第二十話 蜘蛛の巫女は泣く
『では、見させてもらいますよ。勇者の悪あがきってやつを』
そう言い残して、白法衣の男は召喚したキメラの背に乗って空高くに上がり、消えていく。
これを見送り糸の上に立つアータは、くるりとデッキブラシを回転させて正面で水平に構えた。雪崩は続いているが、見る限りで大きなものはない。そうなると優先すべきは、自分の周りで舞う白法衣の呼び出したキメラ十数体と、イエティ族の群れ、操られた住人たちの相手。
そして、魔力を失いつつある頭上の巨大な空島だけだ。
巨大なドーナツ型の空島――。それこそ、一つの大陸といっても差し支えのない巨大な空島だ。浮力を失いつつある空島は、まだ遥か上空にあるというのに、この位置からでも届くようないびつな音を立てながら端から崩れ始めている。
『あーたん、あの空島もう長くないんですの!』
「わかってる」
崩れ落ちる空島の周囲を舞う、小さな空島を眺めながらも、アータは手にしているフラガラッハを軽く振って構え、迫ってきたキメラ達のもとへと飛ぶ。その口元に歯がゆさにもとれる笑みを浮かべて――。
◇◆◇◆
「…………っ」
街の中央で、飛び込んできたイエティを脇に蹴り飛ばしたアラクネリーは、自分の背でにいるアンリエッタとサリーナへとちらりと視線を向けた。
視線の先では、アンリエッタが土魔法で壁を作り、迫る操られた住人やイエティを押しのける。サリーナはアータによって操られたキメラの背に乗りながらも、イエティ達を迎え撃つ。
「アラクネリー様! このままではじり貧です、拘束できないんですか!?」
「今は無理。上のアータの足元にマフラーの糸を全部使いきっちゃってる」
「あぁもうアータ様は! あのひと自分で飛べるんだから一人で何とかできないんです!?」
「ちがう。アータの本当の目的は足場じゃない。張り巡らされた糸にわざと崩れた岩を落として、街に直撃しないようにしてる」
「……どっちにしろ、じり貧です!」
「にょっほおおおおおお!」
不満げなアンリエッタの様子に、アラクネリーもまた唇を噛んで空を見上げた。視覚結界の先――空島は刻一刻と街に向かって落下してきている。空を覆うような巨大な空島相手に、アラクネリーには成す術はない。何より、あんな巨大な大陸を何とかできる力が自分にはない。
『諦めたらどうですか、蜘蛛の巫女』
そんなアラクネリーの目の前に、白法衣の男が下りる。物音も気配一つも見せずに降りて見せた白法衣の男の姿に、アラクネリーは瞬時に飛び込み、その顔面に向かって蹴りを放ち――かすみがかったように白法衣の姿がかき消される。
「……っ!?」
『だから、諦めたらどうだといったんですよ』
アラクネリーの放った蹴りに煙となって消えた白法衣の男は、そのままアラクネリーの背後にもう一度姿を成した。アラクネリーはこれに振り返りはせず、ちらりと白法衣の男の足元を覗きみ、気づく。
――影がない。つまりは、実体じゃない。
『この街を諦めて逃げれば、助かりますよ、貴方達は』
「それはない」
『強情ですな』
「アラクネリー様、下がってください!」
呆れた声を出す白法衣の背後から、異変に気づいたアンリエッタが土魔法で作り上げた剣を振り下ろす。だが、これにもまた白法衣の男は煙へと散り、すぐにアラクネリーやアンリエッタから離れた位置で姿を見せる。その背に、何百という操った住人とイエティを従えて。
その中には当然、この街で育ってきたアラクネリーにとって見知った顔も多い。孤児だった自分を拾ってくれた神殿の神官達。食事を快く分けてくれた市場の面々。自分を相手してくれた魔族。
瞳に蒼い炎を灯す彼らは、無表情にアラクネリーを見つめていた。
彼らの冷たい視線に晒されながら、アラクネリーはアンリエッタとサリーナを守る様に前に出て構える。だが、アラクネリーに対して白法衣の男は穏やかな声で語り始めた。
『時間も少ないですが、少し話をしましょうか』
「貴方と話すことなんてない」
『この街には、隠された秘宝があります』
