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第一胃

 ――もっと準備をしてくればよかった。


 私は足元で蠢くぶ厚い粘膜を見て思った。


 ピンク色のヒダはヘッドライトの光を受けてテラテラと輝きはじめる。たっぷりの粘液に覆われたヒダの下に張り巡らされた毛細血管が、まるで獲物が絡め取られるのを待ち構えている蜘蛛の巣のように見えた。


 立ち上がってみたはいいが、地面はブヨブヨでランダムに波打ち、足下はパン生地にでも乗っているみたいでおぼつかない。私は膝を曲げ重心を下げるが、それでもふらふらと倒れそうになる。


 暑い。それに息苦しい。鎧はすっかり粘液にまみれ、動くたびにねちゃねちゃと嫌らしい音を立てる。フルアーマーの中はすっかり汗だくで、フルフェイスの裏では濡れた髪が額に張り付き、痒さが尋常でなかった。換気を求め、無意識のうちに手が兜に伸び――


 明かりが大きく上下に揺れてから、はっとする。


 そのときハチミツじみた粘稠度の水音とともに、足下でなにかが跳ねた。


 胃酸だ! ほどなく厚さ五ミリのオリハルコン板をすり抜けた刺激臭が鼻先をかすめ、私は苦々しく顔を歪めた。


 兜を外すのはあまりにもリスキーだった。


 この液体を頭からまともにかぶるとどうなるか? 兜を外すなど正気ならとても考えられぬ選択肢だった。


 とはいえ呼吸も呼吸で限界なのだ。疲弊した体の細胞という細胞がわずかでも多くの酸素を取り込みたいと、声なき悲鳴をあげている。頭は熱と湿度にすっかりのぼせ上がっていて、多少なら正気を捨ててでも、とさえ考えはじめている。


 私は首を強く左右に振り、妥協案を選ぶことにした。


 中途半端に掲げたままの手をゆっくりと顎先に近づけ、面甲を軽く持ち上げるにとどめてやる。


 面を上げるとなおさら臭いがきつくなる。しかしその一方、今まで圧迫され続けてきた顔の皮膚は、空間の無限の広がりに震えはじめる。ここぞと口から空気を吸い込むと、喉頭から気管にかけて爆発したかのような衝撃が駆け抜けた。


 失敗した! 両目から生理的な涙が溢れてきた。鼻から吸ったほうがよほどましだった。


 ――なんでこんなことになってしまったんだ!


 私は激しく咳きこみながら、恨みがましく周囲を見渡した。


 面を上げても視界は大して変わらなかった。むしろ角膜を刺す痛みでさらに涙がにじんだ。


 溜まった胃酸があちこちで揮発しているのか、キラキラと細かい粒子が舞っている。ヘッドライトの光はそんな酸の霧の前ではあまりにも心もとなく、どの方向においても数メートルほどで減衰し、深い闇に飲みこまれてしまう。


 広いな……、どうやらここは胃のど真ん中で、あたりには壁すら見当たらない。ドラゴンそのものが城くらいの大きさだったことを考えると、胃も大広間くらいあって不思議じゃなかった。


 痰のからんだ嗚咽。その最後のひと咳は周囲に反響することもなく拡散していく。その寒々しさに気持ちが重くなる。


 あまりにも視界が悪すぎる。


 どうせならもっとしっかりしたランタンかなにかを持ってくるべきだった。アタッチメント式のヒカリゴケ型ヘッドライトではあまりにも分が悪すぎた。


 ついでに角膜保護作用のある目薬も買っておくべきだった。


 戦う前に素早さの実を食っておけば、そもそも食われることもなかったのに……


 やはりまったく準備が足りていなかった。


 ゴポッ、ゴボボボッ。


 突如、上方から大きな水音が聞こえ、私は後悔に下げた顔を上げる。


 ガボッ、ゴオオォォォッッ!


