第二十一話 変わり始める瞬間は
アラクネリーとアンリエッタは――否。その場にいたテノルでさえも、その光景に目を疑う。
「――すごい」
アラクネリーの口から洩れたのは、驚嘆だった。アンリエッタやサリーナ、アラクネリー達を囲う敵の数は数百を超える。イリアスという街の全住民と、イエティ族の戦士達だ。一人一人が身体強化を受けて操られている相手だった。
アンリエッタやアラクネリーも、一時彼らの猛攻を凌いだ。だがそれは、文字通り凌いだに過ぎず、特に操られた住民達相手には有効な手立てを見つけきれなかった。せいぜい、押し飛ばし、転がすしかなかったというのに。
「これが……勇者だというのか!?」
テノルの眼前で、アータに向かって飛び込んだ住民十人が同時に地面に埋められた。正確には、それぞれが足元の自分の陰に引きずり込まれ、身動きの全てを奪われたのだ。
ついで、武装したイエティ族の戦士が左右から同時にアータを狙う。振り下ろされる巨大な斧に、アータはデッキブラシを空へとぽいっと投げ捨て、それぞれに腕を伸ばし、刃を受け止めた。万全に研がれた斧の刃はしかし、アータの掌に一部の傷を作ることもできずに握りつぶされる。驚愕にイエティ達が目を見開いた瞬間には、彼らの胴を守っていた鎧はおもちゃのように砕け、そのまま吹き飛ばされていく。
再び瞳に蒼い炎を灯し操られた住民達が一斉にアータに向かってきたが、アータはこれに歪な笑みを浮かべて両掌を空に向けた。次の瞬間には、上空で無数に分裂したデッキブラシが住民たちのもとへと降り注ぎ、彼らの陰に突き刺さる。
住民たちの影に刺さったデッキブラシは、そのまま自身にため込んだ魔力で住民達の下半身を影の中に引きずりこみ、身動きを奪う。
拘束魔法――影の沼。
操られた住民達は動きを奪われ、攻め込むイエティ達は一撃で仕留められていく。その圧倒的強さも、圧倒的速度も、圧倒的余裕さえ感じる振る舞いに、アラクネリーは先ほどまでの嗚咽を忘れて魅入る。
魔族にとっての強さとは、文字通り存在意義にすらつながるほどの明確な輝きだ。
強いのは知っていた。百も承知だった。戦って知っていた。
だが、それでもなお。
「これが……魔王様と並ぶ、世界最強の勇者の力……」
アラクネリーは胸に寄せたデッキブラシを再び強く抱きしめ、心躍るような思いでアータの戦う姿を目に焼き付ける。絶望に流れそうになっていた久しく忘れていた涙が、今は両目に興奮に溜まる。畏怖とも歓喜ともとれる、純粋な強さに憧れるアラクネリーの心が、身体を震わせる。
そして、そんな彼女を見たアンリエッタは、困ったように笑いながら彼女の頭を撫でた。
「心配いりません、アラクネリー様」
「…………」
「あの方はやることなすことが無茶苦茶ですが、それでも、口にしたことだけは守ります。だからきっと、貴方の守りたいものも、きっと守――」
「あ、ごめん。アンリエッタ様何か言った?」
「今回の私の扱い酷くありませんかね!?」
「にょっほおおあ!?」
「お嬢様!?」
背後から聞こえてきた轟音に慌ててアンリエッタとアラクネリーが振り返った。そこには頭上から刻一刻と空を覆い尽くすように広がる空島の破片が、サリーナとキメラのすぐそばに突き刺さっていたのだ。それどころではない。あと数分もしないうちに自分たちのもとへと落下してきている空島の破片が、次々とイリアスの街のあちこちに落ちていく。
突き刺さる空島の破片は大きく、街のある大地を抉る様にして粉塵をまき散らす。
だが、それでもなお、テノルの操る住民達やイエティ族は止まらない。止まる気配を見せない。そうして住民達の相手をするアータから離れた位置に集まった三人の傍に、大地を突き破る様にして巨大な拳が突きあがった。
「のほおぉ!?」
突きあがった拳はそのまま、キメラとその背に乗っていたサリーナを捕らえ、ゆっくりと大地を割りながらその姿を現していく。周囲のイエティ達よりさらに一回り大きな巨体。純白の毛に全身を包み、強靭な両腕に鎧をまとったイエティ族の長だ。
