第七話 無敵の幻
『あーたん、きますの!』
今までにないほど切羽詰まった叫びをあげるフラガラッハを下段に構える。傍にいたセラもまた戦闘態勢を取ろうとしているのを、左手で背後にいるナクアのほうに突き飛ばした。遥かな空から自分達のもとへと迫るソイツ――魔王の幻影からは一瞬も目を離さず。
突き飛ばしたセラは、自分の身体がナクア達のもとに向かって飛んだのを理解しているだろう。ナクアもまた、アンリエッタ達を庇いながら、飛んでくるセラを受け止めようと糸を伸ばしている。アンリエッタやフラウは、クラウスの幻影が放つ殺気に耐えきれずに座り込んでいる。あの幻影は、あと数秒後には自分達の命を狩りに来ると。その場にいた誰もが、自分たちの置かれている状況を正しく理解していた。
だが、本能と直感にも似た彼らの認識は、それでも致命的に遅すぎた。
――数秒後には自分たちの命を狩りに来る。
とんでもない勘違いだ。
目の前から自分達のもとに向かってきていたクラウスの幻影は、既にアータとナクア達の間に着地していた。アータ以外の誰も反応はできていない。もとより、時間など止まって感じるほどの速度。その場にいる誰もが刹那の中に残る中、アータだけはクラウスの幻影の速度に反応する。クラウスの足元に見えたのは転送陣。正面から近付いてくるように見せかけながら、無詠唱ノーモーションでの転送。
魔力強化のかかっていない肉体に悲鳴をあげさせながらも、アータは背後に現れたクラウスのほうに顔を向け、見た。視線の先で、突き飛ばして宙に浮いているセラにクラウスの幻影が手を伸ばしているのを。
狙いはセラ。
そう理解し、クラウスの幻影がセラに触れるより早くアータはセラの片足を掴んで再び引き寄せ、在らぬ方向に飛ばす。本人が理解できない速度で突き飛ばし、さらに真逆の方向に投げ飛ばした。ゆえに、あとで本人は恐ろしい重力の前に立ちあがれもしないだろうが、そんなもの気にもしていられない。
何せ、クラウスの幻影は己の手がセラに届かなかったことと、自分の速度についてきたアータの存在に驚きを露わにして――否。
愉悦を浮かべて、標的を迷うことなくアータに変えてきた。
「――ッ!」
セラを助けたこの一瞬は致命的な隙だった。投げ飛ばした体制からろくな防御を取る時間もなく、標的にされたアータの顔面にクラウスの右拳が迫る。身体の防御はもう追いつかない。目前に迫った無敵の拳を視線で追ったアータは、拳の裏でこちらを見て笑うクラウスの幻影に同じような笑みを返し――。
◆◇◆◇
「アータ……様?」
その場で唯一声を発せたのは、ナクアに庇われるようにして腰を抜かして座り込んでしまっていたアンリエッタだった。瞬きをすることも呼吸をすることも忘れていたアンリエッタ達の目の前に映ったのは、見慣れた背中――いや、見慣れていたものよりはるかに強靭で恐ろしい背中だった。
魔界無敵の王と謳われたその背中には、巨大な漆黒の翼が広がり、ひとたび羽ばたけば自分達などは羽虫より簡単に吹き飛ばされる。それはアンリエッタとフラウを庇って立つナクアでさえも。
そしてそんな背中越しにアンリエッタが見たのは、先ほどまでそこにいたはずのアータの姿が消え去っていたことだった。
ぽたりと何かの滴る音が聞こえ、しがみついてきたフラウに気を配る余裕すらないままに、アンリエッタはクラウスの幻影がゆっくりと下ろした拳を見る。その拳から地面にしたたり落ちていたのは真っ赤な血。そして、自分達の居場所から遥か先にある山が、遠く離れたこの場所まで聞こえるほどの轟音と粉塵を上げたのをみて悟る。
「っ、あ……」
恐怖に声が出ない。アータの傍にいたはずのセラは、自分達よりはるか遠くの木の傍で蹲って立ち上がれずにいる。何が起こったのかは見えていない。だが確実に理解できたのは、アータが――。
「あ、あぁ……!」
視線の先で背を向けたままのクラウスに、アンリエッタは口にできない感情に襲われた。歓喜か、怒りか、それとももっと別のものか。だが、その感情が口から洩れるより早く、アンリエッタ達を庇うように立っていたナクアが、その口を片手で塞いだ。自らの口を塞いだその冷たい掌の感触に、アンリエッタは我に返る。
――震えている。
何とか見上げた視線の先で、ナクアはアンリエッタの前に人差し指を口元に立てて困ったように笑っていた。
そして、アンリエッタやフラウが忘れていた呼吸を思い出したように大きく息を始めるのと合わせて、ナクアは震える身体を落ち着け、目の前の背中に問いかける。
「……言葉は、通じるのかしら?」
ナクアの問いかけに、背を向けていたクラウスの幻影がゆっくりと向き合った。だが、向き合ったその瞬間に、ナクアやアンリエッタ、フラウの三人の身体が石のように身動きを奪われる。気づいた時にはもう遅い。
魔眼。
強すぎる魅了の魔眼で体の自由を奪われ、ナクアは戦闘態勢のままに、こちらを興味深そうに見つめたまま近寄ってくるクラウスを睨む。
『この私を見て立っていられる魔族もいたのだな』
掛けられた声は耳慣れた声と変わらない。だが、その声色には蔑みと憐み、そして侮蔑さえ含まれていた。
「…………っ」
『力の差に委縮したか。この程度の魅了の前に声もだせんとは。骨はあれど、よほど平和ボケした魔族らしい』
