第十六話 拡大する波紋
落ち着きをようやく取り戻したアラクネリーの傍で腕を組んで話を聞いていたアータは、顎に手を当てて思案する。
「つまり、あの後お前が神殿に戻った時にはすでになかったんだな、御神体が」
「ん。跡形もなく持ち去られてた」
「今そのことは誰が知ってる? テノルとほかの神官達も知っているのか?」
「知ってる。というか、私達全員でチェックをした。だからアータ様にも伝えに来た」
「……」
『あーたん……』
「わかってる」
持ち去られたのは、昨日に神殿に忍び込んだ際も確認したあの深紅に染まった菱形の宝石――アーティファクトだ。あのアーティファクト自体はアラクネリーが奉納した舞により力を押さえつけられているが、その際に見せた反発力の強さは知っている。何より、力のないアーティファクトなど世界には存在しない。
そうして考えを進めようとしたところで、背後の階上からアンリエッタとサリーナの声が届く。
「アータ様、お嬢様のお着換えが済みましたので朝食に……ってあれ、アラクネリー様までどうしてこちらに?」
「おぉう、アラクネリー! 今日はお主に街を案内し――」
サリーナ達の声にアータは振り返り――背後から感じた殺気が、アータの身体を動かした。
止まる時間の中で、アータは背中に預けていたフラガラッハを近くにいた宿の従業員の前に投げつけ、一瞬にして階上にいたアンリエッタとサリーナの前に飛んだ。そのまま彼女たちを庇うようにして背を向け、右腕を振り上げて階下を睨む。
そこにいたアラクネリーは、アータを見て不吉な笑みを歪め、懐から鉄でできた何かを取り出した。
誰もが何が起きるか理解するよりも早く、アラクネリーの手にした鉄の塊が閃光を噴出し、次の瞬間、はじけた閃光はそこにいた誰もを飲み込んだ――。
◇◆◇◆
「ん?」
深淵とも呼べるような暗闇の中、魔王クラウスは僅かに頭の上から感じた空気を揺らす振動に眉を潜めた。
その姿はいまだに腰にタオルを巻いただけの、ほぼ全裸状態。鍛え抜かれた筋肉と勇者との戦いでつけられた傷跡の残る肉体。魔界無敵のその鋼を超える無敵の肉体は、闇の中にありながらも輝きを増しながら、触れたものの力を読み取っていた。
「……ふん。あのあほ勇者の予想通りであったか」
魔王が伸ばした掌が触れたのは、イリアスの街のさらに下深く。ちょうど街の真下に来る位置にあったものだった。
風呂場での勇者との一件以降、一人そこにいた魔王は闇夜の中でも何ら変わらず目の前に映っているソレらを見ながら、繭を顰める。
「語り継がれる街――叙事街か。誰に向けて残したものなのか……」
魔王クラウスの呟きは闇の中に消えていく。誰に届くでもないその言葉には僅かな皮肉と哀愁が乗る。だが、そんな哀愁をかき消すような空振で揺れるのに気づき、睨み付けるようにして自らの上に広がるイリアスの街の大地を見上げた。
そこからちらほらと落ちてくる振動に伴う粉塵を振り払いながらも、クラウスは頭を振って召喚呪文を唱える。
「括目せよ、喝采せよ、誉れ讃えよ。其は灰塵一切をよせつけぬ魔王の羽衣」
荒々しく伸ばした右腕に集中していく極小の魔力が、手のひらの中でみすぼらしい形を成していった。
「顕現せよ、アイギス!」
魔王の伸ばした掌の中で召喚されたのは、魔王の持つ伝説のアーティファクト。絶対無敵の盾――だった雑巾。
掌に現れたみすぼらしく汚れ、あいぎすと書かれた雑巾を手にしたクラウスは、相棒の変わり切ってしまった姿に僅かに目を潤わせながらも、アイギスを空に向かって投げた。
くるくると回転していく雑巾は、そのまま巨大化していき、イリアスの街をしたから支えるように広がる。そのままイリアスの街が崩れ落ちてしまわぬように、広がり切ったアイギスは周囲の大地の裂け目まで広がり、イリアスの街が乗る大地を完全に支えた。
これを見送った魔王クラウスは、不満げにイリアスの街を睨みつけ、
「……ふん。何が起きてるかは知らんが、暫くの間は貴様に任せるぞ、アホ勇者」
誰にも聞こえぬ闇の中でそう言葉を残し、再び魔王クラウスは闇の中に消えていっ――、
「あぁでもやっぱりサリーナちゃぁんが心配だ! あのアホ勇者め、サリーナちゃんに万が一があったら……いやだがしかし、パパがサリーナちゃんを守りに行けば! いやいや、私には魔王としての責務もあって……しかしパパとしての――ぬおおおああああどうしよう私!」
魔王の責務に努めよう。その結論が出るまでの暫くの間、魔王クラウスは己の頭の二本角を鷲掴みにして悩み続けた――。
◇◆◇◆
「……っぅ、あ、アータ様……! 一体何が……!?」
「…………」
しゃがみ込んで痛む頭を押さえながら見上げてくるアンリエッタの問いに、アータは応えもせずに黙って周囲を見渡した。
鼻腔に届くのは焼け付くような熱と木々の焼ける臭い。宿だったそこは、アラクネリーが手にしていた鉄の塊の爆発によって原形をとどめないほどに吹き飛ばされていた。
見渡せば、宿にいた少ない従業員は何とかアータの投げたフラガラッハの張った結界で守られている。アータの背後にいるアンリエッタとサリーナも辛うじて無事だ。背後から聞こえるサリーナのうめき声と、アンリエッタの息を飲む様子に深く息を吐き出しながらも、アータは掲げていた右手を下ろす。
「どうした? 二回戦でもやりたくなったのか?」
「……」
