第三話 夜の浜辺のひと時
「ついたぞ、アン」
「……やっと、やっと着いたんですか……」
真っ赤な髪の毛にべったりと海藻を張り付けたままのアンリエッタは、目の下に大きなくまを作ったままあたりを見回す。そこは既に砂浜。魔界で見た砂浜ほど美しいものではないが、それでも手入れの行き届いたきれいな砂浜だ。夜中についたこともあり、周囲に人の気配は全くない。砂浜の先には細い道と生い茂った木々が風に揺れていた。
吹き付ける冷たい風に震えながらも、アンリエッタは茫然としたまま、自身が乗っていた甲板の切れ端から降り、波打ち際をふらふらと陸に向かって歩き出す。
アータもまた、アンリエッタが下りたのを確認したのちに、潮水を吸い込みまくった執事服の裾をひねりながら彼女の後を追った。
『勇者ァ……』
歩き始めて何か重いなと思ってアータが振り返ると、自分の足首に網をかけて逃がすまいとしがみついていた人魚を見つけた。
その顔は、砂浜で誰よりも最初に自分に向かってとびかかってきていた金色の髪をした美しい人魚だ。透き通るような白い肌は一晩中アータのバタ足の前にさらされていたのか、ぼろぼろに。深いエメラルドの瞳もゆらゆらと揺れ、心なしか呼ぶ声も弱く、息絶え絶えにかろうじてしがみ付いている状態。
このままでは、死んでも離れそうにない。参ったなと深い溜息をつきつつも、アータは前を歩くアンリエッタのふらつく姿に頭を抱えた。
そうして、背中に携えていたデッキブラシをおもむろに手にし、
「…………」
『勇――ふごっ!?』
遠慮なくその人魚の脳天にデッキブラシを振り下ろし、気絶させる。人魚が力なく倒れたのをしっかりと見送り、アータは足に絡みついていた網を外した。そのまま波に攫われ沖に流されそうになる金髪人魚の身体を抱き上げ、先を歩くアンリエッタを呼ぶ。
「おい、アン。今日はここで休もう」
「なんですかいったい、今は一刻も――魔族攫いですか?」
「俺を何だと思ってるんだ」
人魚を抱きかかえるアータを見たアンリエッタの視線が細まった。どこまでも信頼されてないなとアータはげんなりするが、よくよく考えると信頼してもらうような行動をした記憶もなく、肩を竦める。
「どっちにしろ、俺は平気だがお前が持たないんだろこの旅のペースじゃ。潮風がきついが、この先は街道がしばらく続く。今日はここで休もう」
「誰が無理ですか。私はこう見えて魔王家で働くメイド長。ちょっとやそっとの――っと」
ふら付くアンリエッタを、アータは仕方なく腰に手をまわして脇に抱きかかえた。急なことに暴れるアンリエッタは、だが、疲れからかすぐにおとなしくなる。
「とりあえず、あの大きな木の根元まで行く」
「もう好きにしてください」
諦めた様にがっくり項垂れるアンリエッタを連れて、アータは軽い足取りで砂浜から少し距離のあった大きな木のもとへ向かった。
◇◆◇◆
「あれ、私何して……?」
「ん? あぁ目が覚めたか」
少し離れた場所で薪を集めてたき火をしていたアータは、木に背を預けていたアンリエッタが目を覚ましたのに気づく。彼女は服についた泥を払いながら、不満げに火の近くに近寄ってきた。
アータより少し離れた位置にアンリエッタは、両足を抱くようにして座り込み、その腕に顔を押し付けながらも唇を尖らせた。
「あの、私の服がビックリするほどきれいに乾いてるんですが。後ついでに、潮水に浸かったのに髪の毛さらっさらのキューティクルなんですが」
「へーよかったな。結構すごいだろ」
「寝入ってる女の子を脱がして服を乾かすなんて最低です!」
「何の話だ? いっただろ、フラガラッハの自動浄化作用でしばらくの間の清潔さは保たれるって」
「あっ……」
今思い出したといわんばかりにぽんっと手を打ったアンリエッタを、アータは冷めた視線で睨む。その視線に頬を染めるアンリエッタは、剣幕強く攻め立ててきた。
