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短編・中編

紫のリボン

作者: 春風悠里
掲載日:2026/06/04

「ねぇ、凪。紫のリボンって知ってる?」


 クラスメイトの赤坂翠が、前の席から後ろを振り返って話しかけてきた。名前のせいなのか分からないけれど緑色を好み、緑のクリップでサイドの髪を留めている。彼女から「紫」なんて言葉が出ようとは。


「可愛い紫のリボンでもあったの?」


 こう答えるしかないだろう。なにせ、意味が分からない。巷では「紫のリボン」という単語で通じる何か――、漫画なり小説なりでも流行っているのかもしれない。


「ふっふーん。その様子だと知らないな? 転校生だもんね」

「……何を?」


 翠のふくみのある表情がやや鼻につく。この町には何かがあるのだろうか。


「紫のリボンって言葉をハタチまで覚えていると、結婚できないのよ!」

「…………えーっと?」


 言葉を……覚えていると?

 そもそも、紫という単語もリボンという単語も誰だって知っている。中学生の私たちどころか、幼稚園児だって知っているだろう。


「あ、やっぱり知らなかった。この町以外では『紫の鏡』らしいもんね。でも、ここだと紫のリボンなのよ!」

「……全然何を言ってるのか分からないわ」

「だから、紫のリボンって言葉を覚えてると結婚できないんだってば。紫の鏡と同じ!」


 だからと言われても。紫の鏡とかいうのも、私は知らない。『紫』も『鏡』も『リボン』もどれもありふれていて意味が分からないと言いたいところだけど、なんとなく分かってきた。


「つまり『紫のリボンを覚えていると結婚できない』というフレーズを覚えていると結婚できないってことね。紫のリボンなんて、そこら中で売っているでしょう」

「んー、確かに。そのフレーズを覚えていると……かな」


 言い出したわりには適当すぎる。

 

「で、それがどうかしたの?」


 翠がふふんと鼻を鳴らした。


「せっかくなら解除法を私たちで生み出すのはどうかと思ったの! 人から生み出されたなら、解除だって世間に知れ渡ればきっと、ホンモノになるはず。そして、全国へと広げるのよ!」


 さも名案のように言っているけども、流行ってもいない呪いのようなものの解除法を生み出したところで、間違いなく全国には広まらない。


「そう。えーっと、解除法はもう考えてあるの?」


 きっと翠だって、全国に広められないことくらい分かっているはず。これはきっと、ただの雑談。退屈な毎日へのちょっとした刺激。今日が終われば忘れてしまう程度の話題だろう。


「拍手がいいと思うの!」

「拍手?」

「そう、紫のリボンを思い出してしまったとして」

「うん」

「すかさず『紫のリボン!』と唱えるの。そうしたら、どこかの誰かが隣で拍手してくれるのよ。それで解除! 思い出さなかったことになるってわけ」


 実際にそれで解除されるなら、二十歳になる瞬間に誰かに拍手してもらえばいいってことになる。今この時はどうでもいい。

 

 つまりは今日一日、翠が『紫のリボン』と言うたびに私に拍手をしろと。そんな日にしようと言いたいのだろう。ただの遊びの一環。ついでに二十歳になる時には一緒にいて互いに拍手をしようという他愛もない未来の約束なのかもしれない。


 前の中学校では、友達付き合いが上手くいかなかった。ここで間違えたらいけない。仕方ない、付き合うかと思った瞬間だった。


 ――パチパチパチ!


「これでいい? 赤坂さん」


 突然、翠の隣に座っていたクラスメイトの加藤くんが話しかけてきた。


「分かっているじゃない! そうよ、まずはここから。このクラスの中から始めるのよ!」


 この展開はなんだろう。


「紫のリボン!」


 私の真横に座っていた遠藤くんが叫んだ。


 ――パチパチパチ!


 私たちの話を聞いていたと思われる周辺のクラスメイトが拍手をした。


 え? なに?

 これ、私も乗らないといけないやつ?


