第四話 デッキブラシの正しい使い方
雪山の麓へと向かって歩みを進めていたアータだったが、自分たちが下りてきた山肌の奥から聞こえてくる地鳴りのような音に眉を顰めた。吹雪もなく晴れ渡る空の下で不快な限りを尽くすその音の意味に気づいたアータは、歩みを止めて高さのあった山肌を睨む。
そんなアータの様子に、隣で小さな翼を羽ばたかせて飛んでいたアンリエッタが首を傾げて近寄ってきた。
「どうかしましたか、アータ様?」
「いや、どうにも俺たちを逃がしたくないらしい。ネリ―」
サリーナと共に雪に埋もれながらも進んでいたネリ―の名をアータは呼ぶ。これに気づいたネリ―は、一人突き進もうとするサリーナの首根っこを掴んで振り返った。
「なにごと?」
振り返ったネリ―のもとへ、アータは飛んでいたアンリエッタを脇に抱き寄せて抱えて追いつく。
「雪崩だ。結構大きそうだぞ」
「がびーん」
「お前、大物だよいい意味で」
「ちょちょちょ、アータ様今なんておっしゃいました!? 雪崩!?」
脇に抱えたままのアンリエッタが絶望の表情で慌て始めた。そんな彼女とは対照的に、サリーナはアラクネリーと顔を突き合わせて嬉しそうに笑う。
「のぅのぅアラクネリー! 雪崩とはあれか、ごわーってくるのかの!?」
「ごわーじゃなくて、ぐわーでくる。埋もれたら死ぬ」
「にょっほおおお! アンリエッタアンリエッタ! わし雪崩見てみたいのじゃ!」
「お嬢様、あれ見て楽しむものじゃありませんから! っていうか、ああああ、もう地鳴り聞こえてきてるんですけどぉ!?」
腕の中でじたばたもがくアンリエッタをぽいっと雪の上に落としたアータは、サリーナの言葉を反芻しながら思案する。
このままのそのそ雪を超えてイリアスの街に向かおうとすると、雪山の中で一晩を過ごさなきゃならないかもしれない。それに、普段雪なんて見ないというサリーナに雪崩を経験させてみせるのも悪くはない。良くも悪くも、サリーナは魔王の娘だけあって度胸は並外れているわけで。
そう思い、アータは一つ閃く。実に楽し気に雪崩を楽しみつつ、イリアスの街へ高速で向かう術を。
この瞬間、アータの浮かべた微笑みに気づいたアンリエッタは、顔を真っ青に染めてアータの防寒服を引っ張り始めた。
「あ、アータ様……? お願いです今考えてることは実行しないでくださいね?」
「ネリ―。折角だし雪崩観光しながらイリアスに向かおうと思う。少し魔力借りれるか?」
「もーまんたい」
「あのぉ!? だから私の話聞いてくれませんかね! 絶対とんでもないこと考えてますよね貴方!? っていうか、離、離してぇ!」
もがくアンリエッタの様子にアータは顎でくいっとアラクネリーに指示を出した。この意味を理解したアラクネリーは、アータが抱きかかえているアンリエッタを引きはがして助け出す。
そうして慌ててアータのもとから離れたアンリエッタは、息も絶え絶えに両腕を油断なくアータに向けて構えた。
「た、助かりましたアラクネリー様……。すみませんが私は一人空に――あれ?」
アータが背負った巨大な食料袋の中にもぞもぞと入りこむサリーナとアラクネリーをよそに、アンリエッタはその場で自分の羽をパタパタと広げようともがく。だがしかし、その小さな翼は何かが絡まって動かない。というより――、
「あんのぉ! 翼、つばさつばさつばさ! 私の翼がいつの間にか蜘蛛の糸で丸められてて開かないんですが!?」
そうして慌てるアンリエッタの目に入ったのは、自分の背の五倍はあろうかという巨大な雪の大波。そしてその目の前で、デッキブラシを片手に持って、背中に携えた巨大な食料袋とその中から顔を出して興奮に叫ぶサリーナとアラクネリーの姿。
あ、これ死んだ。
そんな風にアンリエッタが諦めの微笑みを浮かべたのを見て、アータは満足いったように笑って彼女の腕を引いてその場に跳躍。大絶叫をあげながら首に抱き着くアンリエッタをそのままに、アータは自分たちの足元を猛スピードで下っていく雪崩を一瞥しながら、背に背負った二人に声をかけた。
「二人とも、しっかりつかまっておけよ」
「はーいなのじゃ!」
「ばっちこーい」
「私にだけ選択肢が全くないんですけど!?」
「おいていってほしけりゃおいていくが」
「ぜひ連れて行ってくれませんか!」
「よしきた」
アンリエッタの同意を受けたところで、アータは手にしていたデッキブラシに指示を投げた。
「やるぞフラガラッハ! スカイハイだ!」
『そんな技ないんですの!』
にょきっと少しだけその長さを増したデッキブラシを足元に回し、その持ち手に両足を乗せて腰を落とす。その姿はまるで――空を舞う滑空。
そうしてアータは三人を連れたまま高速で崩れ落ちていく雪の流れに乗る様に、デッキブラシと共にその波へと着地し、
――ぽきっと。
体重をかけたデッキブラシの刀身がてこの原理で折れた。
「あ、ごめん重量オーバー」
「真顔で何今更なことを言ってるんですかね貴方は!? っておぎゃああああああああああああああ!?」
ぼふんっと、音を立てて一行は雪崩に飲み込まれる。
轟音と岩肌すらえぐり取るような強烈な波の中に一行が落ちてしばらくし、雪崩の中からぴょこんとデッキブラシが突き出てた。そのまま流れに乗る様にしてデッキブラシと共に、アータは三人を引き連れて雪崩の中から飛び出す。
