第十一話 傷跡は今もなお残り
併設された隣の男湯から聞こえてくるアータとクラウスの罵り合いの声を聞き、アンリエッタは深い溜息をつきながら湯船に肩まで浸かる。聞こえてくる罵声のレベルは低く、聞いているだけではただの子供の喧嘩だ。
湯船の熱に上気した顔で、アンリエッタは男湯を軽く睨み付けて呟く。
「はぁ……。魔王様もそうですが、アータ様までどうして、あぁもお二人がそろうと子供の喧嘩みたいになるんですかね」
「それは悪い事なのかの?」
「良い事か悪い事かと聞かれると……どっちなんでしょうね」
同じく湯船につかってきたサリーナが小首をかしげて問いかける言葉に、アンリエッタは逡巡したが、答えを出すことはできなかった。だが、サリーナは嬉しそうに破顔したまま、アンリエッタの膝の上に座り込んでくる。
「のぅのぅアンリエッタ!」
「なんでしょう、お嬢様」
「楽しいのぅ、毎日が!」
サリーナの言葉に、アンリエッタは彼女の長い髪を頭の上でまとめながら目尻を下げる。サリーナの母が亡くなってから彼女は部屋からでなくなっていた。城の魔族達は彼女の望むままに、外に連れ出すことはせず、見守ることしかしなかった。
アンリエッタ自身も、サリーナの母親の姿はおぼろげにしか記憶にない。なにせ、アンリエッタが城に仕え始めた頃に亡くなったのだ。
メイドの中でも最もサリーナと年の近かったアンリエッタは、クラウスの命で彼女の身の回りを世話することになり、時間をかけて彼女の笑顔を取り戻した。
「そうですね、お嬢様」
だが、部屋の中で浮かべていた彼女の笑顔と、今こうして膝の上で笑っているサリーナの笑顔は比べるまでもない。
「ですが、あまり無茶苦茶されるのは困ります。それに、最近アータ様の悪乗りを真似しすぎです」
「うぬぬ、そんなことないのじゃぞ! ちゃんと魔法の勉強もしておるし、魔界の政治も学んでおるもん!」
「では、魔王家に戻ったらテストでもしましょうか」
「にょにょ、それはいかん、それは絶対いかんのじゃ!」
「で、そういってる傍で何してるんです、アラクネリー様」
顔を湯船につけてブクブク言っているサリーナから視線をそらし、アンリエッタはそこを見つめる。
そこにいたのは、男湯と女湯を隔てる塀に糸をかけ、よじ登ろうとしているすっぽんぽん姿のアラクネリーだった。
一糸まとわぬ裸体でクライムを決めるシュールな姿だ。
「あの、もう一度聞きますが何してるんですかねアラクネリー様!? っていうかはしたないですよ!」
「何って、決まってる。男湯覗く」
「なぜ覗く必要があるんです!? 普通覗かれて困るのは私たちのほうなのですが!」
「なぜ覗く。そこに男湯があるから」
「決め顔やめてください」
きらりと口端を輝かせて親指を立てるアラクネリーは、既に糸をたどって塀の半分まで登り切っている。それなりに高く建てられた塀の奥から聞こえてくる魔王とアータの声に、アンリエッタは慌てて膝の上のサリーナを横にどけ、湯船を飛び出した。そのまま手近なタオルを体に巻き、飛び上がる様にして塀を上るアラクネリーの腰に抱き着き、引き留める。
「ちょっと、お願いですやめてくださいアラクネリー様! わかってます!? この先にいるのアータ様と魔王様ですよ! 覗いてもいいことないですから!」
「魔王様もアータも強すぎる。きっと何か秘密がある違いない。裸見ればわかる」
「見てもわかんないですからあの人たちは! って、サリーナ様まで何してるんですかね?」
「登っておる!」
「自信満々に答えないでください!」
アンリエッタを引きずる勢いで塀を上っていくアラクネリーの傍で、既にサリーナもよじ登り中。つい三か月前まで部屋に引きこもってばかりだったとは思えないほどの活発度合に一瞬だけ頬を綻ばせそうになるが、すぐに気持ちを切り替えてサリーナの方足を引っ張る。
「ちょ、離すのじゃアンリエッタ!」
「私も離して」
「離すわけないでしょうお二人とも」
「じゃあ奥の手」
「え?」
すぱーんッ、と。アラクネリーが塀を遠慮なく蹴り飛ばした。そして遠慮なく粉砕された塀は、塀にへばりついていたアラクネリーやサリーナ、アンリエッタもろとも男湯に向かって倒れていく。跡形もなく粉砕されていく塀と共に、そのまま三人は男湯に塀ごと落ちた。
痛みに頭を押さえるアンリエッタは、したたかに脳天を足元の岩で打ち付けて呻くアラクネリーとサリーナを冷めた目で見つめながらも、顔を上げた先にいたアータと魔王の姿を発見。
「でええええええええ!?」
「ん? 何やってんだアン」
「いや、いやいやいや! あの、むしろ貴方達こそ何やってるんですかね!?」
慌ててタオルで身体を隠しなおし、傍で塀と一緒に倒れこんだアラクネリーとサリーナの身体にも器用にタオルを巻きつけたアンリエッタはアータと魔王の姿に叫ぶ。
当のアンリエッタの前で、アータと魔王は腰にタオルを巻いた姿で温泉の端に並んで立っていた。アンリエッタの声に気づいた魔王は、振り返りながらも胸を張り、両腕を広げて現れたサリーナの姿に大絶叫。
「さっりーなちゅわああん! え、なになにパパと一緒にお風呂に入りたかったのかな!? いやぁ壁破ってまで来てくれるなんてパパ感激! でもちょっと待ってねサリーナちゃん。今からこのアホ勇者と肝試しにここから飛び降り――」