 音量が一気に大きくなった。なんだ? 壊れた雨どいのような不穏な音。私は弱々しい明かりを天井に這わせる。


 五メートルはあるだろう。本当に広間ほどの高さだ。胃の中には上下の概念はなく、天井にも地面同様ヒダが延々と連なっている。水音は鳴りやまない。私は合わせ鏡じみたそれらを睨めつけ、よろめきながら音のする方向へと歩を進める。


 ほんのちょっと歩くだけで、光の反射が不安定に揺れた。


 音の発生源のすぐ近くまでたどり着くと、唯一外気に接する頬の表面に水しぶきがかかった。


 冷たい。が、酸ではない。霧の奥に目を凝らす。


 ――胃と食道の接合部だ!


 天井に無限に広がる幾何学模様の一点に大きな穴が開いている。そこから滝のように大量の水が降り注いでいた。


 ――何が起こっている? 


 そんな素朴な疑問を抱いたのもつかの間、ふいに靴の中に水が入りこむのを感じ、私は悲鳴をあげて飛び上がった。


 気を抜くと、すっかり足首まで浸水していた。


 水流はとどまることがなく、粘膜上に溜まった水はちょっとした池になっていた。しぶきは細かく跳ねて舞い、水は粘液と混ざりあい白い泡をたて光を反射して、ピンクの底はもう見通せない。


 慌てて近くのヒダの高まりへと避難する。


 水の勢いは変わらない。むしろ一段と激しくなったかもしれない。水位はどんどん上昇を続けている。


 それは逆向きの噴水のようであった。食道を通して胃に流れこむ水の柱だった。


 私は空気中の酸が溶けこみ酸っぱくなった唾を吐きすて、この世のものとは思えぬ異様な光景に立ちつくす。


 私は今しがたあそこから落ちてきた。


 要するにドラゴンに丸呑みにされた、そんな事実を改めて目の前に突きつけられた気がした。鎧の下、汗を吸いきったインナーウェアの下で、皮膚がチリチリとざわついた。ゴウゴウ轟く滝の音に、ここに来てライトの電源を入れるまでのあの暗黒感、あの絶望感を思い出し、すっかり打ちひしがれてしまう。


 ピチャン。


 突然、足元でなにかが跳ねた。


 魚だった。


 え? 意味がわからずしゃがみこむと、


 どうやらドラゴンは湖の水を飲んでいるのだろう。泡立ち濁った水の中には大量の水草が混ざっている。


 息がつまる。


 よく観察してみると、渦を巻く仄暗い水面から見え隠れするのは魚だけではない。流木に大きな巻貝、岩石や水鳥なんかもまるごと浮かんでいる。


 こいつは湖を飲み干さん勢いで飲み込んでいる! そして――


「うわっ!」


 一際大きな水しぶきがあがり、私は足場を踏み外した。


 ヒダの深まりに足を取られ、膝まで水につかる。倒れそうになったのをなんとか踏みとどまる。


 ライトの光が霧越しになにかを映しだしている。


 濃い色の、おそらくくすんだ緑色の塊。スローモーションがかった視界一面に映るのは、そんなウロコの集塊である。驚き固まる私の鼻先で、それはいきなりガバッと上下に割れた。縦に大きくひろがって、どぎつい赤の中に並んだ白く鋭い配列に既視感を覚える。


 それは魚でも水鳥でもなく……


 ――ワニだ。


 今まで自分が立っていた空間を、水中から出現した巨大なワニの口が引き裂いていた。


 強力なトラバサミの音とともに勢いよく口は閉じ、私はウロコの中に埋め込まれたルビーのような瞳と目が合った。


 心臓が喉元まで跳ね上がる。


 そのワニには腹から先がなかった。ウロコの配列はあるところから急に途切れ、後ろ足も尻尾もなく、見るも無残にドラゴンに噛み千切られて上半身だけとなっていた。


 ワニは血なのか内臓なのかわからぬ赤い残像だけを残し、再び水中へと消えてしまう。


 目で追うだけ。その数秒間に私ができたことはそれだけだった。勇者として恥ずべき反応性の低さだった。大きな飛沫があがり、一面の水たまりが濁って泡立ってはじめて、私の時間はまともに動きはじめた。


 ――どこだ? どこにいった?


