第八話 ここで待つ
股間を襲った衝撃にクラウスがセラを手放す。だが、股間を押さえながらも、片腕で地獄の業火を生み出すクラウスに対して、アータはセラの首根っこを捕まえ、大きくその場を背後に飛びのいた。
次の瞬間には、クラウスが生み出した掌の業火――ではなく、先ほどまでアータとセラのいた足元から煮えたぎるマグマが天に向かって剣を成して飛び出した。
『ほう?』
掌の業火を囮にし、足元から敵を灰に変えるクラウスの十八番の一つ。業火の剣潜。自身の十八番を回避されたことに、クラウスは痛む股間から手を離して距離を取ったアータに追撃を続ける。
大地から噴き出したマグマで成す剣を手にし、飛びずさったアータに向けて横に薙ぐ。手にしたマグマの剣は溢れだすマグマの壁へと姿を変え、周囲の木々ごとアータとセラを飲み込んだ。
だが、マグマでできた大波にも似た巨壁を突き抜け、デッキブラシがクラウスの顔面を狙って飛んでくる。これを開いた手で受け止めたクラウスは、携えていたマグマの剣の切っ先を大地に下ろして瞳を鋭く細める。かざしている片腕の掌では、受け止めたデッキブラシが起こした摩擦熱が煙を上げる。
十八番を見切り、追撃を凌ぎ、反撃をしてくる。
『貴様、本当に人間か?』
クラウスの幻影は、デッキブラシで突き破ったマグマの穴から飛び出してきたアータに問いかけ、手にしていたデッキブラシを投げ渡す。脇にセラを抱えたままのアータは、投げ渡されたフラガラッハを受け取りながらも、クラウスの問いかけに答えた。
「見た通り、人間だな俺は」
『……いや。その脆弱な心と身体で、よもやここまで強い人間がいるとは思ってもみなかったのでな。私としたことが怒りを通り越して、覆わず感嘆してしまったほどだ』
「そいつはどうも」
言葉の端々からアータに伝わってくるのは、歓喜にも似た高揚だ。自分の背後でもはや見渡す限り灰燼となっている森のように、クラウスの放つその感情は周囲の木々を覇気だけで散らせていく。クラウスの背後にいるナクアがアンリエッタ達への覇気を防いでいるので、彼女達こそ無事だが、このまままともにぶつかり合えばどうなるかは火を見るよりも明らかだ。
……明らかというよりも、丸一年の戦いを通してよく理解している。
『あーたん、今ならまだ理性もあるみたいだし、話し合いを――』
「…………」
『あーたん! なんで黙るんですのん!? 今を逃したらもう……!』
フラガラッハが厳しい声で叫んでくるが、アータは視線の先にいるクラウスの幻影の放つ覇気を受けて、身体をわずかに震わせた。武者震いである。
そして、話し合いの場を持たないという意思表示を、手にしたデッキブラシをまっすぐとクラウスの顔面に向けることであらわす。これに、クラウスはくっくっくと声を押し殺して笑った。
『喚くな、アーティファクト。貴様の主は貴様より遥かに現状をよく理解している。話し合いなどという軟弱な真似をしようものなら、後ろの魔族達から消し炭にしていたところだ』
『……!』
『なぁ、わかっているよな人間』
「あぁ、わかってる。試したくて堪らないんだろ?」
クラウスの口端が吊り上がる。血の色にも似た真紅の双眸は鋭さを増し、その無敵の肉体から洩れる魔力は、クラウスの長い銀髪を浮かび上がらせる。強靭な黒翼は大きく広がり、その背が僅かに前のめりに。
いつ攻めてきてもおかしくない戦闘態勢だ。アータもまた、脇に抱えていたセラを傍におろすが、呼吸を整えるセラに視線は向けない。地面に降りたセラは、荒れる呼吸に胸を押さえながら、すぐにアータから距離を取っていく。
(聞こえる、アータ。聞こえても返事はしなくていいのだわ)
脳裏に直接語り掛けてくるのはセラの声だ。彼女の言葉の通り、アータはクラウスから視線を外さず、デッキブラシを下段に構えて返事の代わりにする。
(ろくに魔法は使えない現状を知ってて、お願いするのだわ。一分、持ちこたえて)
魔力制限下の状態で、完全に本気になった魔王相手に一分持たせろと。