「…………」
『ですが、その秘宝がなんなのか。どこに隠されているのか。その答えを知るものは、誰一人としていなかった。ただ、秘宝は封印していなくてはいけないものだったのです』
「封印? じゃあ、秘宝はあの御神体じゃ――」
『いいえ、逆ですよ』
白法衣の言葉に、アラクネリーは僅かに眉を潜め、思案する。だが、アラクネリーよりも先に、彼女の背でキメラと共にサリーナを庇うように立っていたアンリエッタが答えた。
「まさか、秘宝を封印するために御神体があったんです……?」
『ご名答です。さすが、あの勇者の傍にいるだけあって勘がいい。御神体は吸い込んだ魔力でこの土地の秘宝――イリアスの秘宝を封印し続けていました。御神体の存在は、街の視覚結界の維持ではなく、秘宝の封印にあっただけです』
「それが一体、今回の件と一体何が関係あるっていうんです!?」
『何千の巫女が犠牲になったとお思いか?』
「……っ」
白法衣の男の言葉に力強さが増す。決意、覚悟、執念。そういった類の揺らがぬ何かが、言葉を続けようとしていたアンリエッタとアラクネリーの口を閉じさせた。そんな二人を仮面越しに睨む白法衣の男は、法衣の裾から握りこぶしを二人の前に差し向ける。
『理由も知らぬ。意味も知らぬ。御神体の魔力がなくなれば、この街が崩壊する? 違う。魔力がなくなっても街は崩壊もしない。秘宝の封印が解けるだけだ。だが、この街を数千年守り続けてきた巫女は皆、そんな偽りに命を捧げてきた。事実、御神体がなくなった今、この街はまだこうして残っている!』
向けられた拳の、そのくたびれた皺を見て、アラクネリーは苦悶に瞳を揺らせた。その表情を知ってか知らずか、白法衣の男の口調は次第に強くなる。
『愛した相手が死んだ。愛しい人を残して死んだ。この街を守るためと。――否! 断じて否! 街を守るためではなく、知りもしなかった秘宝を守るために、その命を使い捨てられたのだ!』
「どう、して……っ」
『知りもせぬくだらない秘宝のために使い捨てられた命の行き先はどこにある!? 街を守るなんて言う幻想に命を捨てる私の娘は、どうすれば救える!?』
「どうして……っ!」
白法衣の男は、伸ばしていた拳で自身のつけていた仮面を外し、アラクネリーの前に投げ捨てた。そうして顔を隠す法衣を脱ぎ捨て現れたのは――悲しみに染まる皺を怒りで伸ばす、大神官テノルだった。
「なれば、壊すしかなかろう! この街ごと! この街が隠す秘宝ごと! ここに住まう全てを壊して、お前を救おう、ネリ―!」
神官テノルの叫びに、アラクネリーは力なくその場に両膝をついて座り込む。
――十年。
この街に捨てられ、育てられ、自分を愛してくれた街のために巫女としてあり続けた時間が、アラクネリーの中でゆっくりと崩れていく。アラクネリーにとっての先代だった巫女達も、自分も、何を信じてあり続けたのかと。
心は死んでるわけじゃない。感情がないわけでもない。ただ、アラクネリーには強く信じていた心の拠り所があり、それがあったからこそ、迷いもなく強くあった。それこそ、次期四神将候補と呼ばれるほどの強さを持つほどに。
だが、それも今形を失った。
信じているものが、信じていた人が街を壊そうとしている。何故。自分を救うためにと。
意味のなかった巫女という命を捨てる行為の理由を消し去るために。
「私は……」
アラクネリーの身体中から力が抜けていく。魔力はもうとっくに空だ。そして声が聞こえてくる。
さぁ、私と共にこの街を消そう、と。
その言葉は目の前で優しく手を差し伸べるテノルものか、それとも住人たちを操っているアーティファクトの力かは分からない。だが、壊れかけた心にその言葉は隙間を覆う様に浸透し、アラクネリーの瞳に蒼い炎がもう一度――、
ゴンッ、と。
鈍い音を立てて、アラクネリーの顔面に何かが直撃した。鋭い痛みはなく、むしろ顔面に無数に突き刺さるような痛みに、アラクネリーは我に返る。慌てて離れていくテノルを尻目に、アラクネリーはうめき声をあげながら自分の目の前に軽い音を立てて転がるソレを見た。
