第十三話 蜘蛛の子対勇者
「お待ちください!」
肩で息をするアラクネリーと、彼女にデッキブラシを突き付けて挑発するアータの間に割って入る声があった。老神官テノルだ。姿を隠していたはずのテノルは、息も絶え絶えに二人の前に姿を見せると、すぐにアータに詰め寄ってくる。
「何をお考えですか勇者様!? この子の特訓を邪魔するどころか、戦うと!?」
「おう、そう言った」
「いや確かに言いましたが……! そうではなく、今の彼女に必要なのはそんなものではなく、時間こそが……!」
テノルの発言に、アータは襟元を掴んでいるテノルから視線を外してそこを見た。
視線の先で、アラクネリーは低姿勢を保った四つん這いの姿勢でこちらを見ている。その視線から感じるのは、高揚だ。テノルの言わんとすることもわかるが、アラクネリーも魔族。
自分の欲望に忠実なのだ。そしてアータもまた、向けられる欲望には応える。
「必要なのは時間じゃない。そうだろ、ネリ―?」
「……テノル様、どいてて」
「巫女殿!」
アラクネリーの言葉に、テノルは一度だけ強い声で反発するが、すぐにアラクネリーの瞳に映る炎に気づき、深い溜息をついた。そうしてそのまま掴んでいたアータの襟から手を放したテノルは、黙って二人から距離を取っていく。
その姿を楽し気に見送ったアータは、臨戦態勢を整えているアラクネリーに呼びかけた。
「ここでやりあったら街に余波が行くだろ? 場所を変えよう」
「わぱっぱ」
「場所は……そうだな、あそこに浮かんでる空島なんてどうだ?」
そういってアータは、見上げた空に浮かんでいるいくつかの空島の中から、比較的小さな空島の一つを指さす。だが、アラクネリーはその島を見て不満げに唇を尖らせ、渋々立ち上がった。
「私、飛べないからあそこに行けな――なにしてるの?」
「狙いがずれて空島の岩盤に突き刺さったら謝る」
「そういう話じゃない。なんで私の身体持ち上げてるの?」
片腕をポケットに突っ込んだアータは、空いた片腕でアラクネリーの腰の帯を掴んで宙に持ち上げた。じたばたもがく彼女をそのままに、二三度屈伸をしてから、目標を補足。ニヤリと口元を歪めるアータの姿に、アラクネリーはお家芸披露の準備が整ったことを悟り、顔の前で両掌を合わせてお祈り。
「いい覚悟だ。んじゃ先に行ってろ。俺がそっちについた瞬間から戦い開始ってことで」
「さよなら故郷私のふるさ――ひああああああ!?」
「ちょっと勇者様ァ!?」
超光速でイリアスの街を守る視覚結界を突き抜けて、夜空に消えていったアラクネリーを満足げに見送ったアータは、駆け寄ってきてがくがくと服を引っ張るテノルに再び視線を合わせた。
「お馬鹿ですか!? あんな事したら巫女殿――アラクネリーが!」
「大丈夫、怪我はさせない」
――ボゴオォオォオンッ!
