第十話 祝いの理由は声を揃えて
「どうぞ、お嬢様」
「うむ、ありがとうなのじゃアータ」
食卓に着くサリーナの後ろから、彼女が好きな紅茶を注いで差し出す。差し出された紅茶の香りにうっとりしながらも、サリーナはこれを口にしてにへっと頬を緩めた。
「やっぱりアータの入れる紅茶は最高じゃのぅ! アンリエッタにも引けを取らんのじゃぞ!」
「ありがとうございます」
軽く会釈をして、アータはその場を軽く眺めた。
すでに時間は夜。魔王家の面々のために用意されているこの宿に他の宿泊客はなく、いるのはこの大広間たる食卓にいるアータ、アンリエッタ、サリーナ、魔王、アラクネリーの五人だけだ。
目の前にはすでにアンリエッタと従業員が準備した豪勢な食事が並んでいる。この地域の文化なのか、魔王家で出てくるゲテモノ系の料理とは違い、見た目にも拘り抜かれた実に食欲をそそるものだ。
そしてそんな食卓に並ぶスープに手を付けて笑みを浮かべるサリーナを眺めていると、同じくサリーナの隣で控えるアンリエッタが冷ややかな視線で睨んでくるのに気づき、アータは頭を掻いた。
「なんだ、お嬢様取られて激おこか」
「違います! あんなとんでもないゲロを目の前で、自分が広げたエプロンに吐かれる気持ちが貴方に分かります!? 逃げ出したいのに、手を放したら全部足元に落ちて大惨事になると理解して、手ぇを放すこともできないあの絶望!」
「自動浄化作用で臭いまできれいさっぱりになるからいいだろ」
「そういう問題じゃありません。結果じゃなくその過程がすでに絶望なんです!」
詰め寄ってきたアンリエッタの憤怒の表情に深い溜息をついていると、サリーナの座る向かいの座席から殺気を感じる。仕方なく詰め寄ってきたアンリエッタの額を小突いて突き放すと同時に、眼前すれすれをワインのコルクが飛んでいった。あまりの速度と空気摩擦で燃え尽きかけたそのコルクは、そのまま背後の壁に突き刺さり、貫通してそのまま隣の部屋へと消えていった。
壁に残った無駄な破壊のないきれいな穴とそこから上がる煙を一瞥し、アータは頭を振ってワインを瓶ごと煽る魔王を睨む。
視線の先にいた魔王は、酔いのさめた素面で長い銀髪を後ろでまとめ、顎を突き出して威嚇していた。
「もう少し落ち着いてワインを開けられないのか?」
「うるさいアホ勇者。私が少し目を離したすきにそんなにもサリーナちゃんとアンリエッタと仲良くなりおって。飲まんとやってられん」
ぐいっとワインを一口で飲み干して机の上に置いた魔王が、新たなワイン瓶に手をかけるのに気づき、アータもまた手近な栓のしてある瓶を手に取った。
「そんなに飲み足りないなら、どうだ、俺が酌でもしてやろうか?」
「誰が貴様の注ぐワインで飲めるか!」
互いにワイン瓶を手に取ったアータと魔王の間でわずかに火花が散る。ゆっくりと椅子から立ち上がった魔王は、ふらりと揺れながらワイン瓶片手にだらしなく腕を伸ばし、アータもまた魔王から顔をそらして手にした瓶の栓を抜く。
そして、
「いったぁ……、ちょっとアータ様、いきなり小突かないでくだ――」
額を押さえて起き上がったアンリエッタの言葉と同時に、魔王クラウスがワイン瓶をアータに向け、開いた手でワイン瓶の底を弾いた。瞬間、ポンッという小気味良い音とは対照的に、栓をしていたコルクが超高速で飛び出す。
これに反応するアータは、栓を抜いていた瓶を正面に構え、アンリエッタやサリーナが驚きの表情を浮かべる中で器用に向かってくるコルクに瓶を向けた。そして、飛んできたコルクの衝撃を受け殺しながら、差し出した瓶でコルク栓を華麗に受け止める。
突き刺さる勢いのコルク栓は瓶の入り口で超高速回転しながらも、アータが親指できゅっと押さえつけると小さな煙を上げて止まった。
アンリエッタとサリーナが呆然とする目の前で、アータと魔王クラウス何事もなかったかのように食卓に瓶を置く。
そうしてアータと魔王は互いに口元をわずかにだけ緩めてふんぞり返り――できるな、と互いの力を再確認。だが、
「あの、その無駄な技量と力が必要な戦いに何の意味があるんですかねお二人とも!? あと、自慢げな顔してふんぞり返らないでください」
「そうカリカリするな。ほら、飲むか?」
「飲みません!」