今の爆発を自身の身体を蜘蛛の糸でできた繭で防いでいたアラクネリーは、繭を破る様にして顔を出し、マフラーで隠していたはずの口元を愉悦に歪めて笑っている。そんな彼女の歪さに、アータの背後で立ち上がったアンリエッタは、僅かに唇を震わせた。
「アラクネリー様……、い、一体なんで……」
「見ればわかるだろ。面倒なものに憑かれてる」
「憑かれてるって、一体何に憑かれて……!」
次の瞬間、アラクネリーが向けた掌から伸びた糸がアンリエッタの喉元に迫り、アータはこれをつかみ取る様にして防ぐ。その糸の強靭さと速度に、アータは冷ややかな目でアラクネリーを見つめながら問う。
「眉一つ動かさずに殺す気でよくやったな。で、ネリ―の身体に宿ったあんたは何をしようとしてる?」
『……わかりますか』
アラクネリーの口から、彼女ではない何かが声を発した。その声の主に向かって、アータはつかみ取っていた糸を引きちぎりながら笑いかける。
「ネリ―の奴は、俺のことを様付けで呼んだりしないんだよ。魔王家の連中で、俺に様をつけて呼ぶ奴なんて、後ろにいる赤髪メイドだけだ」
「あのぉ!? そこでなんで私が出てくるんですかね!? というか、え、マジで言ってます、マジで私以外様付けしてません!?」
『……とことん、勇者という存在は魔族に嫌われていますね』
アラクネリーの瞳がいつもと違う蒼い光を宿しながら、語り始めた。
『取引しませんか?』
と。
その言葉の意味を考えながらも、アータは背後で服を掴んで怒鳴り散らすアンリエッタを無視して応えた。
「内容による。聞かせろ」
そう答えたアータの言葉に、アラクネリーについた憑き者は頬を緩めて両腕を広げた。歓喜に震えるといった様子で、笑い声をあげながら話を続けていく。
『さすがに話が通じますね。条件は一つだけ。それさえ守ってくれれば、この街は助けましょう』
「へぇ。で、その条件をさっさと言ってくれると助かるんだが」
『決まっているでしょう?』
次の瞬間、アータとアンリエッタの視界からアラクネリーの姿が消えた。視界の端に銀に煌めく輝きが見えると同時に、アータは背後にいたアンリエッタを片手で突き飛ばして逃がす。
直後、アンリエッタの傍で蹲っていたサリーナが怪しく光る蒼い瞳で立ち上がり、脇から取り出した短刀を構えて飛ぶ。同時に、アータの正面に飛んできたアラクネリーが手にした剣がアータの首を狙って煌めいた。
「アータ様っ、サリーナ様……っ!?」
サリーナも操られている。その事実をアンリエッタがは理解するよりも早く、アータの首に向かって煌めいた二つの剣のきらめきに思わず目をつぶってしまう。だが、いつまでたっても肉を立つ音どころか、血の臭いさえ届かず、おずおずとアンリエッタは目を見開いて乾いた笑い声をあげた。
「勇者の首が条件ってことか」
『……勇者ァ!』
アンリエッタの視線の先で、背後から操られているサリーナが伸ばした短剣と、正面から喉を霧化裂くために煌めいたアラクネリーの剣が止まっていた。銀の煌めきは確かにアータの喉を狙い――だがしかし、アータの首元でさらに鈍く黒く光る棘付き首輪がそれらを防いでいた。
アラクネリーやサリーナに取り憑いた者が驚きを露わにする中で、アータは虫でも払うかのように突き立てられた剣と短剣を掌で押し返し、笑みを歪める。
「首がほしけりゃいつでも取りに来ていいぞ。ただし、この『いやーん私もう頑張れない』を壊せる自信があるならな。大歓迎だ俺は」
『くっ……!』
サリーナとアラクネリーはそのまま飛びずさってアータから大きく距離を取った。互いに並ぶようにして立つサリーナとアラクネリーの瞳は、蒼い炎を灯しながらもアータから目を離さない。
「ちょっとアータ様!? なんでサリーナ様まで……!」
「そういう能力だってことだろ。みろ」
「……っ!」
アンリエッタは再び立ち上がりながらも、アータの指さした先を見て息を飲む。そこにいたのは、先ほどの爆発で結界に守られていたはずの宿の従業員だ。従業員はゆっくりとその身体を起こし、蒼白になった顔を上げる。当然、その瞳には蒼い炎が宿っていた。
「……従業員の魔族はわかりますが、アラクネリー様やサリーナ様まで操れるなんて。そんなの、魔王様やアータ様以外に――」
「あるだろ。それができそうなものが」
「そんなもの一体――あっ」
盗まれた御神体だ。アーティファクトの持つ力は神が持つ力といっても過言ではない力を有する。当然、そこらの魔族ではアーティファクトの力の前には抗う術はほとんどない。
『やはり一筋縄ではいきませんね。ですが、これならいかがですか?』
「アータ様、あれ!」
そういってアンリエッタが指さす先では、この爆発の音を聞いたであろうイリアスの街の魔族達が、自分達を囲うように次々とその瞳に蒼い炎を宿していく。瞬く間に広がっていくその状況に頭を掻きながらも、アータは左腕を横に伸ばして掌を広げた。次の瞬間には掌にデッキブラシが召喚される。
そうしてアータは、背後にたアンリエッタの腰に手を回して抱き寄せ、わきゃっと騒ぐアンリエッタをそのままにアラクネリーとサリーナに向けて舌を出した。
「じゃあ、第二回戦は追いかけっこと行きますか」
『貴様……!』
逃がさないといわんばかりに飛び込んできたサリーナやアラクネリー、住民たちをよそに、アータは深く腰を落として空へと向かって跳躍した――。