第二十六話 イラプセルの遺跡
「ほへぇ、のうのうアンリエッタ、これ凄いのぅ!」
「……えぇ、すごいですねこれ」
アンリエッタはサリーナやアラクネリー達と共に訪れた遺跡の中で、それを見上げて驚きに二の腕をつかむ。傍にいるサリーナは瞳を輝かせて見上げ、周囲を警戒していたはずのアラクネリーやイエティ達もまた、ソレを見て視線を奪われた。
「壁画……ですよね……?」
遺跡を探索していた一行が目にしたのは、巨大な壁画であった。
周囲の建造物の大半は風化しており、その役目を果たさないままに散っていた。だが、遺跡の最奥にあったこの巨大な壁画とそれを守る様に建てられている神殿だけは、驚くほどしっかりと残っていた。そしてそれと同じく残っていたものに、アンリエッタは僅かに瞳を揺らせて呟く。
「この方が……守ってらしたんでしょうか」
視線の先、壁画のちょうど正面に石の椅子に座っている骸があった。骸が纏っているのは、いくつかの防具だけ。だが、その背は決して折れないままに椅子に座っており、生前の骸のその強さをまじまじと感じさせさえした。
アンリエッタは骸に向かって手を合わせ、近寄ってきたテノルの言葉に耳を貸す。
「この壁画に描かれているものを守り続けていたこの骸が……初代の巫女殿なのかもしれませんのぉ」
「……あの、防具から見て男性ですよこれ」
「…………」
何とも言えない空気が漂い、我ながら大変な失言をやらかしたなと、アンリエッタはテノルの輝く額を垂れる汗を見て愛想笑いを浮かべた。そのままテノルは空気をごまかすように骸の傍に近寄り、一度だけ深くお辞儀をしたのちに壁画へと視線を移す。
アンリエッタ達もまた、テノルと同じように壁画を見上げてそこに描かれたものに小首をかしげた。
「……何かの玉と人?」
アラクネリーの呟きを耳にしながらも、アンリエッタは壁画を注意深く見つめる。
その壁画に描かれていたのは、何人もの人々の絵。地面に這いつくばり、何かを諦めた様に涙する人々の絵。そして、人々と同じ数の翼の魔族らしき絵もある。魔族らしき絵もまた、人々と同様に涙を流していた。
そして、彼らの絵の傍には、巨大な玉のようなものが描かれている。まるで、この玉が描かれる人や魔族に何かしらの絶望を与えたかのような。
だが、描かれる玉の大きさは全容が見えないほどのものだ。目の前にある壁画はそれこそ、アンリエッタ達の数倍は在ろうかという巨大なものだが、その中でもその玉らしき物体は半分も描き切れていないほどの巨大さだ。
「どう思いますか、テノル様」
「正直何とも……。ただ、この遺跡の有様とこの壁画に描かれているものを見れば、少なからずこの遺跡がここに落ちた理由があれではないかと思わずにはいられませんな」
「テノル様。おそらく魔王様もアータ様も同じことをおっしゃると思いますが――」
「この遺跡の保護を私共で請け負えばいいんですな?」
頼もうとしていたことをテノルが口にするのに、アンリエッタは僅かに驚きを露わにして会釈する。
「すみません。テノル様と亡くなられた巫女の皆様のお気持ちは理解しているつもりですが……」
「いいえ構いません。どうせ絶対魔紋の影響で、勇者殿に命令されたらいやいやでもやらざるを得ませんし。それに、この老いぼれにもわかりますぞ。この壁画の重要性は」
「テノル様、魔紋はアータが――」
すでに浄化している、と。告げようとしたアラクネリーの口を、アンリエッタが人差し指で止める。アラクネリーは不満げにアンリエッタを見上げるが、アンリエッタはこれに苦笑して首を左右に振った。
アンリエッタは連れてきていたメイド服を無理矢理着させたイエティ達に、テノルを手伝うように告げ、サリーナとアラクネリーを連れて少しだけ壁画から距離を取る。