「も、もとはといえばアータ様が悪いんじゃないですか! あんな海のど真ん中で無茶苦茶するからこうなったんですよ!?」
「いや、だから走ったほうが早いって――」
「それは却下です。っていうか、さっきから気になってたんですが」
「ん?」
アンリエッタが、瞳を細めてたき火の中央を見つめる。
視線の先――たき火の中央では、雄々しく大地に突き刺さったデッキブラシが燃えていた。よほど熱いのか、デッキブラシは火を避ける様にしてぶんぶん震えている。
「あの、デッキブラシ燃えてますよ」
「潮風でさ、この辺で拾った木の枝や枯れ葉がいまいち火が付かないんだよ」
「あの、デッキブラシすごい震えて助けを求めてますよ」
「剣の状態じゃさ、燃やすなんて発想なかったんだけど。この姿だとよく燃えるんだよなぁ。元が魔力の塊みたいなものだから、潮風に負けないし」
「あのぉ!? 伝説のアーティファクトが絶賛燃え上がってるんですがぁ!? それが勇者のやることですか!?」
怒鳴る様にしてたき火の中央で燃え上がったデッキブラシをアンリエッタが指さした。
その指の先で真っ赤に燃え上がるデッキブラシは、くねくねと動きながらも官能的な声を上げる。
『あーたん! わたくし様今、感じたことのない熱にぽかぽかなんですの! こんなお尻から燃え上がるような情熱を超えた激熱、あのふぁっきん魔王の地獄の業火よりもあついんですの! あちゃちゃちゃちゃ!?』
「大丈夫だ相棒。燃え尽きる前に自動修復機能で元通りになるから、その気になれば多分ずっと燃え続けられるよお前」
『あーたん! わたくし様、新しい何かに目覚めそうなんですの! 多分こう、すっごい炎系魔法とか身に着けられそうなんですの、相棒ごと燃やし尽くすような呪いの類のォ!』
轟々と燃え上がる中から聞こえてくる相棒の声に耳を傾けながら、アータは凝り固まった体を伸ばすようにして立ち上がった。そのままアンリエッタの怒鳴り声を聞き流しながら、炎の中に迷わず踏み入り、燃えたままの相棒であるデッキブラシを手に取った。
「ちょっと、アータ様!? 炎の中に入るって、何考えてるんですか、燃えちゃいますよ!?」
アンリエッタの問いかけに、アータは手に取ったデッキブラシを一度振り、その身で燃え上がっていた火を消す。そしてそのままデッキブラシを肩に預け、アンリエッタの前で胸を張って応えた。
「燃えるわけないだろ? この程度で燃えてたら、魔王の放つ地獄の業火になんて原形保てるわけないじゃないか」
「いや、そんな恰好つけたポーズしてないで、燃え上がっているそのその背中何とかしてください」
「それより、飯にしよう。お前が寝ている間に魚を釣ってきておいた」
「だから、ちょっとは人の話聞いてくれませんか? それに、魚を釣ってきたっていつのまに――」
「背中熱ッ!?」
「いまさら!?」
大騒ぎしながらもアータは背中についた火を消したのち、デッキブラシを近くの地面に突き刺して、火の回りに木の棒をさして焼いていた魚をアンリエッタに投げ渡す。慌ててこれを受け取ったアンリエッタは、手にした魚の丸焼きを怪訝に見つめながらも、アータに視線を移してきた。
「なんだよ。別に変なもの入れてないぞ」
「いえ、ただこういう食べ方はしたことがないだけです」
「心配ない。腹はそれなりに膨れるだろうし、食べ終わった後にはメインディッシュの問題もある」
そういってアータは魚の丸焼きをひと齧りして、顎でくいっとそこを示す。アンリエッタもまた、倣うようにして焼き魚を小さく口にしながらも、アータが顎で指示した先に視線を向け――そこにいた執事服を着せられて木の上から吊るされた、哀れな人魚の姿を見つけて噴き出した。
「ぶふぅッ!?」
「吐き出すなもったいない」
「ッぅふぶ!?」
アンリエッタの吹き出したものを空中できれいに回収し再び彼女の口の中に押し戻す。もがもがと青い顔でもがくアンリエッタを見下ろしながらも、アータは立ち上がって奥にある木のもとにやってきた。