「大丈夫、怪我しても自己責任だ」
「空ぁ! 巫女殿が飛んでいった空島が、爆音と一緒にとんでもない土煙上げて崩れ落ちてますが!?」
「じゃあ俺も追いかけるんで。日が昇る前には戻る」
「あ、ちょっと……!」
服を引っ張るテノルを軽く押して離し、アータもまた肩をぐるぐると回しながら腰を落とした。脇に置いていたデッキブラシも背中に預けたアータは、傍でバランスを崩して尻もちをついているテノルに苦笑いを返す。
「あぁわるい、神官帽で頭のソレ隠してたんだな。悪かった」
「え? って、あぁ!?」
倒れこんでいたテノルは、地面に転がっている長い神官帽を慌てて手に取った。そのままつるつるになった頭と、おでこの少し上にある腫れたたん瘤を隠すように神官帽を被せた。その顔が羞恥に歪むさまにアータは困ったように笑って口元に人差し指を立てて告げる。
「大丈夫。ネリ―には黙っておく。それと、怪我してるならちゃんと治療しておけ」
「け、怪我は不注意故こそ、他の者たちには……!」
まくし立てるテノルに背を向け、アータは掌をひらひらと振りながら、アラクネリーを追って空へと飛んだ。一瞬にして街を覆う視覚結界を飛び出したアータは、そのまま宙を蹴るようにしてアラクネリーの待つ小さな空島へと駆け上がっていく。
街を出た瞬間の世界は、光などほとんどない暗黒の世界。時折輝く虫たちの光がなければ、深淵にさえ感じる大地の裂け目を一気に飛び上がったアータは呟いた。
「街を一歩出ればこの暗さか……っと」
『あーたん、きますの!」
夜空に浮かぶ月を見ながら空を駆けあがっていたアータだが、フラガラッハの叫びと同時に眼前に迫った蜘蛛の巣に、器用に宙で身をひるがえして躱す。空島までの距離はあと僅かだが、夜目の利くアータにははっきりとこちらを見つけて攻撃を仕掛けてくるアラクネリーの姿が映る。
『あーたん、先手許しちゃってるんですの!』
「あぁ、勝ちたいっていう気持ちの一つぐらい持ってもらわないとな」
そういって宙でフラガラッハを手に取ったアータは、目の前で一斉に広がった蜘蛛の巣の数に眼光を鋭くする。数えるのも面倒な数だ。迫る蜘蛛の巣を前に、アータは片手で手にしたフラガラッハを、そのまま振り被る。そして視線の先――空島にてこちらへ攻撃を続けるアラクネリーに向かって、遠慮なく振り下ろした。
アータの放った斬撃の衝撃波は目前に迫った蜘蛛の巣を塵へと変えて一直線にアラクネリーの立つ空島へと向かう。
「――ッ!?」
目視できない斬撃の衝撃波に、空島の大地に立って攻撃を続けていたアラクネリーは息を飲んでその場から大きく後ろへと跳躍。直観とも言える反射行動に移ったその瞬間、それまでアラクネリーがいた大地に斬撃が届いた。
目に見えないその衝撃は一撃でアラクネリーのいた空島の端の大地を切り裂いた。粉砕された大地は激しく揺れ、飛びずさって辛うじて躱したアラクネリーのもとには大小の小さな岩や木がはじけ飛ぶ。
削がれるようにして切り取られた大地の一部は、そのまま浮力を失い、空から落ちていった。
これを荒れる息を必死に整えるアラクネリーは驚愕の視線で見送りながらも、背後に降り立った気配に慌ててその場を飛ぶ。瞬きすら許さない次の瞬間には、アラクネリーのいた場所にデッキブラシが突き立てられていた。
飛びずさったアラクネリーの反応に、アータは嬉しそうに笑う。
「いい反応だな」
「……まだっ!」
「おっ」
大地を転がるようにして立ち上がったアラクネリーは、大地に右腕を突き刺した。そうして突き刺した右腕を大地から乱暴に引き抜くと同時に、着地をしていたアータの周囲を囲うようにして地面が抉れる。そこから現れたのは、アラクネリーがいつも首に巻いている特製のマフラーだ。
「蜘蛛の束縛!」
ネリ―の詠唱と共に、アータを囲うようにして広がったマフラーは一気にほどけて面積を広げる。全方位を囲うようにして広がったマフラーの糸は、そのまま一瞬にしてアータの全身を覆う繭へと姿を変えた。捕縛してしまえばだが、逃げるすべのない強靭な束縛魔法。
だが、アラクネリーはそれだけで終わらせない。何より、魔王と勇者はこの程度では止まらない。
「大地の棘ッ!」