テノルとイエティ達が壁画の保護について議論し始めるのを耳にしながらも、アンリエッタは彼らに聞こえないような位置でアラクネリーに話を進めた。
「アラクネリー様。テノル様はご自身の隷属の魔紋が浄化されていることは既にご存知です」
「……? だったらなんで、あんな言い方する」
理由がわからないと首を傾げるアラクネリーに、アンリエッタは困ったような笑顔だけを返した。
勇者に協力したいから。
そんなことを、魔族が声を大にしていうはずがないし、自分も言うつもりも教えるつもりもない。だから、絶対魔紋という隷属の理由だけはそのままに残しておきたいのだ。浄化にかかわらず、きっと。
「それよりも、お嬢様、アラクネリー様。そろそろアータ様も魔王様も戻られる頃です。今日は大変な一日でしたし、吹き飛んだ屋敷の跡地に行きましょう」
「そうじゃったのじゃ! アンリエッタアンリエッタ、吹き飛んだ別荘元に戻せるのかの!?」
「心配いりません。別荘ではありませんが、ちゃんとした宿のほうを貸し切りにいたしますので」
「ひゃっほーい! ネリ―ネリ―、今日は温泉で勝負なのじゃ! ついでに明日は街の案内をたのむぞぃ!」
「……仕方ない。アータともお気に入りの場所の約束したから、私に任せる」
そうして三人は、テノル達に街に一度戻る旨を伝え、くだらない話に花を咲かせながらイラプセルの街へと戻っていった。
◇◆◇◆
「で、どうだクソ勇者」
「やっぱり末端組織だな」
「ふん。歯ごたえがないわけだ。でかい口を叩いてた割には、一分と持たない雑魚どもばかりではないか。運動不足で身体が訛る」
互いの背中を預けるようにして立つアータと魔王は、鼻を鳴らして思案に耽る。魔王の言葉通り、蛇の使徒と名乗った組織はアータが手を出すまでもなく魔王によって完膚なきまでに壊滅させられた。生き残りなど見渡す範囲には何一つない。むしろ塵一つ残らっていない状態だ。
連中との戦いを魔王に任せ、組織内の資料を漁っていたアータが見つけたのは、一枚の世界地図だった。
「見ろよ、魔王」
「ん? 何だこの古ぼけた汚い地図は」
「年代物なんだろうよ。それより、印のつけられた五ヵ所を見てみろ」
背中合わせに差し出した古ぼけた地図を手にした魔王クラウスは、そこにあった五つの印のある場所を見て僅かに眉を顰めた。
「……見知った場所にも印がついておるな」
「あぁ。俺とお前が戦ったこともある魔界と人間界の間にある大海オケアノス。さっきまで俺たちがいた大地の裂け目イリアス。エルフ達の神樹のある大陸ユグラ、龍の住まう山脈エトナ。そして、伝説の巨神が封印された大地ユミル」
「曰く付きのある場所ばかりであるな。……ん、いや、これは――」
魔王は地図上につけられた各地の印の意味に気づく。五つの大地とそこにつけられた印を結んで描きあがるものは、五芒星。
「何をしようとしているのか知らないが、わかるな? 島一つ覆うような超規模魔法陣なんかじゃない。それこそ全世界を覆うような、とんでもない魔法陣を描こうとしてる可能性がある」
「……ふん。こんな大それた魔法陣など用意して何をしようとしていたというのだ」
「俺とお前でも殺そうとしてるんじゃないか?」
冗談半分に語るアータの言葉に、クラウスは声を押し殺して笑いながら答えた。
「アホ勇者。もしそうであれば、ここまでして殺したいと思われるほどに、貴様もまた人間に嫌われているということだぞそれは。報われんな、人間界を守るために剣を取った貴様の生は」
クラウスの言葉にアータは珍しく声をあげて笑い、痛む腹に手を当てて笑い声を堪える。
「俺にそれを言うかよクソ魔王。そっくりそのまま、お前に返すよその言葉は」