たった今封をした瓶をアータはアンリエッタに差し出すが、彼女はふんっと鼻を鳴らしてサリーナのもとへと戻っていく。肩を竦めていると、魔王クラウスが何か言いたげにこちらを睨んでいるのに気づき、仕方なくアータは手にしていた瓶を持ってクラウスの隣に立った。
そうして座って食事をする魔王の傍にアータは黙って立っていると、ナイフでカットした肉を口に運ぶ魔王はアータに視線も向けずに問う。
「……貴様から見て、この街の状況はどうなっている?」
その小さな声は、目の前で食事をしているサリーナや、彼女の給仕を務めるアンリエッタ、一人部屋の端で食事をしているアラクネリーには聞こえないほどの小さな声だ。その意味を一瞬だけくみ取り、アータもまたクラウスの開いたグラスに中身を注ぎながら小さな声で答えた。
「違和感が拭えない。この街は何かが不自然だ」
「…………」
そう答えると、押し黙った魔王はナイフとフォークを置いて口元を軽く拭う。
「雪山の状況は?」
「武器をイエティに流してる連中がいる。先手は打っておいたが、まぁ、ろくなことにはならない」
「……随分と甘くなったものだなアホ勇者。以前の貴様ならイエティ達ごとあの山を消し飛ばしただろうに」
「あいにくと、こちとら今は勇者じゃなくてお嬢様の執事なもんで」
「ふん、あとで話がある。この宿には備え付けの露天風呂があるからな、そこに来い」
「え、いやだ」
「おい貴様!? そこは流れ読んで素直にこんか! その腑抜けたすかしッ面私の雑巾でぎっとぎとにしてやるぞ!」
「食事中はマナーを守ってお静かにお願いします、旦那様」
そういってアータが冷ややかに笑うと、魔王クラウスは憤怒の表情で顔を歪めながらも、頭を振って先ほどアータの注いだワインを一口。だが、
「ブフォッ!? ゲホッ、ごほっ!? ゆ、ウボォ、勇者貴様……! こ、このワインに何を入れ……ゴフッ!?」
「ん? ワインじゃない、それは激辛調味料だ。こんなこともあろうかと、料理場からくすねてきた」
「ぬおおおおおおおおおおお!?」
椅子から転げ落ちて真っ赤な顔でのたうち回る魔王を、アータは口端を釣り上げたいびつな笑みで見下ろしながら、サリーナに満面の笑みを向けた。
「さてお嬢様、静かになったのでゆっくり夕食を楽しみましょう」
◇◆◇◆
夕食もほどほどに、アータは宿の温泉に入るというアンリエッタとサリーナと別れるようにして、自身も備え付けてある男湯にやってきた。脇にさりげなく調理場から盗み出しておいたワイン瓶を二本置き、片手にデッキブラシを抱えて腰にタオルを巻いただけの姿で、アータは扉を開いて広がる温泉の広さに思わず感嘆の声を上げた。
「こいつは……確かに絶景だな」
『いい景色なんですのん』
目前に広がるのは、大地の裂け目。この宿自体が裂け目の中にあるイリアスの街でも神殿に次いで高い位置にあり、かつ、ちょうど裂け目を一望できるように温泉が備え付けてあったのだ。差し込む淡い赤みがかった日の光は湯船を揺らし、ゆっくり湧き上がる湯気は風情がある。整えられた岩できれいにそろえられた温泉はそれこそ、絶景スポットの一つでもあるだろう。
「とはいえだ、フラガラッハ」
『えぇ、言いたいことはわかるんですの』
そんな絶景の中、温泉の湯口でもある巨大な岩が、魔王クラウスの姿を模して造られている。ふんぞり返って胸をはり、口から湯水を噴き出しているその湯口のデザインにだけは大声で文句を言いたい。さらに付け加えるとすれば、その横で岩で作られた魔王像と同じポージングをしている裸の魔王の存在が最低にシュール。
突っ込み待ちだろうか。魔王は視線が合うと同時にいい笑顔でポージングを開始する。その笑顔が実に腹立たしかったので、無視してアータは鏡の前に座り、フラガラッハを脇に置いて身体を洗い流していった。だが、すぐさま背中越しに魔王の声が届いてげんなりしてしまう。
「おい勇者、貴様何か私のこのプライベート温泉に一言ないのか」
「そうだな、景色やロケーションは実にいい。だが魔王。あんまりふざけてるとそこにある魔王像もろとも首飛ばすぞ」
「はん! 今や軟なひのきの棒でしかないそんなデッキブラシで、私の身体に傷一つつけられるわけがなかろうが!」
