第一話 その名も……
「お帰りなさいませ、クラウス様」
豪勢な扉を開いてクラウスが赤いカーペットを踏みしめると同時に、漆黒のメイド服に身を包んだ一人の赤髪の女性が頭を下げた。背でピクリと動く小さな黒い羽を携えたその赤髪メイドは、帰宅した主人のボロボロになった鎧を見つめ、脇に控えさせた別のメイドに指示を飛ばす。
「うむ、アンリエッタ。しかして、サリーナはどこにいる?」
「お嬢様ならば、お部屋に引きこもってございます。何分、クラウス様が生誕祭を祝ってくれぬとへそを曲げておいでですので。実の娘より勇者のほうがお好きなのかとも」
数名のメイドがクラウスのボロボロになった羽織や鎧を取る傍で、アンリエッタと呼ばれた赤髪のメイドが顔を上げる。
漆黒の身軽なスーツに身を包み直したクラウスは、アンリエッタや傍に控えるメイド達を引き連れて、屋敷の中で歩みを進めた。
「ふむ、パパが帰ってきたのに部屋から出てこないとなると、よほど生誕祭を一緒に祝えなかったのがショッキングだったのだな」
「……いえ拗ねてはいますが、別にクラウス様のことをすごく待っているというわけではなさそうです」
「あぁあんりえった!? それは私ショッキングな発言なんだけどな!? そもそもあのにっくきアホ勇者が――あぁそうだアンリエッタ、四神将達に伝えておけ」
「はい、なんでしょう?」
屋敷の階段を上り、サリーナと書かれた部屋の扉の前に立ち止まったクラウスは、傍で控えるアンリエッタに視線だけを向けて答える。
「人間界との戦争は終わりだ。私とあのアホ勇者との戦いももう終わった」
「なっ……!?」
安堵とも歓喜ともとれる驚愕に揺れるアンリエッタを一瞥しながらも、クラウスは扉を開いて宣言する。
「さりーなちゃん、パパが帰ったよ! 生誕祭に間に合わなくてごめんねぇ、でもパパはサリーナちゃんのためにすごいものを――あれ?」
「ちょ、ちょっとクラウス様、まずはその勇者との戦いの結果について……!」
「アンリエッタ! それどころではない、サリーナちゃんが部屋にいないぞ!?」
「えっ!?」
クラウスと共にアンリエッタは部屋に入り、気づいた。いつもなら締め切った引きこもりの部屋としての役割を果たしている窓が開き、そこからシーツを結び付けた紐が伸びている。辺りには散らかしっぱなしの人形や着替えも脱ぎ捨てられている。
クラウスの言葉通り、この部屋にいるはずの主は――屋敷を飛び出していた。
◇◆◇◆
「んんん、んんんんっ!」
「うるさい、黙ってろ!」
屋敷から既に遠く離れた獣道を駆け抜けているのは、幼いドレス姿の少女を抱えた男達だった。
少女の両腕と両足は縄で縛られ、口元には喋れないようタオルで縛られている。白と黒の豪華なドレスに対して、少女は裸足であった。それは当然、屋敷から抜け出したが故の結果でもある。加えて、少女の白銀ともいえる美しい髪は乱暴な風に揺られて歪み、真っ赤な双眸は今にも泣きだしそうなほど弱弱しいものだ。
少女を抱えた男達の姿は、黒の魔法衣を着こなす線の細いものだった。深々とフードで顔を隠すその男たちは、フード越しにも尖って見える耳を隠しながらも獣道を駆け抜ける。
彼らの誰もは興奮したように笑いながらも、器用に魔法を使って木々を押しのけていく。遠目から見ても魔法の扱いは非常に上手い相手だ。
「おい、このこと上には伝えてあるか!?」
「当たり前だ! 何せ、魔王の娘を手に入れたんだぞ、こいつさえいれば俺たちの状況も変わるに決まってる!」
男たちは歓喜に震えるようにしながらも、生い茂っていた林を無事に抜け、そこにたどり着く。
目的は魔王の娘の誘拐。エルフ族の中でも魔法に長けた十名で魔王不在の間に娘を攫い、島の西端にある砂浜に用意した船と、三十名にも及ぶエルフ族の精鋭の援護の元で早々に島を離れる。魔王の娘さえ捕まえてしまえば、交渉ができると。
そうして男達――エルフ族の魔法使いたちは偶然にも魔王家を飛び出した娘を攫うことに成功し、無事に船のある島の西端にある砂浜についた。
だが、そこで男たちが目にしたのはありえない光景だった。
「ばか、な……!」
魔王の娘――サリーナを抱え上げていたエルフは、目の前に映るものを見て思わずその場にサリーナを落としてしまう。砂浜に転げたサリーナは、身動きが取れないままにも身体を捻り、エルフたちが見ているものと同じものを見た。