そのまま、木の根元に集めていたこのあたりの森で採れた木の実を手にする。そうして傍の木にちらりと視線を向け、そこに獣用に張っていた罠にかかり、木の上からぶら下がっている金髪人魚の姿を見つめる。
「…………」
「お助けなさい、勇者様」
集めていた木の実の中から、形もサイズもよいものをいくつか選び抜いて、アータはずかずかと逆さにつられている人魚に近づいた。近づいてきたアータの前で、逆さづりの金髪人魚は偉そうに懇願してくる。
「お助けなさい、勇者様」
バリボリ。
「ちょっと、あの、そこの勇者様? なんでわらわの前でそんなおいしそうに木の実を食べるのかしら? 状況みてていますの? いいからお助けなさい」
「……結構おいしいなこれ。おい、アン、お前も食べるか?」
「ねぇちょっと!? これだけ露骨におかしな状況に何の感想もなしなのかしら!? っていうか見えてるでしょ、お助けなさいよ勇者様!」
腕一杯ほどにたまった木の実とともに、アータは木の傍を離れながら火の元へ戻った。
いまだに四つん這いになってむせ続けていたアンリエッタの背中をさすりながら、アータは手にしていた木の実をアンリエッタの傍において再び暖を取る。
しばらくして落ち着きを取り戻したアンリエッタもまた、ちらちらと叫び声の聞こえてくる木のほうの様子を伺いながらも、アータの傍に座り込んだ。
「あの、アータ様? 向こうからすごい声聞こえてくるんですけど」
「ん? あぁ、酒場とかでセイレーンの歌声とか呼ばれる歌姫の歌声だと思えば、心地よいもんじゃないか?」
「いやすごい呪詛こもったモノホンの声なんですけど。コブシ聞いた声なんですけど……あっ、この木の実おいしい」
「あ、それ毒木の実」
「なんてもの入れてるですか貴方は!? 殺す気ですか!?」
投げつけられた木の実を躱す。
高速で飛んで行った木の実は、そのままアータの背後の木でぶら下がっていた人魚に直撃し、うめき声が聞こえてきた。
「大丈夫だ。毒の入った木の実じゃなくて、毒木の、実」
「なんでそんな紛らわしい木があるんですか。ほかの木の実も食べて大丈夫なんですよね……?」
「ああ、ちゃんと食べれる木の実しかとってきてない」
「それならいいんですが……ってよくありません。ねぇちょっとアータ様? さすがにあれを放置しておくのは心苦しいというか……。同じ魔族として切なくなります」
「食事の最中に注文が多いな。仕方ない。さすがに俺も気になってたからな」
「お願いしますね、アータ様」
アンリエッタの懇願に、アータは渋々ながら立ち上がった。そうしてアンリエッタがずっと視線を外さずにいたその木の傍にまでもう一度やってくる。
「ねえ、ねぇ、ねぇ!? わらわをいい加減お助けなさいな! そろそろ頭に血が上って、くらくらですわ! 助けてくれたら、歌でもなんでも歌ってあげますわ!」
「…………」
木の根元にあった罠用のロープを再び手に取り、輪っかを作って木の葉で隠す。そうしてロープを木のできるだけ高い位置の枝にかけ、根元で仕掛けを組み立てる。餌の木の実を取ろうとしたら、隠されたロープで釣り上げられる仕掛けだ。
目の前の金髪人魚みたいに。
「よし」
ふぅっと額の汗を拭ったアータは、顔をあげ、いまだぶら下がったままの金髪人魚と目を合わせる。
「……」
「……」
そうして振り返ったアータは、アンリエッタに手を振りながら叫んだ。
「おーい、言われた通りちゃんと罠仕掛けなおしたぞ!」
「「ちがう、そこじゃない」」
アンリエッタと、背後にいる金髪人魚の突っ込みに、アータは深い溜息と共にこの面倒ごとに首を突っ込む覚悟を決めた――。
なお、仕方なく金髪人魚を吊るしているロープを切った瞬間、地面に落ちた金髪人魚がそのまま張りなおした罠で再び宙ずりになったのは別の話。