『はっはっは! クソ勇者がァ! 貴様の守っていたお嬢様とやらを捕らえてやったぞ!』
「アラクネリー様!」
『近寄るな! 貴様らが近寄るより早く、私はこいつらを喰えるぞ!』
近くにいたアンリエッタとアラクネリーがともにサリーナを助けに向かおうとしたが、それよりも早くサリーナとキメラを口元に持っていったイエティの長は、下卑た笑い声をあげながらアータの名を呼ぶ。
『おい、聞いているのかクソ勇者!』
呼ばれた名前に、アータは飛び込んできていたイエティ族の額を指で弾いて吹き飛ばしながら振り返った。視線の先で勝ち誇る巨大なイエティ族の長に深い溜息を向けながら、アータはずけずけとアンリエッタやアラクネリーの傍に近寄っていく。
「呼んだか? 今取り込み中なんだけど」
『アホ抜かせ! その取り込みがこの私と私が捕らえたこいつらだぞ!?』
「ちょ、アータ様! わかってますかわかってます!? サリーナ様が今にも食べられそうな状態で捕まってるんですよ!?」
詰め寄って涙目になるアンリエッタをよそに、アータは捕まったままのサリーナに視線を向けた。
「すごい楽しそうな顔してるぞお嬢様」
「そんなことあるわけな――」
「にょおおおお! 夢にまで見た人質シーン! 今のわし、世界で一番ヒロインっぽい!?」
「……これで割と致命的な人質経験二回目だということをお忘れのようです」
羞恥に顔面を両手で隠すアンリエッタを一瞥しながら、アータは腰を落として戦闘態勢になっているアラクネリ―の頭を叩き、近寄ってきたイエティを蹴り飛ばす。そのまま周囲のイエティ達を相手にもせず、アータは空を見上げてフラガラッハに問う。
「なぁ相棒」
『なんなんですの? わたくし様、そろそろ住民拘束の魔力が底を尽きそうなんですの! というか、あっちの移動もそろそろ急がないと空島の対処が――』
「あれ、発動させるぞ」
『え”』
次の瞬間、イエティ族の長が手にしていた大筒から弾を発射した。ガンッという鈍い爆発音と同時に放たれてた砲弾は一直線にアンリエッタの眼前に迫る。だが、
『なっ!?』
アンリエッタの眼前に迫った砲弾を、アータはデッキブラシで造作もなく叩き落とした。地面にたたき落とされてなお高速で回転するその砲弾を踏みつけて大人しくさせながらも、アータは手にしたデッキブラシを、腰を抜かせて座り込むアンリエッタに差し出す。
「ほら、アン」
「なんで、なんで私にそれを……!」
困惑するアンリエッタに向かって、アータは真剣な瞳で語った。
「そいつをもって、天に掲げながらこう叫べ。『ふらふらがらっはふらがらっは。みんな私のいうとおりになーれ』。ハイどうぞ」
「いやアホですか貴方!?」
ぱぁん、と。手にしたデッキブラシを地面に叩きつけながら、アンリエッタが真っ赤に染まった顔で憤怒に怒鳴り散らす。
「あのですね貴方状況分かってますか!? サリーナ様が捕まって、今にも空島落ちてきそうで! さらにあんな数のイエティと住民に囲まれてる絶体絶命状態ですよ!? その状況下で何やらせようとしてるんです!」
「ほら時間ないぞ」
「だーれのせいで時間無駄にしてると思ってるんですかね!? やりませんよやりませんからやらないですし!」
「アンリエッタ様、アータ、無駄話してる時間ない!」
住民達を押しのけながら近寄ってきたアラクネリーが、不満げにアンリエッタを睨む。その視線に思わずたじろぐアンリエッタは、地面に転がったデッキブラシを見て拳を震わせた。
「あ、アータ様……。絶対、ほんとの本当に絶対の絶対、それでこの状況を何とかできるんですか?」
「…………」
「そこォ! ノーコメントの任せた的微笑みいらないですから! アラクネリー様も真似しないでください! ……ぬぐぐっ」
ついでにサリーナも期待を込めた煌めきの瞳で見ているのに気づいたアンリエッタは、空を見上げた。眼前に広がる空島の巨大さと、降り落ちてきている空島の破片の数は、一刻を争う。もはや迷ってる時間はない。
「わ、わかりました……! 不肖、魔王家メイド長アンリエッタ! やってやりますとも!」
