第九話 酔い醒ましは、エプロンの裾をつまんで
路地裏から大通りへ騒ぎながら消えていくアータとアンリエッタの姿を、アラクネリーは屋根の上から見下ろすようにしてみていた。
寒気に襲われて触れた唇は小刻みに震えており、厚着の中に隠した細い腕には鳥肌も立っている。
「……人間の、勇者」
そう呟いたアラクネリーは、その強さを語る言葉を持ち合わせていなかった。
先日の神の化身との戦いの際、アラクネリーは多くのエルフをドラゴニス、ナクアと共に捻じ伏せた。正直なところ数だけいても相手にはならなかったので、アラクネリーとしてはそれこそちょっとした掃除気分で戦っていた。
だが、そんな掃除気分は一瞬にしてかき消されるほどの圧倒的な力というものを、その時に感じてしまった。
生まれて初めて身近に感じた、次元の違うの力。
四十近くの不死身のワイトに囲まれていたはずの勇者を助けるため、神殿から勇者を追いかけていたアラクネリーはその場に飛び込もうとした。だが、追跡に気づいていた勇者はそれを制した。
助けはいらない。その答えは、戦いにもならない戦いが始まってすぐに理解できた。
瞬きの間にワイト達はすべて頭をもがれ、胴体は粉砕して敷き詰められ、なぜかたき火が始まる。骸を並べて始まるたき火に狂気すら感じながらも、アラクネリーはその強さに滅多に動かない感情を揺さぶられた。
「やっぱり、つよい」
魔王クラウスの強さを初めて知った時と同じぐらいの歓喜にも似た感情だ。魔族の世界は弱肉強食。強いものが勝ち、弱いものは負ける。そんな当たり前の世界において、魔族ではないただの人間のその強さは、アラクネリーにとっても心が躍るようなものだった。
イリアスの街に来るまでの間で感じた強さは偽物ではない。
だが、勇者の強さはすなわち、この街にとっての危険にもなりえる。
「…………」
歓喜に震えた身体を押さえ、アラクネリーは不機嫌な視線で消えていったアータ達の背を追った。
◇◆◇◆
「そう、お前はそこに立ってろ。三交代制で情報交換と休憩を忘れないようにな」
「へい!」
「あの、何やってるんですかアータ様」
「何って、ワイト達に置物になってもらってる」
「それに何の意味があるんですかね!?」
ひっつかむ勢いのアンリエッタの突っ込みを聞き流しつつも、アータは通りにあった影のできる場所にワイト達を配置し終えてポリポリと頬をかいた。ワイト達は黙っていればただの骨でしかないし、彼らの持つ不死性そのものは普通の魔族相手なら十分な脅威だ。戦う相手としてでなく、情報収集をやらせる斥候として、彼らの能力の高さは十分に役に立つ。
役に立たなくても気にしないが。
「一応、魔王命令で勇者に手を出すなって街中には出てるんだろ? でもこいつらは我慢できずに襲ってきた。ってことは、当然他の魔物も襲ってくる可能性はあるわけだ」
「……それで?」
「面倒事は避けたいからな。そういう気配がないよう、こいつらに街中を見てもらう。挑んできそうなやつがいれば、街に被害のない場所で相手をする」
「…………」
真っ赤な髪を風に揺らせながらも、アンリエッタは不満げな視線を緩めない。その視線に肩だけ竦め、アータは通りを歩き始めた。アンリエッタもまた、アータの背を追いかけるようにして歩き始める。そのまますぐにアンリエッタはアータの前に歩き出し、アータを先導するようにして人差し指を立てた。
「魔王様たちのいる宿はこちらです」
アンリエッタの言葉を耳にしながらも、アータは足元に伸びる影に視線を落としながら、口元に人差し指をかけて思案する。この街の中で感じる違和感の意味を探りながら、アータは何かに思い立ったように空を見上げた。
