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例えるなら、春の陽射しのように心を穏やかにさせる。
川のせせらぎのような優しさが、それにはあった。
語らずともその流れ込む物に、女は一瞬で彼の感情のすべてを理解し、共有する。
溢れてくる感情は女の手には負えなかった。手に余る感情の渦に女はたまらず、死体の腕を振り切った。
おそるおそる女が両目を開く、そこには。
「…おらん」
あの状態のひどい死体の姿はおろか、自分にまとわりついていたい死者の霊魂すらもない。
あるのは今も累々に横たわっている屍の山と、見慣れた殺風景な荒地。
ガドラナの荒んだ光景は依然としてなんら変わらない。
にも関わらず、この胸につかえる思いは何なのか。
残ったのは今も胸を穏やかにさせている温かい感情と、耳をついて離れないリーシャという聞き覚えのない名前。
伝えてくれ、と涙ながらにあの霊―――アースタの名誉ある兵士が訴えてきた、言伝だけであったのだ。
「…ちっ」
悔しそうに舌うちする女の行く先は、けれども決まった。
非常に不愉快極まりないが、約束は一方的に交わされてしまった。
彼女が見やる先はアースタビンカ。
遥か北にある、小国だ。
Ⅳ
ガラドナの荒地から、そう離れていない森林である。
二つの足跡と血の跡が延々と軌跡を描いていた。
「あんた、大丈夫かよ」
そう言ったのは戦にでていたであろうアースタ兵であった。
まだ十四にも満たない少年である。甲冑を脱いだ姿は軽装だが、ガラドナ特有の気温の高さは暑さを和らげることはない。頬を伝う汗を強引に拭い、少年は大木に身体をもたれさせた兵士に向き直った。
傍目から見ても具合の悪そうな兵士の様子に、少年の心配は募る一方だ。大丈夫か、と少年は執拗に声をかけるが肝心の兵士からはろくな返事が返ってこないのが現状であった。
少年はそれも仕方がないと密かに嘆息をついた。兵士の身につける鎧はアースタの兵士のものではなかった。アースタが戦っていた、オーディ側のものであったのだ。
だが敵兵であるという事実に少年はさして頓着した様子を伺わせない。
逆に甲斐甲斐しく看病しようとする姿は疑いようがなく、先の戦争が嘘のようにさえ思えた。
しかし、オーディの人間の負った怪我や、少年自体の負っている怪我が幾ら現実から目を背けようとしてもそれをさせてはくれなかった。
認めざるを得ない。
本当に戦争があったのだ、ということに。
「馬鹿だよ、あんた。俺…敵兵なのにさ、助けたりなんかしちゃって」
「誰だよ。死にたくないって泣きべそかいてた奴は」
「う、うるさいな!」
「気軽に触るなよ」
「だって触らなきゃ手当てだってできないじゃないか!」
「手当てなんて必要ない」
少年は口を尖らせ反論を試みる。オーディの兵士はまともに取り合ってさえくれなかったのだが。
少年の視線の先には、オーディの人間の体中からのぞく痛々しいほどの切り傷だ。出血の量は尋常ではなく、血が流れすぎたのか顔色も芳しくないようだ。
少年は知っていた。この怪我の中の幾つかは本来なら、負わなくてよかったものであることを。
怪我を負わせてしまった原因は自分にある。
自分の無力さがこれほど歯がゆかったことはない。少年は先刻の出来事に思いを馳せながら、唇を痛い程に噛み締めた。
戦場は地獄だった。
死がこれほど近いものであることを、少年は齢十五にして初めて知った。
周りの人間は、呆気ないほどに次々死んでいく。
この道中で仲がよくなった同僚の兵士。兵士として志願した自分達を厳しく指導してくれた教官。
自ら志願したとはいえ、やはり戦争に不慣れな身としては恐ろしくてたまらなかった。情けないながらも、腰のぬけた少年はただ地面にへばりついて傍観することしかできなかった。