一歩、また一歩と近づいてきたクラウスが、アンリエッタ達を庇うナクアの前に立つ。ナクアの背は決して低くはない。だが、それでもなお目前に立ったクラウスの堂々とした立ち振る舞いと、その見下ろすような冷たい眼光が、自分達とは全く別の生き物――魔王という存在を否応なしに知らしめて来る。
だが、それゆえにナクアやアンリエッタは気づく。このクラウスは、自分達が知る前のクラウスだと。
『まぁいい。それに、お前たちよりは先ほどのあの人間のほうが面白かった。まぁ、小突いたら死んだようだが』
クラウスの言葉に、アンリエッタが目をきつくしてクラウスを睨む。その視線に応えも出さず、クラウスはナクア達から興味をなくし、離れた場所で吐きながらも立ち上がるセラのほうに向き返った。
『さて、召喚者』
「な、によ……! 半端物……!」
『ハッ、私を前にしてよく言う。どんな敵に襲われていたのか知らないが、最悪の判断だったな』
「……っ」
セラの首元を片手で掴んで持ち上げ、クラウスは冷たくセラを見下ろしながら語る。
『そんな中途半端な状態で召喚するからこそ、こうして全盛期の私を召喚してしまうのだ』
「えぇ、そうね! そこまでわかってるなら、自害でも何でもしてさっさと消えてくれるのだわ!」
『冗談。わかっているだろう。強さも全盛期なら、欲望も全盛期だと。故に、コントロールごと奪ったのだからな』
ゆっくりとクラウスの指がセラの首にめり込む。クラウスにとってみれば力など全く込めていない。だが、締め付けられる力強さは異次元のもの。セラは呼吸もできず、ただ睨み付けながら自分の首を絞めるその太い腕にしがみ付く。
『残念だな召喚者。もはやだれも私は止められん。私を召喚したお前の行動が世界を滅ぼしたのだ』
冷たく放たれた未来を決める言葉。だが、セラはこれに口元から垂れる血を気にすることもなく言い返した。
「一つだけ、教えといてあげるわ!」
『ほう?』
「私が、なんで貴方を召喚したのか……! 喚べばこうなることを分かっててなんで、話の通じない頃の貴方を喚んだのか! 簡単じゃない! 今の私には、貴方程度しか喚び出せなかったからよ!」
『…………』
セラの言葉に、クラウスの幻影は僅かに緩めていた口元を締め、セラの首を掴む腕にゆっくりと力を込めていく。
『それは結構。では、私も私程度一捻りして見せる化け物を探すとしようか』
そう言い残し、クラウスがセラの首を引きちぎろうとした瞬間、背後から何かが立ち上がる音を耳にする。その音が何かを理解するよりも早く右拳を走った微かな違和感に気づく。無敵の肉体であったが故に、気にもかけていなかった微かな微かなものに。
ぽたり、と。
地面に滴る真紅の血は、クラウスの右拳から。正確には、薄く裂けて赤く腫れあがった右拳から、だ。
これにわずかに、だが確実に驚きを露わにしたクラウスは、首だけはるか遠くの山肌に向ける。
先ほどの刹那の一撃。この場に残る誰もが反応もできなかったあの一瞬で、初撃を防ぎ、あまつさえ反撃までしていたのかと。こうして無敵の肉体に傷をつけるような人間がいるのかと。
『……ハハッ』
嘲笑ともとれる笑い声が漏れ、振り返ったクラウスは背後で立ちあがっていたものを見る。そこには、ナクアの傍で震える両足に力を入れて立ち上がっていた赤い髪のメイド――アンリエッタと、その背に隠れるようにして立つフラウの姿があった。
先ほどまで恐怖に揺れたままであったアンリエッタやフラウは、今はもう自らの主人の幻影であるクラウスを睨むようにして立っている。
『何か言いたげだな、魔族の娘達』
「……」
『せいぜい睨む程度が最後のあがきなら、存分に睨め。どうせすぐに消す』
「一言だけ、いいですか?」
『許す。言ってみろ』
上からの物言いにさえ、アンリエッタやフラウ、ナクア達は腹は立てられない。文字通り、格上どころか次元の違う相手なのだから。たとえ姿形は似ても、自分達の知っている魔王でないが故に、彼らは顔を見合わせ頷く。クラウスの背後で完全に気配を消し、ふんぞり返る身内の化物に向けて――、
「思いっきりどうぞ、アータ様!」
『――ッ!』
アンリエッタの声に、クラウスの幻影が振り返る。
周りにいるアンリエッタや捕まったままのセラ達には認知もできない速度。だがそんな速度の中で、クラウスの幻影は見る。先ほど遥か先の山まで殴り飛ばしたはずの人間が、わずかに裂けた唇から小さな血を流しながらも、自分の顔面に向かって拳を振り被っているのを。
なぜ生きている。ただの人間がなぜ、自分の攻撃に耐えられる。
そんな疑問を脳裏の端に追いやったのは、迫った人間――アータの自信に満ちた笑みを見てだ。
「一発は一発だ。思いっきり行くぞ、クソ野郎」
眼前に迫った人の拳に、クラウスは破顔するほどの笑みを浮かべ、捕まえていたセラの首から手を離した。そして、アータからの顔への一撃を防御しようとして――眼前で振り下ろした拳を囮にした、股間への強烈な蹴りが決まる。
無敵の肉体を貫く、世界が揺らぐ衝撃。
最強の攻撃力で放たれた、騙し打ち上等の一撃必殺の蹴り。
『っ、んんんんごあああッ……!?』
「あぁ悪い、手より先に足が出ちまった。無敵の肉体でも股間蹴り上げは痛かったんだな謝るよ」
『こ、こここ、殺してやるぞ、このクソ人間がああああああ!』