 よどんだ水面で無数の泡が弾けている。暗く、いまだに滝が流れ落ちそれ以外の音はかき消され、ワニの挙動がつかめない。不用意に動くこともできず、私はきょろきょろと右を見て左を見て、足元を見る。息が荒れる。水面が揺れるのは私が震えているからか? いや、胃の粘膜が容赦なく波打っている。とかくぐらついて膝をつきそうになる。泡、泡、泡。


 ――後ろ!


 振り返ると、大きく開いた口と牙。


 とっさに水の中に身をふせた。


 間一髪、ワニの半身は私の頭の上を通過していく。


 しかし、もはや私は水中で無様な四つんばいだ。顔の位置にちょうど水面があって、粘液と消化液の混ざった水を飲んでしまっている。口の中に広がる腐った泥の味にむせ、鼻から喉にかけてあの独特な痛みが差しこむ。しかしワニはそんなことなど考慮してはくれないだろう。


 私は転がるように立ち上がり、全力で駆け出した。


 ――今の私にあんなもの対処できるわけがない。


 兜が外れそうになって、両手を必死に頭にそえる。


 ――せめてナイフさえあれば……


 水で隠れたヒダの段差にけつまずき倒れそうになる。


 しかしナイフは道具袋の中だ。そして道具袋はドラゴンの炎で灰になってしまっている。


 水は容赦なく浸水し両脚にまとわりつき、気持ちだけが急いて、まるで先に進んでくれない。


 ――湖へ行くのなら浮袋も用意しておくべきだったんだ。


 終わっている。いつだって私は準備が足りない。


 ほんの十メートルも走っていないのに息が切れる。


 水を含んだ靴と柔い粘膜はまるで鉄と磁石を思わせ焦れったい。だが、水位はあきらかに下がっている。あとちょっと、あとちょっとでこの水たまりから抜け出せる!


 沈んでいたナマズの死体を蹴り飛ばす。

「うぉわぁっ!」


 ここぞという場面なのに、鎧はきしみまるで拘束着のように私を前へと進ませない。なんだこれは。重い。あまりにも重すぎる。


 私はもはや走っているという状態ではなく、前かがみにほとんど倒れかけているようなありさまだ。


 あぁ、私はなんてバカなんだろう。オリハルコンなんて前時代の素材じゃなく、多少コストがかかろうがチタンにしておくべきだった。そうすれば……


 ――だがとにかく、なんとか水たまりからは脱出できたぞ!


 ……だけど、靴の中にはすっかり水が入り込み、足取りは大して変わらない。粘つく粘膜の床は踏み込むときより、足を上げるときのほうが負担が大きい。一歩踏み出すたびにチャプチャプ、ジャブジャブ。ふくらはぎが攣りそうで、もう限界だ。


 すぐ後ろでワニの雄叫び。しかし振り返っている余裕はない。


 前方、息を切らす私の前に暗闇のなかから巨大ななにかが急速に浮かび上がる。床のヒダの角度が鋭く立ち上がり、粘膜が上方向に折れ曲がる。


 私は失意に立ち止まった。


 壁。行き止まりだった。


 振り向くとすぐそこに半狂乱になったワニ。間髪入れずに襲いかかってくる顎。


 土壇場の反射神経で辛うじて横に避ける。が、酸の水たまりを踏み抜きヒダにつまづいて、粘つく床に転倒する。胃酸に直接触れた靴とすね当てが嫌な音を立て煙をあげる。


 ワニが壁に激突しながら強引に体勢を変える。


「はっ……はっ、はぁっ……」


 私の呼吸音を、ワニの断末魔のうなり声が塗りつぶす。奴の怒りと狂気の歯ぎしりが思考回路を侵食する。千切れた腸を引きずりながらワニが迫る。尖った爪にひっかかれたドラゴンの胃の粘膜が不吉に赤黒く出血している。


