第十六話 歌声は次第に悲鳴に変わり
「ご無事ですか、勇者殿!」
「無事だが……まだ下がっててくれ」
門の外から近付いてきた傷だらけの騎士に掌を向けて制す。その掌の意味に気づいた騎士は、慌てて周りの騎士たちと共に剣と盾を構えて門の前で並ぶ。
そうしてアータは、深い溜息と共に背後で再びのそりと立ち上がる気配へ振り返った。
『自己修復ですの。まだ完全ではないけど、このままだと完全に復活してしまうんですの』
「その都度ぼこぼこにしてもいいんだが。魔法でも使えれば――ん?」
のそりと立ち上がってこちらを見つめるキメラの視線が固まる。まるで時が止まったかのように停止するそのキメラの様子と、後ろから近付いてきた先ほど助けた金髪の女性の姿に、アータは瞳を細めた。そして、その女性の口元から聞こえてくる呪文に似た美しい歌声の聞き覚えに、頭を振ってキメラを睨む。
そこにいたキメラは立ち上がってこそいるものの、強力な幻影魔法の前に白目を向いて身動きができない状態で震えていた。
『あーたん、これって人魚の……』
フラガラッハの問に頷き、アータは隣に並び立ったまま歌い続けるその女性を見る。
深いエメラルドの吊り上がった瞳。腰まで延びる金色の髪。着ている服こそ安物の麻でできた質素なものだが、わずかな気品すら感じさせるその立ち振る舞いに、アータは呆れたように口をすぼめて問いかけた。
「なんでここまで来てるんだよ、お前は」
アータの問いかけに、キメラへと向けて呪詛の歌を詠唱していたその金髪の女性――フラウは髪の毛をかき上げて笑う。
「なぜって決まっていますわ。貴方をわらわのお嫁に迎え――」
「歌うのやめたら襲ってくるぞ」
「迎え――ラララーララッ!」
拘束の解けたキメラが一瞬で接敵してきて腕を振りかぶり、慌ててフラウが再び歌い始める。振り被られた巨大な腕はアータとフラウの鼻先数センチで止まり、フラウはその場に腰を抜かすように倒れこみながらも歌い続けた。
「それにしても、人魚の歌声ってのはすごいもんだな。このレベルの魔物にここまでの効果があるのか」
「ラ―ラララーララ!」
「とりあえずそのままもうちょっと歌っててくれ」
「ラララーララッ!」
非難の目が向けられるが意にも介さず、アータはずけずけとキメラの回りを見回る。その全身の歪さを改めて感じながらも、両腕をさりげなくキメラの肉体に近づけ、痛みのほどを確認。痛みがあると分かって近づければ、耐えられないようなものではない。そして、先ほど破ったはずの鼓膜さえすでに回復の傾向にあることを知り、その回復力の高さに感嘆してしまう。
「らー、らんらんらー!」
そろそろ疲れてきたのか、フラウの歌声に元気がなくなり始めている。仕方なくアータはキメラの観察をやめ、歌い続けるフラウの傍に戻ってきた。彼女は強気な瞳をきつく細めながら、しきりに喉に手を当てて何かを訴えかけてくる。
「ちなみに、どれくらいもつんだその歌」
「らんらーんら!」
問いかけると、フラウは苦し気な様子で人差し指を一本立てた。
「なるほど、その気になればひと月ぐらい歌い続けられるのか」
「らんらー!」
力強く首を左右に振る彼女の涙目な様子を肯定と受け取り、アータは顎に手を当てて思案する。
修復力の高さを見ても、都度都度倒すのは面倒くさい。魔法が使えるのであれば、今こうしてキメラの動きを止めている人魚の歌声や幻影系の魔法、封印系の魔法を使えば対処法はある。
だが、ただいま絶賛いやーん私もう頑張れないが自身の魔力を制限中。そういった魔法を使うことはできない。
それに、今自分が抱えている問題は多い。例の女性魔族に見られる流行り病の件。それを直すための薬の件。勇者暗殺の件。目の前のキメラの件。
「……流行り病? あー」
ちらりと傍で汗を流しながら歌うフラウを見やる。彼女とキメラを交互に眺め、アータは思い立ったように指を弾いた。
すると、これに気づいたフラウが乾き始めた唇で歌声を響かせながらも、アータに目で訴えてくる。
「ら、っららー、ららーん……っ!」
「ん? あぁ悪い気が回らなかったな。疲れたのか」
「らんらー!」
鼻水を垂らしながら頷くフラウの様子に、アータはわかったわかったと告げてその場を離れていく。
