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「…っ!」

 振り向く先には、腐乱した死体があるばかりだ。

 その中でも最も状態のひどい死体が、女の視線をひいた。

 岩陰の傍にある。

 この暑い気候のせいか、腐敗が他の死体よりも早く、蝿がたかってしまっていた。

 岩近くのためか、鳶の被害にはあってないのが救いだと言えるが元々の状態が悪いと伺える。

 頭部が、ないのだ。

 いや。それは潰されたという表現が正しいのだろう。死体の地面一体が濁った赤褐色の色に変色している。火傷の被害こそはないが、死体の損壊のひどさに女は一瞬言葉を失った。

 傍によってはみるが、もはや彼の顔を判別するのは不可能だ。

「ひどいな…」

 正直な感想を述べる。

 頭部のない死体から言葉にならない嘆きを見た気がした。

 ひとりごちる女の台詞に、応える声音があった。

『ひどい有様だろう?』

 応じる声音は、先刻彼女を呼び止めた声である。

 そして女の注意をひいた、死体の魂でもあった。

「…私に何の用じゃ」

『…いきなり呼びつけてしまい…すまない。貴方にしか…どうやら俺の声が聴こえないようだったから』

「………」

 脳裏に訥々と語りかけてくる死者の声音は、悔しさと悲しさで満ちているが、比較的落ち着いている。女は敷いていた警戒を緩和させた。

 理性のある霊と見受けたからだ。

 ようやく理性ある霊に出会えたことへの安堵が先に立ったのか。

 女は瞬間的に忘れていた。

 いかなる状況においても油断は禁物だということに。





 

 それはあまりにも、突然の事だった。

 女の脳裏によぎるひとつの映像があった。

 予想だにしていないことに戸惑いは隠せない。混乱する胸中を必死に宥めるが無駄である。

 抗おうとしても圧倒的な力の働きに、彼女は白濁とした意識の中で映し出された映像と対峙するしかなかった。





 踊り狂う炎。



 劫火に焼かれ、悶え苦しむ人々。



 耳をつんざく阿鼻叫喚。



 そして黄金の鎧が煙幕に消える。




 恐怖、戦慄、狂喜、哀惜。あらゆる感情の奔流が襲う。女の脳裏にうずまく混沌の渦。



 けれどその恐ろしいほどに噴流する感情の中で、優しい色をしているものがあったのを女は見逃さなかった。





『帰ってきて』



 と、涙するまだ歳若い女性の姿。

 これは誰の感情なのか。その歳若い女性に対する誰かの、愛しさに満ち溢れた感情が胸に流れ込んでくる。

『あんた…気をつけて。気をつけてね』

 そう言って慈しむようにさすられたお腹は、大きい。

 儚い笑顔が、顔を見えない男の手を握っている。

『このお腹の子のためにも。生きて帰ってきて』



 帰ってきて。

 

 笑顔。

 寂しそうな笑顔が印象的であった。

 それでも心配をかけまいという心遣いなのか。女は必死に儚げな肩を張りつめ笑っていた。握られた手が離れていく。いつまでも手を振っている女が小さくなり薄れていく。遠のく景色に何故だかひどい哀愁を覚えたのは、なぜか。



『ああ、リーシャ。まだ名前も考えてやれてないからな』


 この台詞が、最後。

 映像が―途切れた。








「やめろ!」


 耐え切れずに叫ぶ女の声音は、咆哮に近い。悲痛な響きを帯びている。

 乱れた呼吸を整える女の両目からは、とめどなく溢れる涙があった。

 感情を共有していたということもある。

 だが流れる涙は、それだけではない。流れる映像が何を意味しているか分かるからこそ女は涙を堪えることができなかったのだ。

 頬丈を伝う雫に目元を手で押さえる女が、死体に向かい剣を向けたのはすぐのこと。

 鞘から抜かれた剣の白刃が、危うく、それでいて煌々とした光を放っている。

「貴様なんのつもりじゃ!」

 その台詞は、先刻女が目にした映像のことである。女は瞬時に理解していた。

 これらの映像がすべて、霊によってもたらされたことであることに。

 そしてその映像が、生前の霊の記憶だということに。


「今度こんなことをしてみろ!ただではすまさぬぞ!」


 怒りに狂う女の肩は、小刻みに震えている。

 今にも剣をふるいそうな勢いに、反して抑揚のない声音が無機質に響く。

『あなた…に…見せたのが……俺の知っているすべてだ』

「!!」

『頼みがあ…る…』

 女がよぎる。後姿。そうしてこちらを振り向く姿はあの歳若い、女。

 儚い笑顔で待っていると。無事に帰ってきてねと。頑是無く言っていた彼女の姿を思い出す。

 この死者の策略とはわかっているが、憐憫の情を覚えずにはいられなかった。

『もう…帰ってやれそうにない…から…』

「お主…」

『ずっと俺…を…待ってて、しまう…から』

「……」

『頼むから、これを…彼女に…』

 答えに窮する。

 逡巡し顔を俯けたようとした途端だ。

 死体の腕が上がったのを、女は見逃さなかった。

 反射的に身を退けようとしたが、死体の方が女よりも格差で俊敏だったようだ。

 真意を問う間もない。死体によって右腕を力強く掴まれた。

 痛いくらいに掴まれた腕は、どんなに力を入れてもふりほどくことは困難であった。

「貴様!」

 離せ、と女が声を張り上げようとしたのとそれは、同時だ。

『頼む…』

 圧倒的な支配の響きは強烈である。

 有無言わさない死者の台詞とともに光は突然、溢れ出た。

 不意の閃光に女は瞼をきつく閉じるしかない。

 空白が支配する一瞬、女の脳裏に流れこんだものは先ほどの凄惨なものではなかった。










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