 どうすれば? 腰の抜けた私の前で、今一度、顎が大きく縦に開いた。


 もうダメだ。私は大きなトカゲの腹の中で、小さなトカゲに食われて死んでしまう。


 私は籠手を顔の前にかかげ目を閉じた。


 刹那、痺れるほどの衝撃が右腕全体を襲った。ワニの口から跳ね跳ぶ唾液がモロに顔にかかり、酸とは違う悪臭に皮膚が粟立った。


 しかし、そこでワニの動きが止まる。目を開くと、すぐそこにいる血走った爬虫類の目と真正面から向かいあう。


 “オリハルコンの” 籠手。複雑な組成の合金が、がっちりとワニの顎と噛み合っている。


 ――ああそうか。


 歯と金属の擦れる鋭角的な音は恐怖を煽るが、逆にその音こそが希望に変わる。金色に輝くオリハルコンをワニごときが貫けるはずなどなかったのだ。


 私は自由な左手でワニの頭を強く叩きつけた。


 籠手の中で炸裂した衝撃が肘関節まで這い上がる。ワニの鼻から漏れた空気が牛笛のような情けない音を立てる。すかさずもう一発ぶち込む。ワニの頭が上下に跳ねる。確実な手応えと、なんとかなりそうな予感に思わずにやつく。


 引きずった内臓からの出血があきらかに増し、ワニがさらに暴れる。腕ごと持っていかれそうになるすごい力に、私は床に押したおされた。


「くっ」


 こらえきれず、たまった唾を飲みこむと嘘みたいに酸っぱい。ワニが再度顎を引き、床が大きく揺れた。今だ。ワニがまた跳ね上がる前に、私はワニの眼球めがけ拳を突っ込んだ。


 鋭い歯の隙間から甲高い絶叫が漏れる。


 すかさず眼窩に差し込んだ拳を握る。私は眼球が潰れる感触をきつく噛みしめた。


 ――準備は大切だ。


 この鎧兜はドラゴンの牙にも耐えられるよう鍛冶屋に無理言って作らせた特注品だ。湖のワニ程度ならノーダメージで切り抜けられると思って間違いない。実際私はドラゴンの牙にやられず、丸呑みでここに来たのだから。


 撒き散る血しぶきとウロコにかまわず、そのまま視神経ごと眼球を引きずりだす。ワニはただでさえ歪んだ顔をより一層強くしかめうなるが、それでも腕から顎は放さない。私は赤黒く濁った眼球を酸溜まりに投げ捨て、再びワニを殴りつける。何度も何度も何度も。


 そう。十分な用意を持ってことに当たることがなによりも重要だ。


 ヘッドライトを持ってこなければ、今ごろ闇のなかで震えていただろう。


 水の盾がなければ、ドラゴンの炎で一発退場だったに違いない。


 ――たしかに状況は最悪だ。だが私はまだ死んでいない。


 十発ほど打撃を加えてやると、ワニはあっけなく絶命した。


 私は粘膜の上にへたりこむ。呼吸を整え、腕に食い込んだワニの牙を外そうにも、肺の奥底まですっかり酸っぱくなっていて、指先が震えた。唾は吐いても吐いてもどんどん湧いてきりがなく、吐けば吐くほど口の中が乾燥してひりつくので、もう最初から飲み込んでしまうことにした。