気合を入れてデッキブラシを手に取ったアンリエッタが、くるりと器用にデッキブラシを回し、天に掲げた。瞬間、アンリエッタの掲げたフラガラッハに魔力が集中し、閉ざされているはずの光がアンリエッタに集中する。そして、アータがポケットから録画用の魔水晶を取り出すのに気づくことなく、アンリエッタは赤く染まった頬のまま、世界に叫んだ。
「ふ――ふらふらがらっは、ふらがらっは! みんな私のいうとおりになーれ!」
「はいおーけー。映像紋章と音声紋章が取れた。ありがとう、アン」
「わかってましたえぇわかってましたとも私そういう役回りになってますからね!」
やけくそ気味に地面に叩きつけられたフラガラッハを拾いながら、アータはたった今録画の成功した魔水晶を懐に直す。そして、四つん這いで敗北に崩れ落ちるアンリエッタの背を叩いてねぎらいの言葉を残した。
「よくやった。お前の勝ちだ、アン」
「いや勝利はないですよねこの戦いに!」
『き、貴様らァ! 馬鹿にしているのか! 何をするかと思ってみていたら、馬鹿なのか!?」
絶句して言葉もないテノルとは裏腹に、サリーナを捕らえていたイエティ族の長がもはやははち切れんばかりの怒りと共に雄たけびをあげ、再びアンリエッタとアータへ向かって大筒を構えた。
『くだらん遊びに付き合うのは飽きた! いい加減くたばれ!』
「遊びって何ですか遊びって! 人の真剣な叫びを馬鹿にすると許しませんよ!?」
『はいすみまっせんアンリエッタ様ぁ!』
……。
…………。
「え?」
『え?』
何が起きたか理解できないといわんばかりに、アンリエッタと大筒を構えたイエティ族の長が目をぱちくりさせる。アンリエッタはちらりと傍で立つアータに視線を向けると、アータはアンリエッタの視線に満面のいたずらな笑みを浮かべて頷いた。
アータとの付き合いが長くなったアンリエッタは、この笑みだけで理解する。
「ふ、ふふふ……。アータ、様。マジですか?」
「マジだ。俺がイエティ族の毛を毟るだけで満足すると思ったか? ちゃーんとキメラの前に、毟ったイエティ全員の地肌に隷属の魔紋を書いてある」
「うふっ」
「ははっ」
ひっ、と。アータとアンリエッタが見せた悪魔の微笑に、イエティ族の長も、武器を手に攻め込もうとした多数のイエティ族も小さな悲鳴を上げた。そうして彼らは、生い茂っている自慢の純白の毛の下で、光を放ち始めた魔紋に気づく。当然、描かれた魔紋は彼らが昨日に毛を毟り取られた時に描かれていたもの――絶対魔紋。
アータ特製、フラガラッハの魔力を感知して相手に隷属を強いる――いやなのに身体が動いちゃう独自呪文。
「じゃあ、イエティは任せるぞ、アン、ネリ―」
「えぇそれはもう存分に。楽しませてもらいますよ、先ほどの羞恥の分まで」
「……アータ、えげつない」
「最高の褒め言葉だ。なぁ、イエティ族の長」
『ひ、ひいいいいい!?』
もはや恐怖にサリーナとキメラを手放してイエティ族の長はその場を逃げ出す。だが、すぐにアンリエッタが燃えるような赤い髪を靡かせながら告げる。
「全員私の前に整列して土下座してください」
『ハイッ、アンリエッタ様! あ』
「そのまま隣のイエティをビンタ。端まで行ったら往復でビンタ」
『ハイッ、アンリエッタさ――おぶっ!?』
「…………」
デッキブラシ片手にイエティ族の戦士の調教が始まったのを見て、アラクネリーは言葉をなくす。空を見上げれば落ちてくる空島はもう目前だ。光も差し込まぬ暗黒にイリアスの街は染まりつつある。住民達の動きはアータが影魔法で奪っているとはいえ、状況は最悪のままだ。
なのに。
だというのに。
「ふ、ふふっ……」
口から洩れるこの笑い声はなんだとアラクネリーは思う。たった数分前に感じた絶望はもう微塵もない。あの時と今違うのはたった一つ。
ちらりとアラクネリーはアータを見て、心を震わせる。絶望はこんなにも簡単に希望に染まり始めた。
「――勇者」
その言葉の意味を、アラクネリーは恋慕にも似た思いで理解し始めた。