第七話 神の歌と巫女
街を駆け抜け、見知った顔からの挨拶もほどほどにアラクネリーは神殿へ着く。
見上げる神殿は大きい。巨大な石柱で囲まれた穢れのない真っ白な神殿の周りには、木々が丁寧に植えられ、咲き誇る色とりどりの花が神殿の厳かさを和らげる。だが、神殿自体の放つ強大な魔力は隠しきれない。
アラクネリーは漏れ出す魔力の強さに僅かにむっとしながら空を見上げ、視覚結界を睨む。
睨んだ先の結界が、漏れ出す魔力に揺られて僅かにゆがみ始めていた。
「……結界、歪んでる。急がないと」
そう呟くと、アラクネリーは巨大な入口をいつものように抜け、神殿内部にある彼女専用の部屋へと向かう。途中、神殿内の神官達が彼女に向かって会釈するが、そんなものを気にせずにアラクネリーは急ぐ。
そうして神殿から入って少し奥へと進んだ先にある小部屋――彼女専用の部屋についてアラクネリーは、首に巻いていたマフラーを乱暴に脱ぎ捨てた。
彼女専用の部屋の中にあるのは質素なものばかり。壁一面に掛けられた多数の色とりどりなマフラー。申し訳程度の書物。小さなベッド。部屋の中央に置かれた、彼女の背より少し高いほどの大きな姿見。
そして何より目立ったのは、壁に大きく伸ばして掛けられていた――舞のための衣装だ。
掛けられていたその衣装は、真っ白な羽織りでしかない。何一つ装飾はないが、魔力を灯しているその衣装に汚れはない。アラクネリーは身に着けていた服を脱ぎ捨てると、そのまま大きな姿見に指先で触れた。鏡にさえ見えたこの姿見は、触れた指先に波紋を広げ、これを見たアラクネリーは小さく頷いて姿見の中に入る。コンマ一秒もなく、次の瞬間には姿見の後ろからゆっくりとアラクネリーは出てきた。
姿見を通して身を清めたアラクネリーは、そのまま壁に近寄っていき、かけてあったその衣装を羽織り、腰元をぎゅっと縛る。
そして、神殿奥から感じる魔力の流れに、アラクネリーはそっと瞳を閉じて頷いた。
「今日はこれ」
そうして、彼女は感じた魔力の荒れ模様を諫めるための色を感じ、壁に掛けてあったいくつものマフラーの中から、赤と黄のマフラーを手に取った。右手に赤のマフラーを、左手に黄のマフラーを取った彼女は、それぞれのマフラーに魔力を通していく。
すると、マフラーは不思議な光を放ちながらほどけていき、そのままアラクネリーの羽織に吸い寄せられ、新しい形を整えていく。真っ赤だったマフラーはアラクネリーの腰元から足首までをゆったりと覆っていき、真新しい袴へと変わる。金色にすら感じた黄色のマフラーは、羽織りの背に日輪を描いていき、煌びやかに。
しばらくして身を整えたアラクネリーは、腰元まで延びる黒髪を後ろでぎゅっと止め、部屋を出た。
「巫女殿」
そうして部屋を出ると、部屋の入り口に四人の神官が並んでいるのに気づき、ネリ―は彼らを一瞥する。筆頭にいるのは、先ほど街の入り口でも言葉を交わした彼女の親代わりでもある年老いた神官――テノルだ。テノルは困ったように笑いながら、曲がった腰を叩きながらアラクネリーへと話を進めた。
「御神体の揺れは、この地への危険を示したものかもしれませぬ。多少の反撃の可能性が――」
「問題なっしん」
そういってピースをするアラクネリーの様子に、テノルは深い溜息と共に彼女を細い視線で睨む。
「その姿では、言葉遣いを気にしなさい巫女殿。とはいえこれを」
「わぱっぱ」
「気をつけなさいといったばかりでしょうに!」
テノルの怒声を聞き流しながら、アラクネリーは近寄ってきた神官の一人から青みのかかった羽衣を受け取った。これを携えたアラクネリーは、一度だけ神官たちに大きく頭を下げ、そのまますたこらと神殿内を駆けていく。
その背をテノルは苦笑するように見送り、呟く。
「全くあの子は……。いつまでたっても子供のままですなぁ」
◇◆◇◆
神官たちを置いて、アラクネリーは神殿の奥にある扉に触れた。彼女の背の数倍は在ろうかという巨大な扉は、ギギギッと音を立てながら開かれ、アラクネリ―は迷うことなく部屋の中に入る。彼女が入ると静かにしまった扉を一瞥もせず、光一つない真っ暗な部屋の中で瞳を閉じて大きく深呼吸。
そうして一歩、足を前に出すと、彼女の周囲で蝋燭に火が灯る。
また一歩、踏み出した足に合わせて蝋燭が火を灯す。
歩み行く先を一歩ずつ照らすように灯っていく蝋燭に合わせ、アラクネリーは胸の前で合わせた掌を左右に広げて天を仰ぐ。
「――荒ぶりし神よ」
瞳を閉じて天を仰いだアラクネリーが言葉を発すると、彼女の目指す先――部屋の最奥から紫電がアラクネリーへと向かって飛んだ。閃光にも似たその紫電を、アラクネリーは器用に身をひねって躱す。そうして彼女は羽織っていた羽衣を手に取り、踊るように軽やかな足取りで一歩ずつ最奥へと向かっていき始める。
