し胸を内側から強く叩きつける。きつく握り締めた拳の指先の感覚がなくなってくる。
「クソ、クソ、クソッ!」
逃げちゃだめだ! 逃げてもなんの意味もないし、逃げ場すらない。今すぐ立ち上がって脱出の手段を練らねばならない。だのに身体は無茶苦茶に重く、いうことを聞いちゃくれない。先輩と一緒にこんな薄汚い腹の中で死ぬなんてまっぴらなのに……
「ああああぁぁっ!」
腹の底から湧き上がるドロドロとした情念を無理やり怒りへと変換しようとする。絶望に飲み込まれないよう必死で息を切らしながら、ドラゴンの粘膜を籠手で殴りつける。無機質なヒダのうねりに幾度も拳を叩きつけ怒鳴りまくる。
「はあっ、はぁっ……はぁっ、はぁ……」
気づくと、真っ暗だった視界が真っ赤に染まっている。
ひたすらに右腕が重い。自分の眼が充血しているのか、第二胃の粘膜が内出血して赤くなっているのかわからない。吐き気と耳鳴りとめまいが全身を震わせる。
振り返ると、わりと近くでライトが揺れている。自分としてはかなり走った気でいたが、実際にはたいした距離ではなかったようだ。
パニックになるな。まだ諦めちゃだめだ。必死で自身に言い聞かす。
私はやたらとまぶしく感じるその光をにらみつけ、まだ残っている思考力を必死にかき集めようとする。
――とにかく冷静になれ!
かき集めたところでやはりなにも浮かばないが、呼吸が若干深くなり、ほんの少しだけ身体の重さが改善する。
めまいをこらえながら、ゆっくりと立ち上がる。もう一度状況を整理しよう。とにかくここは暗すぎる。よろめき肩で息をしながら先輩の死体のところへ戻っていく。
ざわつく粘膜に埋もれた兜を回収する。ねとつくそれをかぶり、明かりを再び先輩に向ける。
死体はパンパンに膨れ上がり、牙に貫かれた大腿を惨めにさらしていた。よく見ると紫色の皮膚にまじって黒く焦げついた部分も多く、直接的な死因はファイアブレスによるものなのかもしれない。
「…………」
先輩は粘液にまみれた皮膚を不気味に輝かせながら、依然として沈黙を保っていた。
時間をかけて深呼吸して息を整える。私の口腔の粘膜という粘膜はズタボロで、喉が胸元の水筒を欲し暴れはじめるが、無駄な感情はすべて頭ごなしに押さえつける。
まともに考えれば先輩が死ぬのは当然だ。この男はあまりにも準備が足りなすぎた。鎧が軽量すぎるし、ドラゴンが炎を吐くタイミングも見誤っていたのだろう。
――私は先輩とは違うんだ。嘔気を悪寒ごと飲み下す。
あらゆる状況に対応できるよう、私は事前に準備をしてきているんだ。
アーマーを着こんでいたから牙にやられなかったし、ドラゴンの生体だって図書館でしっかり調べている。
ドラゴンに砂嚢があることだって知ってるし、胃が四つあることだって知っている。ドラゴンは反芻だってする。とにかくドラゴンは消化が悪い。膨大な食事量に対し消化酵素が足りていないから、クリスタルだって飲み込むし、吐いては噛み吐いては噛みを繰り返す。
――反芻?
「反芻。おいそうだ反芻だよ!」
私は思わず手を打った。
反芻――一度飲みこんだ食物を口の中に戻して、噛みなおす行為。
急いで近くの壁まで移動する。
壁はやはり高くそびえ立っている。第一胃と違い横方向に段々になっているのではなく、ストライプ状に縦にならんだヒダ。これを正攻法に登るのはとても無理だろう。
しかし、吐かせるのはどうか?
私は助走をつけて、よどんだ色合いのそれに渾身の体当たりを食らわせた。
見てろよドラゴン。溜まりに溜まったお前の腹の中身を今から全部吐かせてやる。
鎧の肩の尖った部分に全体重を乗せ、えぐるようなタックルを何度も何度も繰り返す。
タックルが決まるたび牛のゲップのような音がする。ヒダは揺れるたびに潤みを増し、涙のように粘液を散らす。ついには厚い上皮の奥で毛細血管が切れたのか、鉛色が赤く色づきはじめた。
だが、私が吐き出されるような気配はまるでなかった。
身体のどこにそんな水分が残っているのか、汗が果てしなく噴き出し、鎧の中はもはや水責め状態だ。脱ぐとどうなるかわかっていても、それを脱ぎたくてたまらない。
――くそ、方向性としては間違っていないのに!