「ふん! 馬鹿を言え、有象無象に好かれる必要などなく、この私はさりーなちゃんを守れればそれでいい、サリーナちゃんに好かれていればそれでいいのだからな!」
あぁ、さりーなちゃん、パパを待っててね、と腰をくねらせる魔王の後ろで、アータは笑い声を押さえて空を見上げ、思う。それこそ自分も魔王と同じだ。誰彼構わず好かれるつもりはない。アータ・クリス・クルーレは神でもなく、聖人君主でもなく、ただの人であることを選んでいるのだから。目の前を救うために、人として剣をもう一度取ったのだから。
そうして見上げていた空から、足元に感じた冷たいものに、アータは肩に預けていたフラガラッハを腰に差しなおす。
そして、先ほどから恐ろしいほどに超至近距離で背中を預け合っている因縁の相手に、いい加減どうするかを確認。
「で、だ。どうすんだこれ」
「ふぅん! 何がだ!」
ピクリと動く魔王の背筋に、アータは額に青筋を立てながら眉間を揉む。
「確かに、消し飛ばすとは言ったがな俺も」
「言ったな。聞いていたぞ私」
「だけどな、なんでお前は島丸ごと消し飛ばしやがった!?」
そういって叫んだアータの足元には、海水が。視線を向けたアータと魔王の足元は、僅か二十センチほどの島だったものしか残っていない。蛇の使徒達が大規模結界を作って存在を消していた到着直後の島は文字通り、自分達の足元二十センチしかその原型をとどめていなかったのだ。
「最近出番少なくてな、少々運動不足解消がてらに思いっきり地面叩いたら海の底にほとんど沈んだだけだ」
「おいクソ魔王、お前飛べるんだからこの島に乗るな。上行け上」
「やーだねアホ勇者! 貴様こそその気になったら空走れるんだからそこどけ。あ、それともそのおもらししたみたいなズボンで空飛ぶの恥ずかしいのぉ? 勇者執事が聞いてあきれるぅ」
「…………」
若干オカマ口調の魔王の言葉に、アータはピクリと口元を引きつらせた。
だが、濡れる足元に仕方なくアータは魔王の言う通りその場の宙を蹴って空に飛ぶ。アンリエッタがこの場にいれば人間が空を走るなんて非常識やるなと突っ込まれるが、ここには魔王しかいない。悠々と空を飛んだアータは、その場の宙を蹴りながらも魔王の上に飛び、見上げてくる魔王に勝利の笑みを浮かべ返した。
「ハッ」
「何を笑ってるこのアホ勇者! なぁにこの私を差し置いて私の上に飛んでいるか貴様! その濡れたズボンのすそ切り落として半ズボン執事にしてやろうかオォ!?」
「いや、俺の足元で何か騒がしい虫がいると思ってな。地面を這いつくばる裸の魔王を見下ろすのもいい気分さ。あぁ悪い、権力は衣の上から羽織るものだろ? 裸のあんたは魔王じゃなくて、ただの裸のおっさんだったな。その頭についた二本の安っぽいローソク、引き抜いてやろうか?」
「いよぉしこのアホ勇者貴様! 買った、今すぐその喧嘩買ったぞ! 」
「うるさいこのクソ魔王お前! いいだろう、契約云々関係なく決着つけてやろうか!?」
空に飛んでお互いに額をどつき合ったアータとクラウスは、互いに青筋を浮かべたまま手を出すぎりぎりのラインで押し止まり、
「いいかアホ勇者、ここに来るまでは互いに転移魔法を使ったが、ここから先は肉弾戦で勝負だ。どっちが早くイラプセルの街に戻れるかで決着をつけようではないか。負けたほうが酌をする、ってことでどうだ?」
「いいだろう、乗ってやる。せいぜい酌をするワインはいいものを選べよクソ魔王」
「貴様こそ、酌にあうつまみでも考えておくんだな」
次の瞬間、魔王クラウスと勇者アータは互いに残像を残してその場を飛び出す。
そうして二人が競い合うようにして駆ける空が起こした空振は、海と大地を割るちょっとした天変地異と共に、残っていた二十センチの島を海の底に沈めていった――。