あれっといわんばかりにフラウが慌ててアータと、目の前で停止中のキメラを交互に見やるのを尻目に、アータは壁傍の騎士団駐屯所にあった背もたれのある木椅子を手にして戻ってきた。
そうして困惑するフラウの真後ろに椅子を置き、笑顔でフラウを椅子に座らせ、一言。
「さぁ、思う存分歌っていいぞ」
「らー……んでやねんですわ! っておぎゃあああ!?」
停止していたキメラが雄たけびと共に大口を広げ、椅子に座っているフラウごと食いちぎらんと迫った。人ひとりなど簡単に丸呑みできそうなほどその巨大な口に備わった血の滴る牙がフラウの頬に突き刺さる寸前、ドンッというひどく鈍い音があたりに響く。
「さて、いくつか聞かせてもらいたい」
フラウが死を覚悟した叫びと共に閉じていた瞳を開いたその時、日常の会話と何ら変わらないトーンのアータの声が響いた。その声に震えながらも瞳を開いたフラウは、先ほどまで目の前に広がっていたキメラの姿が眼前にないことに気づく。それどころか、目の前にいるのは笑顔で立つアータの姿だけ。
否。
眼前にキメラの姿はないが、目の前にはある。
正確には、笑顔を見せるアータの足元で地面に押しつぶされたキメラの姿があった。
「あわ、あわわわ……!? ゆ、勇者様!? こ、これはいったい……!」
困惑に揺れるフラウに笑みを返しながら、アータは踏みつぶしたキメラの頭部をちらりと一瞥して頬にはねた血を拭う。
「大丈夫、いくら自動修復でも頭部が吹き飛べば、回復までは少し時間がかかる」
「ちょちょちょ、ちょっとおまちくださる? あの、これ、すごくお強い魔物――」
「そうだな、その辺のわんこみたいなものだ」
「ぴ、ピンチだと思ってわたくし、人魚の呪詛の歌声で――あれ?」
腰を抜かしていたフラウが椅子から立ち上がろうとして、立てないことに気づく。いつの間にか椅子の後ろで手を縄で縛られているのだ。それどころか、足まで縄で縛られていることに気づいたフラウは、アータの足元のキメラと自分の状況、そしてアータの歪な笑みの前に悟った。
そうしてフラウの顔が真っ青に染まるのに気づき、アータは大きく頷いて問う。
「理解が早くて助かる。そして、助けてくれてありがとう」
「あの、お礼を言われる状況にみえないんですわ。両手両足縛られてうごけませんわ」
「さて、本題に入るわけだが、いくつか頼みたいことがある」
「あの、助けた人にこの仕返しってどうかとおもいますわ」
「頼みを断れば、俺はこのままここを立ち去る」
「あの、わらわは?」
「ここに、おいて、いく」
「あのぉ!?」
絶叫を上げるフラウに顔だけ近づけて、アータは青い顔をしたフラウの耳元に口をそっと近づけて語る。
「大丈夫だ。頼みを聞いてくれれば何もしない。それに、お前浜辺で言ってたよな。自分のことを没落人魚だと。その現状を打破するために勇者を嫁にしたいと」
「そ、それは確かにそうですわ。だからこうして、他の人魚達を出し抜くために変身魔法まで使ってここまで追いかけて――」
「頼みを聞いてくれれば、嫁にまでならないが、お前を魔王家で働かせてやる」
「――え?」
「わかるよな、魔王家で働くというその意味が」
ごくりと、フラウが息を飲むのに気づき、アータは笑みを歪めた。背中に携えたデッキブラシたるフラガラッハが盛大な溜息をつくのさえ気にせず、アータは悪魔のささやきを続けた。
「人魚族で。初めて。魔王直属の魔王家で、働く。だ い しゅ っ せ。没落などと揶揄されたお前の父も、母も喜ぶぞ」
「乗りましたわ。すぐにわらわになんでもお頼みなさいな!」
キラキラと燦然と輝くフラウの瞳に、アータは大きく頷いて手を差し出した。
「交渉成立だな。俺の名前は勇者様でなくていい。アータ・クリス・クルーレ。アータでいい。改めて、よろしく頼む、フラウ」
「わわらわこそ。改めて、わらわの名はフラウ・フランソワ・アルフレーラ。フラウとお呼びなさいな、アータ。で、手を差し出されても縛られてて握手できませんの」
「いや、別に握手を求めてるわけじゃない。ほらお前ら人魚族って下半身乾くと石になるだろ? 変身してるのに乾かないのかと思って」
「おバカなの!? ちょっと手を伸ばすのおやめなさいな! 足! 足の周りを常に水魔法で覆って……だーれかたすけて変態がいます!」
フラウの切実な叫びに、遠巻きで状況を見守っていた騎士たちが慌てて助けに入るまで、アータによる人魚いじりは続いた――。