プロローグ 世界地図片手の講義
「見当たらないな」
『見当たらないんですの』
魔王家の地下に備え付けられた蔵書庫。その最奥の一角で積み上げた分厚い本達に囲まれて壁に背を預けていたアータは、ぽりぽりと頭を掻いた。
魔王が集めた魔界中にある文献、新しいものから古いものまでそれなりに用意された書物を、たった今すべて読み切ったところだ。だが、それらの書物の中にアータが求めていたものはなかった。
「見事に残ってないもんだな。歴史書のひとつも」
アータが言葉にしたものこそ、探しているものだ。イリアスの街で起きた事件と、その結果に見つけた遺跡。遺跡に描かれた奇妙な壁画が気になり、あの遺跡が生まれた時代を探ろうと書物を読み漁ったが、何一つ残っていない。
「相棒、お前が作られたのはその時代より後なんだっけか」
『はいなんですの。わたくし様も、何が起きたかは知らないんですの』
アーティファクトでもあるフラガラッハの答えに、アータは開いていた本を閉じ、読み上げた書物の上に並べる。どれもこれも綺麗に保管されていた希少な品であることは、書かれていた内容からも読み取れる。もはや引き継ぐ者のいない魔法の類や、各地に封印された神の所説。見るものが見れば、涎も隠せない貴重な数々。だが、そのどれも、知りたい過去の情報はない。
ないものを探してもしょうがないと、アータはサクッと気持ちを切り替えて立ち上がり、積み上げていた本を抱え上げた。
そうして書物を元の場所に整理していくさなか、通路から聞こえてくる不機嫌な足音に気づき、ため息をつく。次の瞬間には、古びた書庫の扉が勢い良く開かれ、顔面を怒りに真っ赤に染めたアンリエッタが現れた。
「アータ様っ! もう朝日が昇ってます! 今日はお嬢様の、お勉強を……お願い、して……いましたよね?」
「分かってる。ちゃんとそのための資料も作り上げてる。……どうした、馬鹿面晒して」
「……いやあの、その、なんで眼鏡かけてるんです?」
「あぁ」
頬をわずかに紅潮させたアンリエッタに指さされ、アータは思い出したようにかけていた眼鏡を取った。掌に収まった眼鏡は、そのまま淡く発光し、いつものデッキブラシ姿に。ひょいっとこれを背中に携えなおしたアータは、驚きに言葉をなくしているアンリエッタをよそに、本を棚に直す。
しばらくしてまだ呆然としているアンリエッタの姿を怪訝に思いながらも、先ほど言葉にしたようにサリーナ用に作成した勉強用の資料の束を抱え、アンリエッタの傍に近寄った。
「あの……眼鏡」
「見てただろ。フラガラッハだ。こいつは応えるもの。普段はこうしてデッキブラシ姿にしてるが、今みたいに形を変えることは自由自在な代物だ。当然、多少の魔力は必要になるけどな」
「いや、そこで何故眼鏡に? ……というか魔力って。どおりで今朝覗いた犬小屋でルトがぐったりしてたわけですね」
「過去の文献の中には俺が読めない文字も多い。ただでさえ魔界の文字は難解だからな。こうしてフラガラッハを通して読めば、大抵の文字は読める」
「便利ですねほんとにそれ。私にもください」
「ほれ」
欲しいといわれたので、背中に預けていたフラガラッハをアンリエッタに手渡したアータは、そのまま鼻歌交じりに書庫を出ていった。これを呆然と受け取ったアンリエッタは、慌てて去っていくアータの背を追う。
「あのっ、ちょ! ほ、ほほほほんとに私に伝説の剣を渡す勇者がいます!?」
「欲しがったから渡しただけだが」
「馬鹿なんですか馬鹿ですか!? 大体ですね、欲しがったからって、これアータ様の最大の武器ですよね? それをおいそれと――ん?」
書庫を出てアータの背を追っていたアンリエッタが、何かに気づく。手渡されていたデッキブラシの感触が小さくなっているのに気づき、アンリエッタはアータの隣でおずおずとデッキブラシを握っていたはずの右手を顔の前に。
怪訝な視線のまま掌をパッと開いたアンリエッタは、その中にあったはずのデッキブラシの姿が、黒光りする何かに変わっているのに気づき、大絶叫と共に意識を手放した――。
◆◇◆◇
「ではお嬢様、改めて復習しますよ」
「うむなのじゃ!」
魔王家内にある講堂で、椅子に座って机の上に書き物に羽根ペンを走らせるサリーナ。そしてその正面に立つアータは、行動の壁に広げた世界地図をデッキブラシでつつきながら話を進める。
「この世界で俗に呼ぶ人間界と魔界は、それぞれの巨大な大陸名を指しています。東が人間界、西が魔界です。この二つの巨大な大陸を隔てる海の名が、オケアノス。この海の巨大さが、人間界と魔界の交流の少なさの理由の一つでもあります」
「にょほ? どうして海が広いと交流がすくないのかの? 転移魔法は?」
