第一章
Ⅰ
泣いている。
人々が、むせび泣いている。
燃えている…あれは。
王都。
「…行きなさい。あなたは…まだ……ここで死んでは…だめ…」
「しかし…、しかし…っ…母上!」
血だ。それも溢れんばかりの血の洪水。
母なるその人はその身に刃を受け、床に倒れ伏せていた。大理石の床が真紅に染まる。
なんなのだ、これは。
恐怖ばかりが少年を襲った。
「殿下…!殿下!もうここは駄目です…おはやく…!」
暗に、逃げなければ、と促す従者の腕を少年は力なくふりほどいた。
何故逃げることができるのか!
母を置いて。民を置いて。それなのに、何故!
叫びたい衝動に駈られるがそれも無駄だった。少年の喉は部屋をも覆う煙によって大分やられてしまっていた。
かろうじで発した少年の声音はあまりにもか細くかすれている。それでも少年は言わずにはいられなかった。
「嫌だ…嫌だ…!だって…これは…俺の、俺のせいだと…いうのに!何で…何で…」
「違う!」
「…!」
「殿下のせいではないです!…殿下のせいなわけじゃない!」
ああ、
燃えている。
王都も民も、自分の親類、臣下―母までもが。
放たれた劫火が揺らめく。辺りを炎の海にしながらなおも勢いは衰えることはない。止まることを知らない炎はまさに今、少年のいる部屋をも浸蝕しようとしていた。
何故こんなことに。
必死に答えを探すが辿りつくのは全て無意味な自答ばかりだ。本当の答えを知るものなどここには誰一人としていない。ただ分かるのは、全てが、自分のせいかもしれないということだけだ。
「…仮に!仮に…もし…これが殿下のせいだと…して……!」
「…っ」
「今ここで貴方が死んでしまっ…たら…!」
そう言って捕まれた腕は痛い。自分諭す従者の台詞が少年の胸を穿った。
「殿下の母上の死を…無駄にするおつもりですか?陛下が何故…自国の命運を傾けてしまったのかも分かるいま…!」
「…エイジ…ッ」
「皆が…命を賭けている。皆が護りたいものを護るため…」
もしも今貴方が死んだら、その想いを足蹴にしているも同然だ。それこそこの上ない裏切りになる。
自分と幾等も年の変わらない従者からの叱責に、少年は渋りながらも頷かざるを得なくなった。
「殿下…いえ、ヒナギク様。行きましょう!」
差し出された手をおもむろに、けれど少年は力強く握りかえした。
躍る猛火の、緋焔が熱い。
断末魔が奏でる音色が、耳に痛い。
今や城内では、一方的な殺戮の宴が催されている。
人々を殺害することで悦楽を覚えた、男達の狂喜が耳に障る。
長い廊下を駆けながら視界に飛込むのは、累々に横たわる死体の山。
臣下を、民を、置いて逃げることが裏切りだと知っている。
それでも少年が従者の手を取ったのは。
『…行きなさい。あなたは…まだ……ここで死んでは…だめ…』
『皆が…命を賭けている。皆が護りたいものを護るため…』
脳裏をよぎる鮮明なまでの台詞。
自分に死ぬな、と訴える真摯帯びた眼差しはまだ記憶に真新らしい。
自分を護るために犠牲になった命がある。
自分ごときを護るがために身をていしてくれた人がいる。
だからこそ、少年は逃げる道を選んだ。
例えそれが裏切りになろうと生き延びることを。
「覚悟…」
―――覚悟だ。
大罪にも値する、業を、罪を生涯に渡って背負う覚悟。
大きすぎる罪を、己の命に換えても贖う覚悟。
自問する。その覚悟はあるのか、と。民を置いてまでそれだけの覚悟があるのか、と。
答えは決まっている。
「覚悟を…決めた…!」
少年の深い群青の双眸に、光が灯ったのは、確か。
* * *
アースタビンカの元号にしてアスタ歴九九八年―――。
ハルバリアの武力侵攻により王都は難無く陥落した。
皇軍の留守を狙った侵略はアースタにとって予想だにしていない結果となった。
皇后及び臣下は惨殺。国民の半数すらもの死傷者をだし、アースタはいともやすく崩壊してしまったのだ。
これを後に【変革の境】と歴史に刻まれることになる。
列国の中でも名を馳せていたアースタは、その瞬間人々の記憶から姿を消した。
こうしてアースタ=ヒーベルト陛下の生存が確認できない今、事実上、王族の血を受け継ぐものは唯一ヒナギクだけとなってしまったのである。