不思議と口元が緩む。下段に構えていたアータは、セラの言葉に構えを解き、手にしていたデッキブラシをひょいっと空に投げた。空に飛ぶデッキブラシをクラウスも見上げ、呆れたように肩を竦めて見せる。
『なんのつもりだ? この私相手にアーティファクトも持たずに――』
「徒手空拳だ。一分だけ本気で相手してやるよ」
『――――』
アータのこの言葉は、魔界無敵の肉体を持つクラウスの幻影の逆鱗に触れた。先ほどまでとは比べ物にならないほどの殺気を放つ。クラウスからの覇気を魔力壁で防いでいたナクアは、後ろにいたアンリエッタやフラウもろとも風圧に吹き飛ばされていく。
森の騒めきは――否、もはや森の悲鳴は大陸を揺らせるほどに。
次の瞬間、アータとクラウスは互いに一息の間もなく距離を詰め、右拳を突き出した。ぶつかり合った互いの拳の余波は大地を抉り、空に広がる雲を押しのけていく。アータもクラウスも互い剥き出しの闘志で一歩も引かず。ぶつけ合った拳は互いに必殺には及ばず、アータが先手を取る。
右拳に込めていた力を抜き、ふっとクラウスの態勢を崩すと同時に、反転。左腕でクラウスの右手首を掴みとり引き寄せ、上半身を傾け、右足をクラウスの顎に叩き込む。回し蹴りの形でクラウスの顎を捕らえたが、まるで大地を蹴り上げているかのようなずしりとした感触に、蹴った右足のほうが悲鳴を上げる。
クラウスもまた、そこらの魔族なら顔ごと消し飛ぶ一撃を軽く耐え、広げた翼で自身の身体が空に浮かばぬよう逆に羽ばたいた。蹴り上げるアータの足と、顎一つで押しつぶそうとしてくるクラウス。蹴りが生み出す風圧はクラウスの背後の木々をなぎ倒していき、クラウスの羽ばたきはアータ達の立つ大地をずんっと音を立ててめり込ませる。
『ぬん……!』
だが、その拮抗も一瞬だ。蹴りげていたアータの右足を掴み取ったクラウスは、そのまま力任せにアータの身体ごと天に振り上げ――大地に振り下ろす。アータは自身の身体を襲う強烈な重力に歯を食いしばりながらも、地面にたたきつけられるより早く上半身を反り、両腕で大地に着地。
「っ……のォ!」
骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げるのを無視して、自分の右足を掴むクラウスの腕を左足で蹴り折った。
衝撃。そして驚きに目を見張るクラウスだったが、蹴り折ったクラウスの腕は瞬きの間に完治し、体制を崩していたアータの腹にガードも間に合わない拳が突き刺さり、はじけ飛ぶ。二度三度地面を跳ねるが、すぐさま体制を立て直し、直立。視線の先にいるクラウスもまた、折られたはずの腕の感触を確かめながら、舌なめずり。
そうして二人は、再び示し合わせた様にぶつかり合った。
鳴動と共に揺れる大地。吹き荒れる暴風にも似た粉塵。視界や聴覚までも奪うほどの衝撃。
戦いが始まってまだ十秒も立っていないというのに、世界は既に二転三転変わってしまったかのような怒涛の戦いの前に、爆心地から距離を取っているアンリエッタはフラウと共に大地にしがみつく様にして耐えていた。
「……っ、無事ですかフラウ様……!?」
「ぶ、無事って言っていいんですのこれ!?」
「叫べる気力があるなら無事よ二人とも。それより……!」
あたりを覆う粉塵で視界を奪われながらも、ナクアは背後のアンリエッタとフラウを衝撃から守り、自身の強靭な糸で遥か先にいたセラを一気に引き寄せた。薄青いショートヘア―は乱れ、視線も映ろで息も荒いセラの姿にナクアは僅かに唇を噛み、彼女を抱き寄せる。
「無事、でいいわね、セラ」
「我のことなら心配いらないわ。それより、瞬きも許さないで!」
「セラ様、この状況何とかできないんです!?」
アンリエッタの言葉に、セラは荒れた息を飲みながら掌を三人の前に差し出した。差し出された掌の中には召喚陣が描かれ、そこから黒表紙の分厚い本が召喚される。
「もちろん、準備は進めているのだわ!」