私は舌打ちする。なにしろ倉庫や馬車ごと飲み込むやつだ。体当たり程度でどうにかなるものではないのかもしれない。
少しやり方を変える必要があるようだ。
すぐ近くに、手頃な石の棍棒が落ちている。表面に無数の傷がついたそれは、おそらく先史からそこにあったのだろう。私はそれを拾い、壁の内出血しているポイントめがけ思いきり叩きつけた。
しっかりした手応えがあって、鈍い音がヒダの隙間で反響する。
もう一発。さらにもう一発。
赤い粘膜は叩き続けると徐々に黒ずみ、ひくひくと不自然な痙攣をしたあと動きをとめた。小さくともドラゴンにダメージを与えているのは確実だった。
しかし、それでもまだ状況に変化はない。
ドラゴンの防御力は内蔵であっても強力だ。穴を開けるところまでにはけっして至らない。それに粘膜の一部が死んだからといっても、全体から見れば砂漠の砂一粒ほどにすぎない。
不毛だ。こんなことをしてもやはり無駄なんじゃなかろうか? そんな考えが鎌首をもたげだす。
いい加減腕も肩も痛く、腿は真っ二つに裂けそうだ。
――いや、だめだ。もっと。もっとだ。
私は一心不乱に叩いた。叩き、叩いて叩いて叩きつけた。
あぁ、普段からもっとトレーニングをしておくべきだった。
上腕二頭筋も、広背筋も、僧帽筋も、腹筋も、大腿直筋も、ヒラメ筋も、自分の筋肉の弱々しさがとにかく恨めしかった。
私はいつでも準備が足りない。
ついに棍棒の柄が折れて、先端が遠心力で背後の暗黒のなかへ消えていく。
その瞬間、むせ返るような酸と汗の臭いやられ、私は吐いた。
数時間前に食べたパンがあふれ出し、ぐちゃぐちゃになって唇の間からこぼれ落ちた。ほとんど原型を残したままのピクルスが白ばんだ胃液とともにヒダの隙間に消えていった。
嘔気は一回だけではまるで収まってくれず、私は壁に手をつきさらに吐く。胃の中身を吐きつくすと、薄い褐色をした胃液だけになる。そしてついにそれすらなくなり、あとはただひたすら喉にからみつく嗚咽。
――クソが、手前がゲロってどうすんだよ!
いつしか私は体面もなにもない先輩みたいな言葉遣いで思考している。床に溜まった自分の吐瀉物がドラゴンの胃液と混じり合って、常軌を逸した悪臭を発している。鼻が喉が目が、あらゆる粘膜が燃えていた。息苦しさにへたり込もうとすると、胃液が気管へと逆流し、再度咳き込むように嗚咽した。
熱した鉄球が体の中で暴れまわっているかのようだった。まるで呼吸ができないのに、頭のなかは冴えていて、死の絶望は途方もない渇きとなり大きな口を開けて待ち構えていた。
――このままじゃドラゴンに消化される前に、脱水で死んでしまう!
もう辛抱できぬと、胸元の水筒に手を伸ばしかけたとき、
上空から、ゴフッ、と気泡が弾けたような音がした。
直後、激烈に地面が揺れ、私は自らの吐瀉物に滑って転倒した。
床全体が、いや壁もが、ものすごい勢いで蠕動していた。床に転がる岩石同士がぶつかり砕け、粘膜に埋もれた異物や胃石が倒壊する。縦に並んだ壁のヒダとヒダの間隔がきゅーっと狭まっていく。足下で地面が持ち上がり壁と融合して、私は中央方向へと押し流される。どうやら第二胃が収縮しはじめたようだった。
私は快哉を叫び駆け出した。
体当たりが効いたのか、はたまたただのもらいゲロか、どちらにしろドラゴンに吐き気を催させるのに成功したのだ。
床はどんどんせり上がり、ヒダの隙間で小さな胃石が歯ぎしりのような不協和音を奏でだす。粘膜は泉のごとくジュワジュワと粘液を分泌し、私の足を絡め取ろうとする。
石膏の塀と、花崗岩の道標が衝突する。
私は岩の塊に押し潰されないように、粘液の海に滑り落ちないように注意しながら、藍銅鉱の小山の上によじ登る。
胃酸の津波が押し寄せ、朽ちた風車とグズグズになった大理石のモニュメントとがぶつかって、轟音をあげて砕け散る。
私はあっという間に沈みつつある藍銅鉱から泡立つ粘液に浮かぶ角材へと飛び移り、次いでどこか高貴な建物に設置されていたであろう石造りの階段を駆け上がる。階段が酸と吐瀉物に飲み込まれる前に、かつてはシャンデリアだった瓦礫の舟へと飛び移る。
酸っぱい煙の上がる足元から上向きの圧力をひしひしと感じた。
まるで機械滑車で巻き上げられる昇降機のように、シャンデリアは天井めがけまっすぐに持ち上がっていく。
――この流れに乗ればいける。
私は酸に鎧がやられるのもいとわず、石垣、土嚢、屋根と、胃液の渦を漂流する溶け残りの遺物の上を飛び移っていく。天井はみるみるうちに近づいてくる。
そのときだ。
内蔵の壁の向こうから、バサッ、バサッ、バサッという物騒な音が聞こえてきた。
そして唐突で強力な下向きの力に、私は屋根瓦の上でぐらついた。
噴水の圧力が弱まっていた。嘔吐の噴出力と下向きの加速度とが拮抗していた。
――こいつ、空を飛ぼうとしているのか!?