「……でっき、ぶらし……?」
目の前に転がったのは、安っぽい木でできたデッキブラシだ。ただの、それこそ本当にその辺に捨てられててもおかしくないような、ただのデッキブラシなのだ。だが、アラクネリーはソコから目を離せない。息をすることも忘れて、自分の顔面にぶつけられたそのデッキブラシを手に取り、胸に掻き抱く。
熱くなる目頭に少しだけきつく目を閉じ、アラクネリーは嗚咽を堪えた。
そんな彼女の傍に降り立った勇者――アータは、テノルに向かって自分の額をつついて笑う。
「昨日、その頭に直撃した石でできた怪我、まだ治ってないんだろ?」
「……なんのことですかな、勇者殿」
「いや別に。それより、どうした。目が蒼いぞ?」
「――――」
先ほどまでの興奮をテノルは消し去った。その瞳に宿る炎を冷めたように見つめるアータは、アラクネリーの傍に駆け寄ったサリーナを一瞥しながらも、自分の隣に並び立つようにして前にできたアンリエッタに脇腹を小突かれる。
「アータ様! さっき私たちのこと完全に見捨てましたよね!?」
「あぁわるい。いざとなったら勝手に助かるだろうからいいかなっておもって」
「勝手に助かるわけないでしょう!? 私の弱さなめないでください!」
詰め寄るアンリエッタの額を小突きながらも、アータは再びテノルと視線を交わらせた。
「話を聞いてれば、随分極端な方法を選んだなテノル」
「貴方にこの街の何がわかります? 彼女の何がわかります、私の絶望の何がわかります?」
「いや逆だ。褒めてるんだよ。やり方は違うが、俺もお前と同じようなことを考えたからな」
「……世迷言を。それより、状況は何一つ変わっていませんよ勇者殿。地上からはまだまだ雪崩もイエティ族の増援も、キメラ達も控えていますが、こんなところに応援に来ていいんですかな? ……ん?」
肩を竦めてアータを煽ったテノルは、異変に気づく。すぐに空を見上げ、空島がイリアスの街に向かって落ちだしていることを確認し、ゆっくりと振り落ちる雪が頬を撫でる。頬を伝った雪の妙な生暖かさに、テノルは思わず掌を頬にあてて、見る。
降りしきる雪が――赤い。
「あぁ、言い忘れてたが、上の話ならもう終わってるぞ」
「――なっ」
見上げた空の先の空島の異変にもう一度気づく。落下してくる空島に、呼び寄せていたはずのキメラ達が全て突き刺さって死んでいるのだ。キメラ達から滴る血が、そのまま砕かれた雪崩の雪に交じって赤い雪となって降り注いでいるのだ。
空を見上げたまま、テノルは震える唇で言葉を必死に探す。
「ば、ばかな! イリアーナの時とは違い、今のあなたには封印手段なんてないはず! どうやってあの不死のキメラ達をこんな短時間で……!」
「あの空島には、魔力を吸収するあのアーティファクトがある。なら、そこにあの不死のキメラ達もしばりつけてしまえば、回復もできずにそのまま吸収され尽くす。便利な墓標を立ててくれて助かったよ、テノル」
「ゆ、勇者あああああ!」
テノルの叫びに合わせて、彼の背後に構えていた数百の住人やイエティ族が一斉にアータのもとに飛び込んでくる。その姿を不敵に見つめながらも、アータはいまだにデッキブラシを抱えて座り込んだままのアラクネリーへ、背を向けたまま問う。
「ネリ―。この街は好きか?」
アータの言葉に、デッキブラシを抱えたままのアラクネリーは、顔を伏せたまま――だが、しっかりと頷いた。その様子に、アータとアンリエッタは顔を見合わせて笑う。
「なら、約束は守れ。これが終わったら、この街のとっておきの場所を俺たちに教えろ」
アータの言葉に、アラクネリーは一度だけ鼻をすんと鳴らし、震える声で願った。
「……わかった。だから、その代わりにもう一度、教えて」
アラクネリーの願いに、アータは口端を釣り上げて答える。
「当たり前だ。んで、しっかり見ておけ、強くなる方法じゃない。強くあるため方法を」