「祖は世界に落ちた種、祖は神が落とした月の涙」
羽衣を広げてその場で舞う。
そして、また一つと部屋の奥へと歩みを進め、蝋燭への火が灯った。
「我らは抗いしもの」
再び迫った紫電を、アラクネリーは器用に上体をそらして躱す。
「幾重の紫電がこの身を焼こうと。数多の白炎が世界を焼こうと」
紫電では届かない。まるでそう知っているかのように、部屋の奥からは業火がアラクネリーへと迫った。
しかし、それでもアラクネリーは詩をやめず、手にした羽衣を正面で振り払うようにして業火を薙ぎ払う。
「巨万の大地が引き裂かれようと。深淵の溟渤が全てを飲み込もうと」
飛ぶようにしてアラクネリーは一気にそこへと距離を詰めた。
着地して深々とソレに向かって頭を下げたアラクネリーは、身に迫る紫電を無視してゆっくりと顔をあげ、それを睨むようにして告げる。
「我らは抗い続けるもの」
ソレは質素な台の上でゆっくりと回転する、菱形の赤い宝石であった。深い紅に染まるその宝石が莫大な魔力でアラクネリーを吹き飛ばそうとするが、彼女はこれに表情も変えずに堪え、手にしていた羽衣を両手で広げる。
「荒ぶりし神よ。我らが声をその燃える身体に焼き付けよ」
広げた羽衣を器用に操り、アラクネリーは荒ぶるその深紅の宝石へ羽衣を伸ばす。
そうして伸びていった羽衣は強い魔力を発して輝きながら、深紅の宝石――御神体を包み、荒れ狂う魔力を抑え込んでいく。
「我らは神に反逆仕るもの」
そうして御神体の魔力を自身の魔力をもって抑え込んだアラクネリーは、わずかにほっとした顔で瞳を閉じ、最後の祝詞をあげる。
「世界の声に応えるものは――っ!?」
だが、次の瞬間、羽衣の魔力を突き破る様にして御神体から強力な雷の刃が伸びた。
一瞬の油断。
躱せないと悟ったアラクネリーは目前の雷の前にきつく瞳を閉じ、
――パチンっという、甲高い音が部屋の中に響いた。
「……え?」
恐る恐る瞳を開けたアラクネリーは、足元が大きく焦げていることに気づく。目前に迫っていた紫電の切っ先はアラクネリーの身体に触れることなく、何かによって弾かれた。わずかに震える唇に指で触れながらも、アラクネリーは羽衣の中で暴走をやめた御神体を一瞥しながらも、息を整える。
身体から抜けていく力にぺたんとその場に座り込んだアラクネリーは、足元に転がる小さな小石に気づいた。
これを見て、アラクネリーは不満げに暗い部屋の中を見渡しながらも、唇を尖らせて誰にも聞こえぬ声でつぶやく。
「……ここに居た」
◇◆◇◆
アラクネリーは疲れた身体を引きずるようにして、御神体のある部屋を去っていった。その背を最後まで、部屋の奥の天井に刺していたデッキブラシにぶら下がってみていたアータに、フラガラッハの呆れたような声が届く。
『あーたん、あれじゃ見つかったんですの』
「まぁそうだろうな」
静かになった部屋を確認し、アータは天井に突き刺していたフラガラッハを引き抜いて、音もなく床に着地する。そのままふっとデッキブラシを振り払い、ついた埃を拭って背に預けて歩き出す。
アラクネリーの時とは違い、アータが歩みを進めても部屋の中の光は灯らない。
暗闇といっても差し支えないほどの深淵の中、アータは迷わず歩みを進め、そこに近づいた。
「御神体、か」
視線の先では魔力を抑え込まれて落ち着いた、深紅の菱形の宝石が浮いている。その輝きの様は今は弱いが、フラガラッハを手にしているアータは気づく。
『あーたん、これ、神の作ったルールなんですの』
「だな。まぁ、これだけじゃ何のアーティファクトかはわからないが……」
フラガラッハの言葉を肯定しながらも、アータは目の前のアーティファクトを一瞥する。その効果のほどはわからないが、先ほどのアラクネリーの奉納への反発の強さを見ても、何かしらの力あるものであることは間違いない。
自らの首元にあるアーティファクトをつつきながらも、アータは踵を返した。
「この地域の不思議な魔力の違和感の原因かと思ったが、こいつは関係ないな」
『関係あったらどうしてたんですの?』
「状況にもよる。壊したところで、どうせ修復してしまうから意味がない」
『そりゃそうですのん』
フラガラッハの笑うような声に肩を竦めながら、アータもまた御神体に背を向けて歩き出す。そうしてアータは先ほどアラクネリーの祝詞を思い出しながら、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「世界の声に応えるものは――ここに居る、か」
『どーかしたんですの、あーたん?』
「いや、少し昔のことを思い出しただけだ。そろそろお嬢様が駄々こね始める時間だろうし、戻るぞ」
フラガラッハの探るような声に応え、アータは踵を返して神殿を後にした――。