首を傾げたサリーナの言葉に、アータと共に教壇に立っていたアンリエッタがアータを指さして答える。
「魔王家にいると当たり前に見える転移魔法ですが、それ自体が非常に大規模な魔法です。転移魔法に使うコストに比べて、互いの大陸に行くリスクのほうが大きいんですよ。そこらの魔法使いが転移魔法使おうと思うと、それなり以上の準備か、人数が必要なんです」
「アータや父上殿なら?」
サリーナの問に困ったアンリエッタがちらりとこちらを見るのに気づき、アータは肩を竦めた。
「制限下じゃなければ、呼吸するように使えますよ」
「にょっほおおお!」
「……化け物ですねほんとに」
大興奮のサリーナとは裏腹に、アンリエッタに向けられた絶対零度の視線に笑みを歪め返す。だが、そのままでは講義の時間が雑談に変わってしまうことを知っているアータは、地図をデッキブラシでつつきながら話を進める。
「この二つの大陸と巨大な海によって、基本的な魔族と人間の文化圏が異なるものになったわけです。そして、この北西から南東にかけて伸びるこれが――」
「大地の裂け目、通称星の入口じゃな!」
「えぇ。数万年前に起きた大陸変動によって生まれたのが、この裂け目です。その規模は先日目にしたことがあるので、説明は不要ですね」
「うむ! あの大きさはすごかったのぅ! というか、またネリー達と共に一緒にお風呂に入りたいのじゃ!」
先日の雪月華の街での休日を思い出しているのだろうサリーナがにこやかに笑う。その様をアータとアンリエッタは顔を見合わせてほほ笑む。アラクネリーは今、あの町に残って復旧の作業に従事している。アンリエッタの配下となった、メイド服姿を強制されたイエティ達もまた、ネリ―のもとであの町で活動中だ。
「そして、人間界の中央に位置するここが、お嬢様が初めて目にした人間の街――イリアーナ王国の管理する大地です。首都の名はイルナディア。人間界では最大の都市として有名で、商業都市としての名もあります」
「覚えておるのじゃぞ! にぎやかで、目にしたことがないものいっぱいだったのじゃ!」
「私はあまり思い出したくありません……」
「あの時来てたピンクのマントとかちゃんとお前の部屋に飾っておいたんだが」
「あれ飾ったのやっぱりアータ様だったんです!?」
涙目で詰め寄ってくるアンリエッタの顔を押し返しながらも、アータは地図にある人間界の大陸をこんこんとデッキブラシで叩いていく。
「首都イルディアナから北には大地を割るほどの山脈があり、その上には独自の文化を持つ国もあります。逆に、イルディアナから南の大地には、魔法ではなく機械と呼ばれるものを主体に交易を進めている国もあります」
「人間界には国がいくつもあるのかの?」
サリーナの問いかけにアータは頷いた。そしてすぐ、不機嫌な顔をしたままのアンリエッタに視線を向けると、彼女は渋々ながらその意味を理解して語る。
「えぇ。魔族は力こそが全て。故に、魔界で最も強く無敵の魔王様が魔界全土を治めています。それはひとえに魔王様のカリスマとその力故ですが、人間界は違います」
「人間にはこれほど広い大地を一人で支配できるほどの力はありません。だからこそ、一つの大陸の中でもいくつもの国が生まれ、それぞれの国の王同士の間で和平を保っているんです」
「アータが王様じゃだめなのかの?」
それはサリーナにとって素朴な疑問だったのだろう。力こそ全てである魔族にとって、強いものが支配するのは当然。その論理が自分に向けられるのも当然だなと、アータは僅かに頬を緩めてサリーナの言葉に首を振った。
「王になる気も、王になる器でもないんですよ俺は。人間は弱い。だからこそ、その弱さに寄り添い、人々の願いに応えるために己を賭けられる人間でないと、人の世で王にはなれません」
「アータ様ができるわけないじゃないですかお嬢様。この人が弱さに寄り添ったり、願いに応えたり、誰かのために命を懸けるなんてできると思います?」
アンリエッタの透かし笑うような言葉にアータはもまた神妙に頷き返す。
「ってことで、人間界にはちゃんとした王がいます」
「うぅむ、父上殿にできるんじゃから、アータにもできると思うんじゃがのぅ」
「お嬢様、魔王様はあれでも意外とまじめに執政されていますからね?」
サリーナの言葉に静かな突っ込みをアンリエッタが入れていると、三人のいた講堂の扉が開かれた。現れたのは人魚族のフラウと四神将のナクアを連れた魔王クラウスだった。クラウスのその面もちが神妙な様に気づいたアータは、地図を指していたデッキブラシを背に回して問いかける。
「どうしたクソ魔王。今はお嬢様の貴重な講義の時間だが――」
そんなアータの問いかけに、魔王クラウスは深い溜息と共に答えた。
「魔界図書館が襲われた」