気づけば火の手さえあがっていて、双方の国で混乱が生じていた。煙のせいで霞む視界に、周囲の仲間の姿さえ確認できなくなった。もはや孤独との戦いでもあった。
全てが恐ろしかった。
周囲から阿鼻叫喚が聞こえる。
耳をもつんざく悲鳴に、一体この煙の中で何が行われているのかなど、想像するのは容易だ。
立つことも、逃げることもできず、悲鳴から逃れようと耳を覆うことしか少年にはできなかった。
だが蹲っていれば見つかることは必然だ。
案の定と言うべきか。少年は容易くオーディの兵に見つかった。
オーディの兵士が、黒々とした血を纏いながら、浮かべた凄烈な笑顔を今でも忘れることができない。 視界にこびりついたのは、爬虫類のような青白い顔に、口元がいやに歪んだ不気味な微笑だ。
少年はただ瞼をきつく閉じ、神に祈ることしかできなかった。
だが現実とはなんとも過酷なものだ。
助けてくれる者など、今この場でいるわけがない。
少年も幼いながらに分かっていた。
そうでなければこんな戦争など起きてはいないのだから。
なによりも、足元に倒れ臥せっている仲間の兵士も助かっているはずなのだから。
どす黒く淀んだ液体。血に塗れた地面が悲鳴を上げている。猛る業火に逃げ惑う人々。
これが―現実だ。
「死ね!」
狂喜の声と共に振り下ろされた剣の切っ先をかろうじで見切ると、少年は地べたに転がった。萎えた膝を叱咤して立ち上がるものの、腰がひけているところから話にはならなかった。精一杯の抵抗として腰に帯びていた剣を構えるが、少年の不慣れな様子は、更に兵士の嘲笑をあおるだけとなった。
兵士は自分の勝利を確信している。
見切ったことがまぐれであったことを知られているし、なによりも少年自身が自覚していた。なにもかもがまぐれで、それこそ自分が今生きていることさえも。
次はもはやよける自信さえない。剣で勝てる自信さえなかった。
だが、なりふり構ってなどいられない。
少年には家族がいた。病気の母がいた。弟がいた。死んだ父に代わるようにと必死で今日この日までを家族を養うために生きてきた。
帰ってきて、と泣いた弟の姿が記憶にはまだ真新しい。
死ぬんじゃないよ、と自分の身体よりも少年の身を案じ、アースタの神に百晩寝る間も惜しみ祈りを捧げ続けてくれた病気の母。
自分が死んだら、誰が彼らを養うことができるのだ。なによりも帰りを待ってくれる者が少年にはいた。
(死ぬわけにはいかない…!)
諦めきれず、剣を兵士に向かって投げ打ち、矢継ぎ早に敵兵に背中を見せて走り出す。
一気に駆け抜けようとしたが、腰のひけた少年には普段は難なくこなす走るという行為さえ難しかった。
累々に並ぶ死体に足をすくわれる。
まさか、というところで少年は障害をよけきれなかった。
逃げることさえ叶わない。少年は無常にもそのまま地面に倒れこんでしまった。
まさにそれは死の宣告だ。
背後にはもうオーディ兵の気配があった。明らかな殺気の気配に肌が粟立つ。
あれだけ鼓膜を震わせていた周囲の雑音が、このときばかりは途絶えた。
代わりに耳についたのはオーディの兵が剣を構えた音。
そして、少年はまるでスローモーションのようにそれを、見た。
自分に向かい、オーディの兵士が鋭利な刃を振りかざす場面。
狂喜に染まった兵士の柔和な微笑が間近に迫り―――駆け巡る走馬灯。
帰ってきて、と言っていた。
死なないで、とも。母。弟。愛しい家族のものが帰りを待っている。自分の。
それは、無意識の状況下である。
喉から迸る生への執着。
『…死にたく、ねえよ!』
少年の力の限りの叫びに応える声が―
ひとつ。
『ならば戦え!』
気のせいか、とまず思った。
幻聴かと思い耳を澄ますその先から、もうひとつ別の音が少年の鼓膜を震わした。
無機質な金属音がぶつかりあう、音だ。