「にょっほおおおおおおお! ひーはーなのじゃああ!」
満面の笑みで両腕を振り上げるサリーナの声を耳にしながら、アータはアラクネリーの魔力によってわずかに雪の上に浮上するデッキブラシに着地。そのまま器用にバランスをとって、雪崩の波に乗る。
雪崩の波に逆らわず、風を感じながらデッキブラシで雪崩乗り。
風に靡く黒髪を揺らせるアラクネリーは、自分たちを荷物ごと抱えてバランスをとるアータに向かって親指を立てた。
「最高に、クール。雪だけに」
「雪崩じゃなくて、溶岩相手に波乗りしたらどんな感想になるんだ?」
「最高に、ホット。溶岩だけに」
「ボキャブラリー足りないなおい」
アラクネリーの言葉にさえ楽しそうな雰囲気を感じたアータは、小さな笑みを浮かべながら右へ左へ器用に波を乗り換えていく。後ろの荷物の中にいる二人の少女組はそれこそ絶叫を楽しんでいるが、抱きかかえている彼女は当然そんな楽しむ余裕を持たない。
「木! 木木ぃ! 当たりますって当たります!」
「大丈夫、ちゃんとぎりぎりで躱すから。よいしょっと」
「あべしっ!? あ、あのォ!? 貴方だけ躱しても私に枝が当たるんですが!? あぁちょっと、右右! あぁ次左! いぎゃあああ! もうちょっとスピード出せないんですか!?」
「お前実は楽しんでるだろ」
瞬きの間には目の前に迫るような木々をぎりぎりで躱しながらアータは雪崩に乗って一気に山を駆け下りていく。吹き付ける風の音やアンリエッタの叫び声、サリーナ達の絶叫すら心地よさに変えながらしばらく雪崩に乗っていたところで、ようやく視線に見えてき始めたものがあった。
「アータ。あれが星の入口」
そういってアラクネリーが進行方向でぱっくりと割れている大地を指さした。
目の前に広がるのは、地平の先まで続く巨大な大地の裂け目だ。対岸といっても差し支えないその先は恐ろしい距離がある。また、見上げる空にはいくつもの空島が浮かび、時折見える雷雲は轟音さえ轟かせていた。
数万年前に起きたという、大陸大変動で分かたれた大地の成れの果てだ。その様を初めて目にしたアータも、思わず感嘆を漏らす。
「話には聞いていたが、すごいもんだな」
「ふふん」
「ネリ―、このままいって問題ないか?」
「今の雪崩の勢い、このままいくと街に降り注ぐ。それは困る」
「わかった。フラガラッハ」
『わかってるんですの!』
雪崩に乗っていたアータは、相棒の名を呼ぶ。これに反応するフラガラッハの持ち手が伸び、アータはこれに乗る様にして一気に雪崩より先の大地に向かって飛んだ。浮遊感に絶叫する三人をよそに、大地の裂け目寸前の位置に雪崩より早く着地したアータは、三人を周囲におろす。
そのままへたり込むアンリエッタを一瞥し、迫りくる巨大な雪崩の波の前で大きくデッキブラシを振りかぶり――、
「よい、しょっと!」
ぶぅん! っと、思い切って振り抜いた。
振り払った余波はそのまま強烈な衝撃波となって、迫り来ていた巨大な雪の雪崩を押し返す。どころか、そのまま迫っていた雪崩を大地ごとめくり上げるようにして押し止め、一瞬にして雪崩の勢力は衝撃波で作り上げられた天然の壁の前に止められる。
しばらくの間はあとから押し寄せてくる雪崩の威力の前に、めくりあがった大地も揺れていたが、次第にそれも静かになっていき、雪崩そのものの威力がなくなった。
「これでいいか、ネリー?」
「問題ない」
「あの、アータ様。これ、最初からあの場で止められたってことですよね?」
そういってアンリエッタが、目の前で押しとどめられた巨大な雪崩の後を指さす。そこでもはや虫の息になっている雪崩の様子をちらりと見たアータは、アンリエッタの問いかけに応えながら、ポケットに手を突っ込んで近くに転がる小さな石を二つ手に取った。
「まぁな。ただ、あのまま雪山に居たら面倒だと思ったんで、さっさと降りられる方法を選んだだけだ」
「もう少し心臓に負担のかからない方向でやってくれます? っていうか、石なんて手に取って何をするつもりですか」
「いや、今回まだやってないなって思って」
「やってないっていったい何を――振り被らないでください何しようとしたかわかったのでやめて下さ――」
ぶぅん!
遠慮なく投擲された石は隕石も真っ青な速度で赤熱しながら、前の前にできた雪崩の後を吹き飛ばし、雪山の頂上に向かって消えていく。その石の行く先を見つめながらも、アンリエッタはアータの執事服の襟をつかんでがくがく揺らした。
「だから投げないでくださいっていつも言ってますよね!?」
「いやだって、このまま雪崩の後残していくわけにもいかないだろ。今のできれいに掃除できたからよしとしよう」
「もうちょっとやり方ってものがあるんじゃないですかね!」
「サリーナ様、ネリ―。街に降りましょう。案内頼むぞ、ネリ―」
「にょっほおおお! 早速温泉なのじゃ!」
「まかされた」
「いい加減……私の話に耳傾けてくれないと号泣しますからね?」
元気よく駆け出すサリーナとそれを追うアラクネリー。とぼとぼと舌を向いて彼女達についていくアンリエッタと共に、アータは一度だけ雪山を振り返って笑みを歪め、
「まぁ、暫くはゆっくりさせてもらうとするか」
と、誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた。