2 空中の水槽のなかで妖婆が笑う
ランド、チビット、ゴーラ、ミシェル老人が踏みこんだ通路は、この岩山の地下にかつて居住していたドワーフが作ったものらしい。ランドが強制労働させられていた坑道は、ドワーフの掘ったトンネルを再利用したものだと聞いている。そのどこかの壁に突きあたったのだろう。
ツルハシで破壊した壁に沿って、地下通路が左右に伸びている。ランドにはどちらに向かったらいいか見当もつかなかった。迷宮のように入り組んだドワーフの通路をうかつに進めばすぐに迷うだろう。しかし、ここでまごついているわけにはいかない。明かりが灯っているのだから、現在も通行しているはずだ。監獄の兵士に見つかる危険があった。
ランドはブリーチズ(半ズボン)のポケットからテグスの糸巻を取りだした。
「チビット、このテグスを体に結んで、通路の先を偵察してくれないか」
「あたしはマーキングされた働き蜂じゃないわ」
ゴーラの頭上を、ぶんぶん飛ぶチビットに断わられた。
ランドはしかたなく、地下通路の、適当に選んだ右方向に歩きだした。道なりにしばらく進むと、丁字路にぶつかった。左側の道すじには松明の炎が連なり、反対側は闇にしずんでいる。
広大な迷路の全てに明かりをつけていたら不経済だ。なんらかの目的の場所に向かう道順に従って、火を灯しているに違いない。その行きつく先はわからないが、ランドは松明を道しるべに決めた。
いくつもの枝道をへて一行がたどりついたのは、半径およそ30メートルの自然の洞窟だった。薄茶色の岩の柱が何本も立ちならんだ高みに、〈光の珠〉が輝いている。ランドは柱のあいだを進んだ。この洞窟で行き止まりだった。
ランドは自分の選択の誤りに落胆した。なんの目的もありそうにない洞窟まで、どうして明かりが灯っていたのか理解できなかった。
「どんまい」チビットがランドの肩にとまった。「せっかくここまで来たんだから、ここでいったん休憩にすればいいじゃない」
ゴーラのかたわらで、ミシェル老人が背中をまるめ疲れきった表情をしている。ミシェルはもう70歳近いのだろう。
「そうだね」ランドはチビットに同意した。
休憩場所が袋小路の洞窟というのが気になるところだ。落盤のあとの行方不明者の捜索が始まっているかもしれない。採掘場は岩や土砂でうまっていて、壁をぶち破った抜け穴はすぐには見つからないだろう。万が一、監獄の兵士がこの洞窟にやって来たらやっかいだ。
ランドは洞窟内を調べてまわった。
入り口に近い岩壁と、そそり立つ岩の柱のあいだに、とがった石筍におおわれた空間を見つけた。通路側からは死角になっている。ランドはその場所で休憩しようと決めた。兵士が洞内に入ってきたら、チビットに〈不可視〉の魔法をかけてもらい、隠れ場所から通路に逃げればいい。
ランドの一行は、石筍の群れをふみこえて岩陰におさまった。地下では時間の感覚がつかめない。採掘作業が始まって3時間近くたっただろうか。いまは正午前くらいとランドは見当をつけた。
ミシェル老人がなにかに気づいたらしく、岩壁の下にかがみこんでいる。ランドは老人の肩ごしにのぞきこんだ。地盤のその部分は粘土層になっているようだ。ミシェルが手で粘土を掘りだしている。
「わしはかつて粘土細工をなりわいにしていた人形師なんだよ。それがもとで、バルゲート監獄に入れられた。20年近くも昔の話だよ」
ミシェル老人が拳大の粘土をこねて、なにかを作ろうとしている。
ランドはいい機会なので、ミシェルがどうして投獄されたのか聞いてみた。
「そのころはハイランド国王の先代、レオグラン6世の時代だった。人間が生きていくうえで芸術はなんの役にも立たないと国王は断じた。城下の都市にいる芸術家を追い出しにかかったんだ」
ミシェル老人は、芸術の素晴らしさを知ってもらおうと、レオグラン6世の胸像を作って国王に献上したのだという。
「われながら会心の作だったと思うよ。レオグラン6世そっくりにできた」
それを見た国王は、『予に手足がないみたいではないか。これではまるで斬首された首級だ』国王を討ちとったとなぞらえたかと激怒した。
「難くせをつけただけじゃないか」ランドはいきどおった。
「わしは反逆罪により、終身懲役の判決を受けた。それからずっと、このバルゲート監獄で採掘に従事しているんだよ。職業がら、粘土などの鉱物が好きで、それが服役中のなぐさめでもある」
たんたんと語るミシェル老人の表情にはあきらめの色が濃かった。
その間にも、老人の節くれだった細長い指のあいだで粘土が形作られていく。大雑把な人型から、ごつい手足が生え、四角い頭が生じる。半月を伏せた目、つぶれた鼻、大きな口がかたどられる。
ミシェルの10本の器用な指がものすごい速さで動いている。粘土に命が吹きこまれていくようだとランドは感嘆した。そうして造形されたのは――。
「おいらなんだな」ゴーラが歓声をあげた。
「きみにはいつもお世話になっている。これは、そのほんのお礼だよ」
4、5日ほど乾燥させ、窯で焼成すれば、立派な土人形になるという。
ランドは、そんな手間暇をかけている余裕はないのだとため息をついた。ゴーラは自分の人形を受けとって大よろこびだ。
「それまで大切にしまっておくんだな」ぱくりと空いた口で飲みこんでしまった。
「あっ。いくら腹が減ったからって、食べちゃったらダメじゃない」
ゴーラの頭上で、チビットがぶんぶん非難している。
ゴーラが複数の胃袋をもっているのをランドは知っている。その1つで飲食物の消化吸収を行ない、2つめはチビットの財布になっている。胃袋はもう1つあるらしく、人形はそこに保管したのだろう。
ランドも腹がすいてきたが、食べられそうな獲物はこの洞窟に生息しておらず、野草も菌類も生えていない。脱獄にそなえて、せめて体力を回復させようと岩の柱に寄りかかった。
30分ほど休憩をとり、出発することにした。ランドの隣では、ゴーラが居眠りをはじめていた。ランドはゴーラを起こそうとゆすぶったが、ごうごうとイビキが返ってくるだけだった。
そのとき、通路側のほうから複数の足音が聞こえてきた。
「誰か来る。岩陰に隠れているんだ」ランドは小声で指示した。
岩壁にもたれかかったゴーラは、岩石と見誤ってくれるのを願うばかりだ。
洞窟に姿をあらわしたのは、牢番らしき男と、2人の兵士を伴った、貴族のよそおいの中年男性と、おさない令嬢だった。
男は40年配で白いかつらをかぶり、派手なクラバットに二重あごをうずめている。金糸の刺繍のはいった暗赤色のコートに、ベストの腹が突き出ている。
令嬢は十代半ばくらいで、フリルをふんだんに施したピンクのドレス姿だ。レースの付け袖を長く垂らし、大きく開いた襟ぐりからのぞく胸はまだおさない。
2人とも王侯貴族のようないでたちだった。
「ミゼール公爵様、この牢獄にご案内したことは内密にお願いしますよ」
先頭で案内する牢番がおそれいっている。
ランドはハッとなった。ミゼール公爵といえば、レオグラン7世の妃の父親だ。すると、公爵と同伴しているのはレオニード妃だろうか。そんな王族がどうしてこんな場所に来ているんだ?
「相応の礼はする」ミゼール公爵がおうように応えた。「しかし、ごうごうとうるさいな。この洞窟の天井には風穴でも空いているのか」
公爵に指摘されて、ランドは緊張した。ゴーラはよりかかった岩壁に同化したまま、いびきをかいて眠り続けている。
ミゼール公爵の一行が、並んだ岩の柱のあいだを通りぬけ、洞窟の奥に向かう。突き当たりの岩壁には、高さ約3メートル、幅約2メートルの一枚岩が突き出ている。5人は岩の前で立ち止まった。
「なにもないではないか。こんなところに300年以上も監禁されている囚人がいるのか。わしはそやつとどうしても会わねばならんのだ」
「ここにはちょっとした仕かけがありましてね」
一枚岩のわきから、牢番が涙型の小岩を取り外した。その部分が空洞になっているらしい。ランドは岩陰から目をこらした。
牢番が岩のうろに手を入れた。ほどなく、歯車の噛みあう音がし、一枚岩と思っていた岩盤が重おもしい地響きをたて、垂直にゆっくり回転しだした。その岩戸は90度の角度で止まった。岩壁とのあいだに幅約60センチの隙間ができていた。岩戸の奥に隠し部屋があるらしい。
ミゼール公爵がレオニード妃に腕をかし、あらわになった洞穴に入っていこうとする。そのあとに従った牢番と、2人の兵士を公爵が止めた。
「囚人との面会に立ちあいは不要だ」それは断固としたもの言いだった。
ミゼール公爵とレオニード妃が岩戸の向こうに消えていった。
ランドの頭は疑問でいっぱいだった。ミゼール公爵が会わなければならない囚人とは何者なのか。その囚人が300年も監禁されているとはどういうことなのか。公爵との面会の様子をどうしても知りたい。
「チビット、〈音声移動〉だ」とランドはささやいた。
「オーケー」チビットの指向性のある魔法のマイクが岩戸の奥を探る。
〈音声移動〉がひろったのは、ミゼール公爵のかぼそいすすり泣きだった。
ゴーラのいびきがうるさくて、公爵の声が聞きとりづらい。しかし、魔法の音声をしぼらないと、岩戸の前の牢番と兵士に気づかれるおそれがある。
『ああ、母上。お許しください。わたしにはもはや我慢できないんです』
母上だって、とランドは驚いた。300年も生きている囚人というのはミゼール公爵の母親なのか。公爵はいったいなにに我慢できないんだ?
ランドの疑問に答える声はなかった。ミゼール公爵は、洞穴の外の牢番と兵士の耳をはばかったらしく、なにも聞こえなくなった。
「チビット、魔法の出力をもう少し上げられないか」
しかし、伝わってきたのは、なにかをささやきあう声だけだった。
「だめね。なかで小声で話しているみたい」
かといって、岩蔭から出ていくわけにもいかない。〈不可視〉の魔法を使ったところで、牢番と兵士に気づかれずに、岩戸の狭い隙間を抜けるのは難しいだろう。ランドがやきもきしているうちに、ミゼール公爵とレオニード妃が姿を見せた。囚人との会見は5分に満たなかった。
「ここで見聞きしたことを外にもらすんじゃないぞ。しゃべればこうだ」
ミゼール公爵が、自分の喉首の前で手のひらを水平に振った。牢番と2人の兵士が神妙な態度でうなずいている。
岩戸が大きな音をたてて閉まり、ミゼール公爵の一行が洞窟を立ち去った。
ランドは一枚岩の仕かけを試してみるつもりだ。それが作動するさい、ずいぶん大きな音がしていた。ミゼール公爵がじゅうぶん遠ざかるまで時間をおいた。
「腹がへったんだなあ。昼飯はまだなんだな」
眠りこけていたゴーラがようやく目を覚ました。
「ちょうどよかった。このテグスの先端を持っていてくれないか」
ランドはゴーラに、通路の出入り口近くの岩に同化してもらい、誰かがおとずれたらテグスを引いて合図を送るよう指示した。糸巻からテグスをくりだしながら、ランドは突き当たりの岩壁に向かった。
一枚岩の横の小岩を外すと、岩のうろにレバーが隠されていた。レバーを下げると、歯車の噛みあう音とともに、おもむろに岩戸が開きだした。その重厚な響きを聞きとがめられないかとランドの緊張は高まった。
巨大な一枚岩は、岩壁とのあいだに約60センチの隙間を空けて止まった。
ランド、チビット、ミシェル老人はそのなかに忍びいった。岩を切りだした短い通路の先にあったのは、間口約3メートル半、奥行き約5メートルの岩屋だった。
なかに踏みこんだとたん埃が舞いあがり、すえた臭いが鼻についた。机や椅子、本棚だったものらしき、朽ち果てた木材が転がっている。羊皮紙の書物は塵と区別がつかなくなっていた。何百年も使用されていないのは明らかだった。
なによりも目を引くのは、中空になんの支えもなく浮かんでいるガラス玉の水槽だ。直径1メートル強の水槽の内部はピンクの液体で満たされ、そのなかに見るも恐ろしいものがおさまっていた。
「どひゃあ、なにこれ?」チビットが声をあげた。
しなびた手足を抱えこんだそれは2歳児くらいの大きさだ。雪白の長い髪を伸ばし、土気色の肌にはしわが寄っている。白い布切れをまとったその奇怪な姿は、干からびて縮んだ老婆のようだ。
ランドは驚きの目をみはった。これはなにかの標本だろうか。ミゼール公爵が『母上』と呼んでいたのはこの老婆なのか。牢番は300年にわたって監禁されている囚人だと言っていた。
標本の水槽は、ランドのちょうど目の高さに浮かんでいた。ランドは水槽をつかんでゆすってみたが、その場所から少しも動かなかった。
そのとき、老婆の白い前髪の下で、その顔とくらべてやけに大きい目が開いた。老婆のぎょろ目がじっと見つめてくる。ランドはぎくりとした。
老婆が黒目をくるくる回しだした。これはいったい何のつもりだ? ランドはいぶかった。老婆がこんどは体をのばし、水槽の底であぐらをかいた。その格好のまま、たてに回転をはじめた。
ランドはますますわけがわからなくなった。この老婆はランドになにかを伝えようとしているのだろうか。
老婆の表情に苛立ちがあらわれている。両方の手のひらを水槽のガラス面にあてると、左右になでるような仕草をはじめた。
ランドは水槽ごしに老婆と手のひらを合せ、老婆と同じ方向に回してみた。すると、にわかに手ごたえを感じ、水槽が垂直に回転しだした。老婆が皺だらけの顔でにかっと笑い、うんうんとうなずいている。
ランドはさらに両腕に力をこめた。水槽が回りつづけ、一回転するごとに、その位置を下げていく。ねじ込まれているものを外しているみたいだ。
ふいに、なにかから抜けたように、ランドの手に水槽の重量がかかった。その拍子に、ガラス面をつるりと指がすべった。水槽が岩床で砕け、ピンクのしぶきがあがる。ランドはとっさに退いた。
老婆がびしょ濡れの白い衣のすそを垂らして立っていた。身長は80センチほどだろうか。だぶだぶの衣服は、老婆のしなびた体にまるで合っていない。濡れて顔にはりついた白髪のあいだから、大きな目がランドをうかがっている。
老婆が白衣のすそをひるがえして横に跳んだ。
「待てっ」つかまえようとしたランドのわきを、老婆が跳ねるようにすり抜ける。
岩戸に続く通路の前で、ミシェル老人と老婆がぶつかった。尻もちをついたミシェルの体をよじのぼり、老婆がなおも逃走をはかろうとする。
ランドはすぐさま取り押さえにかかった。老婆がその腕をかいくぐって跳び、ランドの頭を踏みこえ、こんどは岩屋の奥に逃げだした。
「どひゃあ」チビットの叫び声がした。老婆と激突しそうになったのだろう。
まるで本当に猿じゃないか。ランドは悪態をつきたくなる。
「ミシェルさん、岩戸に出る通路をかためてください」
指示をとばしながら、ランドは向きなおった。
ばしゃん! 水の飛び散る音がした。
岩屋の突き当たりには、幅約60センチ、奥行き約40センチの花崗岩の浴槽があった。岩壁の隙間から沁みだした水が、浴槽のなかでピンクに変色してあふれだし、岩場の割れ目に流れおちている。
老婆は、そのピンクの液体をたたえた浴槽につかっていた。雪白の頭部と、しなびた腕をふちにかけ、いかにもくつろいだ様子だ。異様に大きな老婆の目が面白そうにランドを見すえている。
しわの寄った唇を左右に引きのばした妖婆が、けけけ、と笑った。
続