 時間をかけて歯を外し、再び立ち上がる。


 酸で半分ほど溶けたワニの死体はあまりにも無残だった。折れた歯やウロコがあたりに散乱し、千切れた内臓からは便が垂れ流しになっていた。


 スマートな倒し方とはとても言えなかった。


 無様な殺生を誰にも見られてなくてホッとする。勇者たるもの、どんな凶悪なモンスターでも無意味に苦しませてはならない。一発で仕留めてやらねば教会に示しがつかない。


 せめて剣のひとつでもないと、格好がつかぬと身にしみて思う。


 でも、あんなことで剣が折れるだなんて、予想できないじゃないか……


 私はワニの死体に十字を切って、背を向けた。


 ――とにかく、絶対にここから脱出してやる。この巨大なワニの腹の中から外へ戻ってやる。


 全身にこびりついた粘液を払い落としながら、霧の中、例の水音をたどりに再び食道の真下へと移動する。


 食道からの水の流れはかなり緩やかになっていた。さっきは膝まであった水位も方々へ広がり粘膜に吸収されて、いまやわずかに靴を浸すだけだ。


 ――しかし、どうやってあそこまで登るか。


 私は頭上の食道と胃の接合部を見て頭をかかえた。


 梯子なんて持ってきちゃいない。ロープも燃えつきた道具袋の中だ。


 ヒダ群の中央で、アスタリスク状の粘膜のシワが気持ち悪くひくついている。それは見ようによってはすぼめた口のようでもあり、お前はここで溶けて死ぬんだ、などと言われているようにすら感じてしまう。


 そこにいるとなんとなく落ち着かず、考えがまとまらない。私はアスタリスクから逃げるように、また粘膜の壁まで移動する。


 壁にはすぐにたどり着いた。しかし霧の中では方向感覚が狂うのか、自分としてはワニの死骸のところへ戻ったつもりだったが、壁の近くにワニの死体は見当たらなかった。


 まあいい、どこの壁だって一緒だ。たっぷりと粘液が染み付いた壁の表面には、うねうねとヒダでできた縞々模様が蠢いている。


 ――これをつたって登ってみるのはどうだろう?


 意外に悪くないアイデアじゃないかと、私は血管の浮いたヒダのひとつを両手でつかんだ。


 ねとつく粘液層の下で、グニャリ、と内蔵の気持ち悪い感触が籠手越しに伝わってくるが構ってはいられない。


 続いて足もヒダにひっかけてみる。さすがに重みでずるずると落ちそうになったところで、すかさずもう片方の足。やはりバランス悪く、私は壁に四つ足でへばりつくことになる。


 理論上は両手両足がずり落ちる前に、次の手、次の足を出していけばいい……


 が、まるで上手くいかない。


 一メートルくらいは辛うじて登れるが、圧に反応した粘膜はぬるぬるとした液をさかんに分泌しながらクネクネと蠕動し、何回やっても私を胃の底へと押し戻す。


 五、六回ほど繰り返し、耐えきれなくなってついに私は尻もちをついた。胸当てと肘当ての擦れる音が虚しく鳴った。


 フルアーマーで壁を登るのは相当に厳しかった。防御力は可動性と反比例する。ぶ厚い金属同士がひっかかり肩関節も股関節も一定以上の動きは制限されてしまうし、なにより重すぎる。


 ――これを脱げばあるいは?


 馬鹿げた考えを頭を振って追い払う。そんなことをすればドラゴンの胃酸にすぐに溶かされてしまうに決まっている。


 ――ならどうすればいいんだ……


 そして私は途方に暮れた。


 ――いやだめだ。なにか考えろ。とにかくなにかしらのアイデアを……


 疲労に息が荒らぐ。酸を含んだ空気は肺から血流にのって全身を巡り、もはや頭まで酢漬けとなっしまっている。鼓動だけが意味もなく空回りしていて、消化までのタイムリミットを刻一刻と刻んでいく。


 そもそも丸呑みにされるだなんて想定もしていなかった。ドラゴンに食われ生還した人間なんて今まで聞いたことがない。成功者がおらず対策の立てようもない以上、どうしようもないじゃないか。