髪を洗い流しながら、アータは傍に立てかけていたデッキブラシを手に取り、振り返りもせずに思い切って横に薙ぐ。空を裂く衝撃波は一直線に魔王像と魔王の首を狙って飛んでいき、ギリギリのところで魔王クラウスは背中をそらして躱した。
が、傍にあった魔王像の首は切れて飛び、そのまま像の頭はイリアスの街から大地の裂け目へと転がり落ちていく。魔王像の口から噴き出ていた温泉は、主を失った首から噴水の如くやけくそ気味に噴き出した。
辛うじて今の一撃を躱していた魔王クラウスは慌てて立ち上がり、傍にあった魔王像の悲惨な姿に大絶叫。
「ぬおおおおおお!? おい勇者貴様本気か!? 今貴様本気で私の首狙ったな! っていうか、ぬおおおああああ!? わたしの、私の魔王像がああああああ!?」
「あー、そうやって叫んでると、確かにお前はお嬢様の父親だってのがなんとなくわかる――っと湯加減だけは極上だな」
「勇者貴様ァ! なぁに一人で先に湯船につかって寛いでいる!?」
マナーなど何のその。アータが浸かる場所へと向かって飛び込んできた魔王は、派手な水しぶきを上げてアータの目の前に落ちる。ささっと水飛沫をアータは躱すが、見上げた先で視線の合った魔王と、罰悪くにらみ合い。
すぐに魔王は鼻を鳴らして、アータが背を預ける岩の裏側に回っていった。
そうしてしばらく心地よい湯にお互い黙って浸っていると、魔王のほうから声をかけてくる。
「おいアホ勇者。一つ私に聞かせろ」
「なんだクソ魔王、内容次第では答えてやる」
「貴様は、なぜ私の提案を飲んだ?」
「…………」
魔王の問いかけに、アータはいまだに首筋で光る棘付き首輪をつつき、瞳を閉じる。問いかけられた言葉を頭の中で反芻しながら、答えになる言葉を探した。だが、見つけた答えを語るには、魔王にも聞かなくてはならないものがあった。
「お前が、なんで人間界を襲ったのか。その理由を語るなら、俺も答えてやる」
「はっはっは! それは貴様も知っているだろう、私はサリーナちゃんの誕生日に人間界を送るために――」
「違う。なんで人間界をプレゼントなんてしようと思ったのかって聞いてんだ」
「――」
魔王クラウスの答えはない。当然、アータもまた、魔王の問いかけに答えることはやめた。背中の巨大な岩越しに、アータと魔王は互いに沈黙を貫く。
魔王と勇者。
雇い主と魔王の娘の執事。
一年前に初めて剣を交わした時とは全く違う立場になったが、お互いに互いの腹の底は明かさない。
だが、
「おいクソ勇者。酒はあるか?」
「ん? なんだ、アレだけ飲んでまだ飲み足りないっていうのかよ」
「馬鹿を言え。最高の温泉に最高の景色、最大の仇敵がそろっている環境なんぞ、そう何度もあるものではないだろうが。今飲まずにいつ飲むというのだ貴様は」
「……仕方ないな。ほらよ」
そういってアータは湯船から出て、脇に持ち込んでいたワイン瓶の一つを岩の裏の魔王に投げ渡す。これを器用に受け取った魔王は、そのままワイン瓶のコルクを抜き、瓶を空に向けて掲げた。
アータもまた、残りの一本を片手に再び湯船につかり、コルクを抜いて空を見上げる。
「見ろアホ勇者。この街に夜の暗さはない。朝の日差しはない。だが、この街はいつもこうして柔らかな光に包まれる」
「うるさい、浸ってないで、いいから乾杯の音頭でもとれクソ魔王」
「おい貴様!? この私が今かっこいい事言おうとしたのをなぜ止める!?」
「風味が逃げる」
「ぬぐぐ、いいだろう。だが、アホ勇者。私とお前の間に、共通の乾杯理由などない。ここはどうだ、互いに互いの乾杯理由でいただくとしようではないか」
「……」
言われるように、魔王クラウスとアータの間に共通の乾杯理由はない。だが、アータ自身にも別に乾杯の理由がないことも間違いない。アータは眉間を揉み、一つだけ乾杯の理由になりえるものを見つけ出し、わずかに不満げに眉を歪めた。
「いいだろう。お前がはらわた煮えくり返るような理由で祝ってやる。せーので乾杯と行こうじゃないか」
「ふはははは! 私こそ、貴様が煮え湯を飲まされるような呪いの言葉で祝ってやる! 行くぞアホ勇者! せーの――」
「貴様が魔王家にきて三か月の記念を祝って乾杯」
「おれが魔王家にきて三か月の記念を祝って乾杯」
「…………」
「…………」
そうして、魔王クラウスと勇者アータの、不毛な罵り合いの戦いが始まった――。