粘膜のあちら側のくぐもった羽音はどことなく焦燥感を帯びている。貴重な食料を吐き出さないようにと、ドラゴンが空に舞い上がり嘔気を散らそうと考えたとしても不思議ではない。
案の定、胃液の水位が少しずつ下降しはじめた。
――まずい。急がないと。
幸い天井はすぐそこだ。第一胃へと続く、ひくつくアスタリスクは目と鼻の先にある。
私は自らの体にかかる重力、鎧のひたすらな重みを悔やみながら、思いきりそいつ向かってジャンプする。
籠手越しにモニュッとした手応えがあって、天井のヒダになんとか片手が引っかかった。
しかし向こうも負けてはいない。
粘膜が揺れる。私という異物をふるい落とそうと痙攣する。垂れてきた粘液が頬にかかって皮膚を焼く。
「間に合ってくれ!」
私は絶叫している。潮は圧倒的なスピードで引いていっており、下を見るとそこかしこで岩や瓦礫の頭が見えつつある。片手で天井のヒダをつかんだまま、もう片方の手で手探りに胃と胃の接合部をこじ開けようと気合を込める。
ペグもピッケルもない。この身一つでやるしかない。体は前後左右に無茶苦茶に揺さぶられコントロールが利かず、籠手の中が汗で滑りうまく力が入らない。両手ともに肘から先が痺れ、ほとんど感覚がなくなってしまっている。それでも――
肉に埋もれた手の先になんだかゴリッとした感触があって、接合部が大きく開きはじめた。
ここぞとばかりに勢いづき、その穴に身体を滑りこませる。
第一胃までの距離はたかだか一メートルほどだ。
体をよじり、肉の口が再び閉じる前に粘膜の壁を這い上がる。ピンク色の粘膜を右手左足左手右足の順に。ドラゴンの巨大な羽音だけが不穏に響く。揺れは著しく、胸元でかけっぱなしの水筒が躍り、手足が滑りそうになる。急げ! だが焦ってはだめだ。絶対になんとかなる。必ず家に帰るんだ。
右手が第一胃の縁に触れたとき、私の頬がいきなり鋭いなにかで切り裂かれた。
反応する暇もなく、今度は肩に小さな固まりがぶつかってくる。
グワッ、と甲高い鳴き声がした。血の流れる頬に羽毛が張り付いたのがわかった。
小さな固まりは次から次へと降ってくる。
頭をあげると、光のなかに無数の黒い鳥がいた。
「なに!?」
上から落ちてきたのはムクドリの群れだった。
――無茶苦茶だ。
ドラゴンめこの野郎、鳥を群れごと飲み込んでゲロを抑え込もうっていうのかよ。
そんな迎え酒みたいな感じに利用されては鳥たちにとってもたまらない。
爪が、羽先が、くちばしが。生きているやつは暴れて、死んでいるやつは重力の加速を借りて、私を傷つける。全力で私を第二胃へと押し戻そうとしてくる。
接合部が閉じはじめる。粘膜がこわばってヒダがなくなる。頭に強力な一撃を食らう。
手が滑った。あっ、という声が出たのもつかの間、私の身体は下方に広がる虚無へとなだれ落ちていった。