「いいですか、今度は勝手な行動は慎んでついて来――ねぇ聞いてます?」
「そういや、ここについてからかなり時間がたったな。明るさが変わらないから時間がわかりづらいな」
「やっぱり聞いてませんね貴方。まぁ、確かに日が沈み始める時間帯です。ただし、夜もこの街はこれ以上は暗くなりません。わずかな日の光を増幅するこの街の結界は優秀なので」
「なるほど。街に来た時から夕暮れにさえ感じた街の光は、ずっと続くってか」
「えぇ。いいじゃないですか、これはこれで幻想的なものです。……不思議なものですね、貴方が魔王家に来てからまだ日は浅――」
「おいトワイト。お前は悪いがここで立っててくれ。また明日くる」
「へい、勇者の旦那!」
日差しのよく当たる通りの端に、不死軍団の中でもとりわけ従順になった軍団長トワイトを立たせ、アータは恥ずかしそうに頬を染めて膨らませるアンリエッタに視線を戻した。
「で、なんだっけ。俺が魔王家にきて日は浅いけど?」
「なんでそう、いつもなら聞き流すようなところだけ、ちゃんと聞き取ってるんですかね!?」
「いやなんか急に恥ずかしい事語り始めたから、聞いておこうかと」
「ぬぐぐ……!」
両拳を握ってふくれっ面になるアンリエッタの様子を笑いながらも、アータは大通りから脇道にそれて歩みを進めた。
「冗談だ、膨れるな。それより、魔王たちのいる宿へはこっちのほうが近道だ。行くぞ」
「あの、なんで魔王様たちのいる場所がわかるんです?」
「一年もあいつと戦ってたんだぞ。離れてても居場所が分かるぐらいじゃないと、あんな化け物相手にしてられないだろう」
「……いや、私から見たらアータ様も大概化け物なんですが」
アンリエッタの小言に耐えながらも、小道を進んでいくと遠目に見えてくるのは街の中でも一際豪華な宿だった。宿の入り口の前には装飾された鉄の柵が用意され、花まで美しく咲く庭付き。漂う香りは温泉のもの。正直に言うと、宿というよりは貴族の別荘といった様だ。
整えられたレンガ調の宿は、高くもあり、見上げた二階の窓からはサリーナが満面の笑みでこちらに手を振っていた。
「にょっほおおお、ようやく帰ってきたのかのアータ!」
「えぇお嬢様、遅くなりましたが戻りました」
「早く早く中に入るのじゃ! 温泉もあるし、暖炉もあるし、真新しいものいっぱいなんじゃぞ!」
興奮気味で騒ぎ立てたサリーナは、被っていた大きく真っ赤なキノコ帽子を落としそうになりながらも、そのまま部屋の中に戻っていく。彼女のはしゃぎようにアータとアンリエッタは顔を見合わせて噴き出しながらも、宿を覆う門を開き、中に入っていった。
そうして宿の扉を開いて中に入ったアータとアンリエッタを待っていたのは、ワインを両手の指で器用に八本も携えて仁王立ちしていた魔王クラウスの姿だった。
両手でこれでもかとキレイに携えたワイン瓶を掲げ、腰を落として構える魔王の姿に、アータは深い溜息をついて背中に携えたデッキブラシに手をかける。
「……何やってんだクソ魔王」
「遅かったではないか、アホ勇者。いやなに、折角の羽を伸ばす機会だ。私自慢の酒を貴様にふるまってやろうと思ってな!」
「ほう? で、それとその指で構えたワイン瓶と何の関係がある?」
「決まっている――」
不穏な空気を読み取ったアータは、傍にいたアンリエッタを乱暴に突き飛ばして背後に飛びずさった。次の瞬間、両手のワイン瓶をキンっと小気味良い音を立てさせながら、魔王が飛びかかってくる。
「貴様に飲ませてやる、この飲んだら絶対服従ワインをな!」
「いらん! っていうか、お前先に飲んでたなこのクソ魔王!」