一息も置かずに詠唱したその魔法によって、出来上がった繭の足元から大地が隆起し、眉の下半身を巨大な岩で押しつぶしていく。これに合わせてネリ―は両手を繭へと向け、指先から蜘蛛の糸を伸ばす。繭を形成する糸の厚みを増しながらも、先ほどの斬撃で未だに宙を舞う大小の岩へと糸を巡らせた。宙にたまっていく岩の流星群をそのままに、アラクネリーは両腕を大きく振りかぶる。
そして、
「蜘蛛の隕石!」
次の瞬間、宙に携えられた岩の雨が繭へと向かって降り注いだ。一点のずれもなく次々と降り注ぐ岩の雨が繭へと直撃していくが、それでもなおアラクネリーは下唇を噛んで悔しそうに眉を寄せた。
効いている気がしない。
そう確信するアラクネリーが、次の一手へと詠唱を開始しようとした瞬間、繭を片腕が突き破って出てきた。
「……ッ」
できてた片腕はそのまま一際大きな岩の一撃をやすやすと受け止め、粉々に砕く。その様を見たアラクネリーは両腕に込めていた力をだらしなく抜きながら、造作もなく引きちぎられていく自慢の拘束繭を呆然と見つめる。
中から現れたアータの無傷の姿に、アラクネリーは絶望より別の感情――胸躍る興奮に襲われた。そして、そんなアラクネリーの姿を見たアータは、手にしていたデッキブラシを肩にかけてくっくっくと声を押し殺して笑う。
「今のはいいコンビネーションだったな」
「魔王様には見せてない、ナクア様直伝。……無傷で居られたのも破られたのも初めて」
「全包囲からの拘束までが少し遅いな。出来れば包囲に目を取られる間に両手と両足を固定するぐらいの一撃がほしい。あとは、拘束はできても相手が魔力的な防御を張る格上の相手なら、魔法防御を抜ける重さが足りない」
「……むっ」
「やるなら、拘束攻撃と同時に相手の魔力を奪うといい。そうすれば十分なダメージになる」
不満げな表情でゆっくり立ち上がったアラクネリーは、引きちぎられたマフラーの糸を瞬時に首元へと引き寄せ、瞳を細めてアータに問う。
「それならアータや魔王様に勝てる?」
「無理。魔力関係なしにこんなレベル程度じゃ俺も魔王も止まらない」
満面の笑みでアラクネリーの言葉を否定。そうすると、アラクネリーはアータの目の前で再び四つん這いの戦闘態勢に入った。彼女の様子を見ながらも、アータは肩に乗せたフラガラッハをくるりと回してアラクネリーへと向けて問いかけ返す。
「それに、お前。表情が物語ってるぞ。この程度じゃ困る、もっと試したいってな」
「……そうさせてもらうから!」
そういって四足で近接戦へ挑んできたアラクネリーを迎え撃とうとアータもデッキブラシを下段に構え、
「存分に来――あ、あれなんだ?」
「え、何?」
「はい隙あり」
「おひっ!?」
アータが戦闘態勢を解いて視線と指先を向けた方向に、アラクネリーが一瞬だけ気を取られた。その瞬間を見逃さず、アータは空いた手でアラクネリーの鼻頭をぱちんと指で弾き飛ばす。
もんどり振って吹き飛んでいったアラクネリーは、地面を抉って跳ね飛ばされながらも大地に両手両足を突き立てるようにして踏ん張り、立ち上がった。そうしてアラクネリーは真っ赤になった鼻頭を押さえ、らしくないほどの真っ赤な顔と涙目で怒鳴る。
「卑怯! 今のは超卑怯! 勇者にあるまじき卑怯っぷり!」
子供相応の感情を見せて怒鳴り散らしてくるアラクネリーの様子に、アータは下卑た笑い浮かべながら、不敵にアラクネリーを見つめた。
「別に嘘はついてないけどな。それより何か気づかないか」
「それこそ嘘! 今度は騙され――え?」
アラクネリーが目の前のアータの異変に気づいた時、アータはアラクネリーの真上を指さした。これに思わず従ったアラクネリーが空を見上げると同時に、顔面にいつの間にか手放されていたデッキブラシが直撃。
直撃したデッキブラシがからんからんと音を立てて地面に転がるのをよそに、アラクネリーは黙って空を見上げたまま拳を握り、プルプルと震えた。
そのままピクリとも動かない彼女の様子に、アータはずけずけとアラクネリ―の傍に近寄ってデッキブラシを拾い、アラクネリーの耳元に口を寄せて呟く。
「……あ、ついでに言うと。このデッキブラシでさっき男子トイレ掃除してきたばっかりだから」
「――――ッ!!!」
羞恥と激怒で入り混じった表情で襲ってきたアラクネリーを、アータは笑い声を堪えながらも迎え撃っていった――。