 それに――


 背後からドサドサドサ、という大きな音がして私は身体を震わせた。


 慌てて顔をそちらに向ける。


 音はあの胃の入り口、地獄からの唯一の脱出口から聞こえてくる。


 いそいそと駆け寄って観察する。


 光の帯が照らしだすのはやはり食道と胃の接合部であった。そしてそこから、再びなにかが大量に降ってきていた。


 今度の滝は水ではない。もっとドロリとしたなにかだ。


 次から次に流れ落ちてくるのは、粘液にまみれたマーブル模様。木の表皮のような茶色い繊維に、緑がかった葉のようなものが混じる。さらには赤く潰れた実のようなものもあって……


 なんだこれ? リンゴ? いや、


 ただのリンゴというのは適切ではなかった。正確にいうならば、リンゴを葉のついた枝ごと、枝のついた幹ごと。いや木ごと、むしろ果樹園ごとドラゴンが貪り食っているのだった。


 私は呆然と、とどまることのない流入を見上げ続ける。


 リンゴは次から次になだれ込んでくる。これほどの暴食だと、たしかに農家もたまったものじゃないだろう。ギルドのあの破格の懸賞金も妥当といえる。


 しかしこんな勢いで降ってこられれば、食道を上っていくのも困難ではなかろうか?


 幹が粘膜の上でバウンドし、土のついた根が跳ねる。胃酸とはまた違った、とはいえ不快な甘酸っぱい匂いが迫ってきて、私は知らずに後ずさりしている。


 ――脱出なんて夢物語じゃないのか?


 最後にドロッとした粘液が糸をひいて、食事は唐突に終わる。そして何の前触れもなく、いきなり天井や地面のヒダが痙攣しはじめた。


「今度はっ!?」


 地響きのような音が胃全体に鳴り響き、尋常でない揺れに私は転倒する。


 小山となったリンゴの残骸が粘つく音を立てて崩れていく。全身に異様な気配を感じると、なぜか胃の床全体が斜めに傾きはじめていた。


 立ち上がることなどとてもできず、私は四つんばいの姿勢のまま硬直する。


 腹越しに聞こえるドラゴンの激しい咆哮。聞きたくもないあの金切り声に私の兜が共鳴し、頭蓋骨の内側までもがぶるぶると震えてくる。


 傾斜の角度が上がる。十五度から三十度くらいにきつくなる。


 山盛りのリンゴが、粘膜の傾斜にそって流れ落ちていく。


 ――まずいまずいまずい。


 私は慌てて両手を粘液に埋め、床のヒダを強くつかんだ。


 坂の遠く下の方からゴポゴポという大きな音が聞こてくる。第二胃。嫌な単語が頭をかすめる。


 胃には二つの穴が開いている。私が入ってきたあの食道との接合部と、もう一つは――


 振り向けばわかる。理屈としては、戦術としては後ろでなにが起こっているのか確認しておいたほうがいい。だけど、怖くて背後を確認することができない。


 すっかりパニックになり、私は言葉にならぬ声でなにかを叫んでいる。


 ここより奥に行ってしまえば本当に脱出が困難になる。なんとかしなくては、でもどうやって?


 角度が四十五度に上がる。


 私は私を弾き落とそうと揺れ動くヒダをつかむ両手にさらに力をこめる。ヒダはひどく内出血して怖いほどに赤い。


 いつの間にか、根や葉や枝は完全に転がり落ちてすっかり見えなくなっている。


 六十度。


 粘膜はより激しく蠕動し、今まで以上に粘液を分泌する。指先が滑る。握力が空回りする感覚に私は吐き気を覚える。


「あっ」


 大きな波が胸に当たり、私は空をつかんでいた。一瞬ひっくり返りそうになり、無理やり体全体を押し付けるも、みるみるうちにずり落ちていく。ヒダはここぞとばかりに痙攣する。揮発した胃酸が至近距離の鼻の粘膜を焦がしていく。


 七十五度。


 身体が完全に宙に投げ出された。


 こんなことなら鎧に棘でも生やしてもらうように頼めばよかった。


 滑り止めの付いた靴を履いてくればよかった。


 そんな後悔も虚しく、私は大きく開いた闇のなかに飲み込まれた。




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