げしっ、と。
サリーナに向かって愛を叫ぶ魔王の足を、傍にいたアータは何食わぬ顔で払う。バランスを崩した魔王は、そのまま大地の裂け目の暗い奥深く向かって真っ逆さまに落ちていった。その大絶叫を一瞥しながらも、アータは闇に消えていく魔王に一言。
「ついでに、裂け目の地下調べて来いよクソ魔王ー」
「貴様後で覚えておけよアホ勇者あああああああ!」
姿も見えなくなった魔王からの叫びに笑みと小さく手を振り返し、アータは再び視線を背後に戻して、そこにいるアンリエッタ達を見る。アンリエッタに渡されていたタオルを体に巻くサリーナとアラクネリー。そして、その二人の背後で真っ赤な顔をして睨みを聞かせるアンリエッタの姿をじっくりと細目で見つめ、そして、
「……はん」
肩を竦めて鼻で笑うと同時に、備え付けの桶が三つ飛んできた――。
◆◇◆◇
「で、何の用なんだっけ」
「いえ別に用はなかったはずなんですけどね……」
塀がなくなり、繋がってしまった男湯と女湯に意味もなくなり、アータは再び湯船につかっていた。膝の上にはいつの間にかサリーナが陣取り、正面にはアラクネリーが。アンリエッタだけは少し離れた位置に浸かってアータを睨んでいる。
羞恥心の一つも持ってほしいというアンリエッタの嘆きでも聞こえてきそうな勢いに、アータはどうしたもんかと頭を掻きながら目の前で揺れる銀髪を見る。
だが、膝の上で嬉しそうに鼻歌を歌うサリーナを邪魔する気にもなれず、アータは仕方なく正面で自分を観察するアラクネリーに問いかけた。
「で、お前はどうしたんだ」
「強さの秘密が知りたい」
「秘密か」
「秘密」
近づいてきたアラクネリーの言葉に、アータはどうしたもんかと頭を捻る。強さの秘訣と言われても答えはなく、アータ自身も幼いころから変わらない。アラクネリーの求める答えに何を返そうか迷っていると、近づいてきたアラクネリーはアータの右腕をとってじろじろと睨み始めた。
「この傷、強い魔力を感じる。これは何かの強化?」
「あー、それは魔王城で魔王とやり合った時につけられた切り傷だ」
「この刺し傷は、毒の気配を感じる。これは」
「あー、それは海で魔王とやり合った時につけられた刺し傷だ」
「この肩の抉られた傷には強い呪いを感じ――」
「あー、それは古戦場で魔王とやり合った時に掛けられた呪い傷だ」
「この――」
「あー、全部魔王だ」
「…………」
「…………」
ふくれっ面になるアラクネリーの顔を見て笑っていると、膝の上に載っていたサリーナが降り、アータの身体をしげしげと眺め始める。
「よく見るとアータ、傷だらけじゃのぅ……。痛くないのかの?」
「そりゃ、クソ魔王とは一年もの間命の奪い合いをしてましたからね。俺もそうですが、クソ魔王にも俺が付けた傷は多いですよお嬢様」
「父上殿もそうじゃったが……治さんのかの?」
「…………」
サリーナの問いかけに、アータは困ったように笑って頭を掻く。だが、答えを返す前にサリーナとアラクネリーの頭がふらふらしているのに気づく。
湯船に長く浸かりすぎているサリーナとアラクネリーの顔は既に上気しすぎており、このまま温泉に浸かっているとのぼせてしまう。アータは離れたサリーナとアラクネリーの腕を引いて立ち上がり、一人離れた位置にいたアンリエッタを呼んだ。
「おい、アン。そろそろ上がろう。お嬢様達ものぼせそうだ」
「わ、わかってます。わかってますからこっち見ないでください。いいですか、タオル外してもダメですからね!?」
「こんな感じか?」
ひらり。
「いぎゃあああああああ!?」
「冗談だ。タオル二枚巻いてる」
「馬鹿なんですかねぇ貴方馬鹿なんですか!?」
「用意周到って言ってほしいけどな、そこは」
しっかりとタオルを押さえて近寄ってきたアンリエッタと共に、アータは結局のぼせて目を回しているアラクネリーとサリーナの腰を抱き上げ、両腕で脇に抱える。そのまま仕方なく、アータは女湯の入り口までアンリエッタを連れて歩いていく。
だが、アータの背中を追うアンリエッタは、アータの背中越しに見えた大小の傷だらけな身体を見て静かに問いかけた。
「……あの、アータ様。先ほどのお嬢様の質問ですが……」
「ん?」
「どうして、傷跡をそのまま残しているんです? 失礼な話ですが……貴方や魔王様なら、その身体の傷跡を消すことだって――」
「消さない」
アータはアンリエッタを一瞥だけしてきっぱりと宣言する。その言葉を耳にしたアンリエッタは僅かに目を見開き、だが不服そうに頭を振った。
「その理由を聞いてるんですが」
「聞くまでもないだろ。お嬢様が言ってただろう? 魔王もそうだって」
「それがいったいなんだって――」
「あのクソ魔王が治さないんだ。俺だけ治すなんて真似できない。それだけだ」
「……馬鹿ですね、ほんと馬鹿ですね」
「言ってろ」
そういってアータは、女湯の入り口の扉を開いて、伸びてしまっているサリーナとアラクネリーを寝かせ、あとをアンリエッタに任せて踵を返す。最後までもの言いたげなアンリエッタの顔に笑みを返しながら、アータはアンリエッタに聞こえないほどの小さな声で自嘲するように呟いた。
「……決着はついてないんだ。治すわけないだろう、俺も魔王も」
と。