セラが手にした黒表紙の本を構え、アンリエッタ達が息を飲む傍に、先ほどアータが投げていたデッキブラシが突き刺さる。同時に、デッキブラシはすぐに四人を守るように魔法障壁を展開。迫っていた余波の木々や岩々を障壁が弾く。
『せらたん、急ぐんですのん! 正直ドレインで吸収してる魔力量は少ないから、あーたん達の戦いの余波から守るの、そんなに長く持たないんですの!』
「わかってるわよ! いいから少し黙って集中してて!」
フラガラッハとセラの悲鳴にも似た叫びを耳にしながらも、ナクアは魔法障壁越しに戦いの中心にいるアータとクラウスの戦いを目に焼き付ける。
視線の先では、アータとクラウスの幻影による近接戦が続いている。彼らから距離を取っているというのに、余波だけでアーティファクトの張る魔法障壁に簡単にひびが入るほどの戦い。たかが拳の一つ、たかが蹴りの一つが大地を砕き、空を割って天変地異さえ起こす戦い。
魔法障壁の傍には、抉られた岩や木々が絶え間なく降り注ぎ、障壁そのものに当たっては消えていく。徒手空拳の戦いだけでこのレベル。
「な、ナクア様! 今どうなってます、アータ様無事です!?」
「無事といえば無事ね。あ、今猫だましで股間に頭突きを一撃決めたわ」
「あ、ああああんりえったさん! わらわ、そろそろ風圧で吹き飛びそうなんですわ! というか、風強くて足に付与してる水魔法が解けてまた石になり、なり、なりぃ!?」
「ちょっと何やってるんですフラウ様!? やめてください、この状況で石化はホントにやめてくださいね!?」
「あ、次は後ろから股間蹴り上げたわ」
「そのアータ様の執拗な股間蹴りの意味どこです!? あの一撃必殺の応酬のどこにその余裕あるんですかねあの人は!?」
「ちょっとそこ三人娘! 我、我今魔法唱えてる! 集中乱すから黙るべし、黙るべし!」
ナクアの隣で、魔法障壁の外に黒表紙の本を掲げたセラが小さく呪文を唱えると、宙に浮かぶ黒表紙の本は一気にそのサイズを巨大化させた。数人ほど飲み込めるほどのサイズへと変わったその本は、パラパラとページをめくり、一つの街が描かれたページを開く。
同時に、セラはすぐさまその本を自分達の真上へと移動させ、戦いを続けていたアータに向かって叫ぶ。
「ばか勇者! 準備できたから下がりなさい!」
セラの叫びに、アータは迫っていたクラウスの蹴りを仰け反って躱し、一気に跳躍して距離を取る。だが、クラウスはこれに追撃はせず、その場で腕を組んでわずかに不満げに口元を絞った。
「ふん。貴様の強さは分かったが……いったい何の冗談だ。この私と互角に渡り合える肉体を持ちながら、魔力はからっきし感じん。手加減でもしてるつもりか?」
クラウスの言葉に、アータもまたセラやナクア達の傍で背を伸ばし、首についた銀色の棘付き首輪をつつきながら答える。
「お生憎。こいつのせいで俺自身の魔力はゼロだ。魔力ゼロ相手じゃ、本気は出せませんとでも?」
「ぬかせ。だが、しかしうむ。貴様との戦いは中々に楽しめる」
「お褒めに預かりどうも」
セラの完成した呪文で、アータ達一行の頭上から黒表紙の本が全員をそのまま飲み込み始める。アンリエッタやフラウが慌てる傍で、アータはクラウスの幻影がその場を動かず、自分達を――自分をじっと見つめて笑みを歪める理由を悟る。それは、お互いの実力が拮抗しているが故に。
「いいだろう、寛大な私はこの場は見逃そう。そして、人間。引いた先で、貴様自身の魔力を取り戻して来い」
クラウスの言葉に、アータは否定も肯定もしない。ただ、お互いの頬にぷつりと流れた一筋の血を見つめる。
「もう一度貴様が私の前に現れた時。その時に貴様の命を刈り取ってやろう。せいぜい、全力が出せるよう尽力しろよ人間」
降りてくる本がアータの身体も飲み込み始める。そしてアータは最後に視線の先にいた若き日のクラウスの喜びに歪む笑顔を目に焼き付けた。
「貴様が戻るその時まで、私はここで待つ」
本に飲み込まれる最後に聞いたのは、そんな死刑宣告に似た言葉だった――。