「俺たちが解除法を生み出すのか!」

「そうよ! やってやりましょう!」

「熱くなってきた!」

「燃えるぜ!」

「私もあれ、たまに思い出して困ってたの! ほんとに解除できる気がしてきたわ!」

「そうよ! 病は気からって言うもの!」

「今から一斉にクラスグループと学年グループに送信しておくぜ!」

「今日から拍手が解除法だ!」


 どうやら、私が思っていた以上にその迷信は広まっていたらしい。……それよりも、このノリについていけないんだけど。


「ちょっと、みんな熱くなりすぎだって」


 苦笑いを浮かべながら、私は周囲をなだめるように手を振った。


「そもそも、知っている人自体多くない気がするけど」


 私の言葉に、教室の空気がぴたりと止まった。しまったと口をつぐむ。引きすぎて本音が出てしまった。


 熱狂していたはずのクラスメイトたちが、一斉に口を閉ざす。みんなが、まるで「信じられないもの」を見るような目で私を見つめていた。


「え……? な、なに」

 

 気まずさに身をすくめる私に、翠が、これまでに聞いたこともないような怯えを含んだ声で囁いた。

 

「……凪、冗談だよね? 紫の鏡の方は知ってるよね?」


 翠が目を見開いたまま、何かを振り払うように小さく両手を打ち合わせた。

 

 ――パチ。


 それを合図に、周囲のクラスメイトたちも、一斉に手を叩き始めた。

 

 パチ、パチ、パチ、パチ。

 

 ただの拍手じゃない。メトロノームのように正確で、感情のこもっていない奇妙に揃った音。


「ちょっとみんな、からかわないでよ」


 私は居心地が悪くなって、席を立った。

 そのまま逃げるように教室を飛び出す。


 廊下に出た。けれど、違和感は消えなかった。すれ違う他のクラスの生徒たちが、みんな、歩きながら小さく手を叩いているのだ。

 

 パチ、パチ、パチ。

 

 廊下を歩く数学の先生も、教科書を脇に抱えたまま、真顔で両手を打ち合わせている。


 なんなのこれ。

 みんな、精神的な病気なんじゃない?


 美術の先生と目が合った。


 いつも奇抜なファッションだと思っていた。白髪を紫に染めて、紫のスカーフを巻き、紫のワンピースと紫の靴下を履いて――。


 どうして……

 この先生だけ……、

 拍手をしていないの?


 おかしい。何かがおかしい。

 学校中の人間が叩く、無数の拍手の音。それが重なり合い、じわりじわりと鼓膜の奥に侵入してくる。


「紫に食われるのよ」


 いつの間にか私の背後に翠がいた。


「紫に食われるの」


 怖い。

 無表情で立っている翠が怖い。

 その後ろで、うつろな目をして立っている美術の先生も怖い。


「紫に侵食されるの。だから、結婚できないの」

 

 私の方へと、翠の手がのびる。

 まるで私の両手を掴もうとするように。


「いや……っ」


 後ずさると誰かにぶつかった。


 この学年主任の男の先生もセンスがおかしいと思っていた。酷く悪趣味な紫のスーツに身を固めている。どうして今まで、この異常さに気づかなかったのだろう。


「俺みたいになりたいのか」

「えっ……」

「ほら、拍手だ」

「ぁ、ぁ……」


 ――パチ。


 どこからかまた、拍手の音が。


「紫のリボン」


 口から、なぜかその言葉がこぼれ落ちた。


 ――パチパチパチパチパチパチ。


 鳴り止まない拍手の音。

 どこかに迷い込んでしまったような。

  

 オーケストラのように鳴り響く拍手に、だんだんとなぜ恐怖を感じていたのか思い出せなくなっていく。まるでこの光景が正しいことのような。


 じわじわと、世界の輪郭が溶けていく。信じていた世界の形が変わっていく。私の手が、私の意志とは関係なくゆっくりと持ち上がった。

 

 次の音を鳴らすために、両手が引き合わされていく。


 パチ。


 みんなが手を叩いている。

 私も手を叩く。

 心地いい拍手の波。


「紫のリボン」


 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ――……


 そのフレーズを忘れられる日は、こない気がした。 


〈完〉


 

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