海が――凍っている。
文字通り、彼らが見渡す先の海は凍り付き、波の音など聞こえない。
砂浜に停泊していたはずのエルフたちの船に至っては、海から伸びている氷の波によって遥か空の真上まで延びており、見上げた先で真っ二つにされて凍っていた。
目の前に映る世界だけが、全く違う異世界にすら感じるほどに。
「な、なんだこれは……!? 一体どうなっている、皆はどうした!」
「あぁ、ようやく来たのか」
エルフの男たちが狼狽する声に、空から男の声が響いた。エルフの男たちはすぐさま聞こえてきた場所へと向かって各々が炎系魔法を放っていくが、どれだけの炎も吹き荒れる風が巻き上げ、掬い、消し飛ばしていく。
そして、そんな風が砂浜の砂を巻き上げながらも、声の主がようやくエルフたちの前に姿を現した。
蒼い透き通るような双眸。伸びた黒髪。白と黒のコントラストの強い執事服に身を包んだ、人間の男だった。武器は何一つ持たず、男は両手を上げて戦う意思がないことを示しながらも、謎めいた笑みを崩さずにエルフに応えた。
「何もしてこなけりゃ、こっちも何もしない。そういう契約で俺は今ここに居るんだ」
「貴様は誰だ!」
「誰って――」
エルフの一人が砂浜の砂に魔法をかけ、巨大な牛の顔を持った蛇を作り上げていく。その巨大さはゆうに人間の十数倍はあろうかというものだ。だが、執事服の男は特に気にした様子も見せず、エルフたちの傍で涙目で転がる少女に笑顔を向けた。
「確かに似てるな。魔王と同じ白銀の髪。小さな角。年頃も聞いているぐらいか。引きこもりだって聞いていたんだが」
「貴様は誰だと聞いているんだ! 猛牛の縄蛇ッ!」
執事服の男はのんびりと倒れこむ少女へと歩みを進める。これと同時に、エルフの男たちの作り上げた砂の蛇が大地を捲る勢いで執事服の男へと向かった。男はこれを一瞥しながらも無造作に片腕で宙を払う。
それこそ身に付きまとう虫を払うようなたったそれだけの所作は、迫ったはずの砂の大蛇を薙ぎ払い、塵へと変えていく。振り払われた砂塵はそのまま砂浜へと還っていき、エルフの男たちが吃驚に言葉を失う中、執事服の男はぱちんと指を弾いた。
瞬間、エルフの男たちの背後から巨大な波が立ち上がる。
「なっ!?」
エルフの男たちの数倍は在ろうかという波はそのまま彼らを巻き込み、凍り付いた海まで押し流していった。荒れ狂う大波はそれでもなお収まることはなく、凍り付いた海を削りながら沖までエルフたちを押し流す。
「んんんむ! んん!?」
「もう少し待ってろ。あのままじゃ周りが困るからな」
地面で転がってもがく少女の驚きの視線に、いつの間にか傍に立っていた執事服の男は不敵な笑みを返し、凍り付いた海を睨んだ。押し流された波の中からゆっくりと立ち上がるエルフたちと、凍り付いた空で固まったままの船を一瞥しながら、男は右手で剣指を描き、宙に魔法陣を描く。
「氷結の開幕」
放たれた魔法陣の輝きは一瞬にして世界を光で覆い、次の瞬間には凍り付いていた世界が元の海へと還った。凍り付いていたはずの海の上に押し流されていたエルフたちは足元を失って海に落ち、空高く凍り付いていた彼らの船もまた、海面に叩きつけられるようにして粉砕された。
男との接触からわずか数十秒という短い時間で、世界は二度も姿を変える。
その圧倒的な魔法と力を目の当たりにした、捕まっていた少女――魔王の娘、サリーナ・フォン・シュヴェルツェンは小さな恋慕にも似た感情で自分を救った執事服の男を見上げた。
「大丈夫だったか?」
そういって、口元を縛っていたタオルを外した執事服の男は、そのままサリーナの手足を縛っていた縄をほどき、彼女を開放する。興奮な面持ちでサリーナは、自分の傍で視線を合わせて朗らかに笑う執事服の男に尋ねた。
「お、お主の名前は……!」
サリーナの問いに、執事服の男は手を差し出して答える。
「魔王との契約で、今日からお嬢様の執事になる――アータ。アータ・クリス・クルーレ。人間界では……そうだな。勇者って呼ばれてた」
「ゆう……しゃ? 勇者執事?」
サリーナの言葉に、執事服の男――勇者アータは困ったように笑って頷いた。
「あぁ、これからよろしく、お嬢様」