恐ろしいスピードで飛びかかって振り被られた一撃を、背中を限界までそらして辛うじて躱す。あまりの速度に風圧で背後の豪華だった扉も抉れ、アータは慌てて身をひるがえして迫る第二撃を躱す。
二撃目を躱して魔王の懐に飛び込んだアータは、そのまま魔王の死角からデッキブラシを顎に突き立てて一撃を決め、仰け反った魔王の右腕を取ってその場に押し倒し、関節を決めた。
だが、もがく魔王の力の強さに、アータもまた珍しく顔を顰めながらがっちりとその背を抑え込む。近づいてすぐに気づくのは、魔王クラウスから漂ってくる強いアルコールの臭い。それこそ一本二本で済まない量のワインを飲んだのだろう。
今だに締め付けた両手の中で震えるワイン瓶にげんなりしながらも、アータは脇で転げていたアンリエッタに叫んだ。
「おいアン! こいつ、酔っ払ったらここまで暴れるのか!?」
「は、羽目を外しすぎた時はたまに、その……、周りへ飲ませたがりますというか……。先日アータ様がやったブリッツも、魔王様がドラゴン族との宴会芸でやりすぎた一撃で」
「こんなところであんなものやられちゃたまらないだろ」
「た、たまりません! 何とかしてくださいアータ様!」
じたばたと暴れる魔王の姿にうんざりしながらも、両手に持っているワイン瓶をすべて奪い去ったアータは、抉れてしまっている宿の扉に向かって声をかけた。
「来てるだろネリ―。悪いが手を貸してくれ」
そういうと、抉れた扉を開いてアラクネリーが宿の中に入ってくる。その姿は既に神殿にいた際の服装から、元のダボだぼっとした服装へと戻っていた。伸びきったマフラーを引きずるようにしたアラクネリーは、面倒臭そうにアータの声に応える。
「どうすればいいの」
「しばりつけてくれればいい。大丈夫、十秒程度持てばいいから」
「わぱっぱ」
「突っ込まないからな」
そういうと、アラクネリーは首に巻き付けていたマフラーを器用に振り、そこに自身の掌から出していく蜘蛛の糸を絡めて強度を増していく。次の瞬間には、マフラーは意思を持ったように魔王クラウスの両腕両足を締め上げた。
だが、締め上げた先から魔王クラウスの馬鹿力はぎちぎちとマフラーとアラクネリーの糸を引きちぎっていく。その様を見たアラクネリーが不服そうに唇を尖らせるのをみながら、アータはアンリエッタを手招きした。
「な、なんですかアータ様? あの、私あんまり暴れてる魔王様の近くには――」
「俺の隣に立っててくれ。あ、あとそのメイド服のエプロンをこう、両手でつまんで持ち上げて――そうそう、そんな感じ。そこでストップ」
「この行動に何の意味があるんですかね!? というかあの、魔王様がそろそろ動き出しそうなんですがアータ様!?」
「こうする」
アンリエッタの傍で、アータは視界が揺らんでいる魔王の襟元を片手で掴みあげて持ち上げ、おもむろに開いた手をぐるりと回し、
「ふんっ!」
「ちょっ!?」
力の限り、縛り上げていた魔王の腹に一撃を決めた。あまりの強烈な一撃は宿の床をめり込ませ、ついでに魔王の腹に襲った衝撃はそのまま宿の天井にあった煌びやかなシャンデリアを派手に揺らす。普通の魔族なら一発で終了の一撃を食らった魔王はしかし、わずかに顔を青く染め、アラクネリーのマフラーと蜘蛛の糸を引きちぎった。
そのまま魔王はふらりと揺れ、アータの傍でメイド服のエプロンの裾をつまんで持ち上げていたアンリエッタの前に沈みこんだ。
そして――、
「おげぇえぇえええええええええ!?」
「いぎゃああああああああああああああああああ!?」
アンリエッタのつまんだエプロンの中に顔面を突っ込んだ魔王の情けない様に、アータは満足いったように頷き、アラクネリーと共にいい笑顔で親指を立てた。