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それら全てが仕組まれていたのだ、と知った頃にはもうすでに数万人にも及んでいたアースタの大軍は壊滅状態となっていた。
かなりの痛手を被りながらのアースタ軍は、いまもガラドナの荒地で戦闘を行っているのだろう。
だがなによりも痛手なのは、別の所にあった。
オーディ国の揺さぶりかどうかは知らないが、あるひとつの噂がアースタの軍内に流れたのだ。
それこそが、いま男が焦燥する原因でもある。
アースタの王都に、いまガラドナにいる軍ではない、別のオーディの軍が差し向けられたという根も葉もない噂だ。
しかし軍に走った動揺は大きく、それを機にアースタ軍の統率は見るからに弱まった。
状況が状況なだけに、ただの揺さぶりとは到底思えなかった。
なによりもオーディとの戦争は今回異常なことばかりであったのだ。王はさして気にした風でもなかったが、何か思う所があったらしいエトワールにより、男は王都への伝達を任じられた。
―――一刻も早く伝えなければ!
自分も致命的な怪我を負いながら、男はその言伝のためだけにエトワールの命の元、アースタに馳せ参じてきたのだ。
本音を言えば、自分もあの戦場で同胞達とともに殉じたかった。
敵に背中を見せるという、戦士にあるまじき行為に抵抗さえ覚えたほどだったのだが。
脳裏によぎる不意なる声音によって、男は王都への伝達の役目を担うことに決めたのだ。
『…死なないで』
この、声音。
皇子という身分でありながら、一介の軍人ふぜいに心を砕き、自分達の安否を気遣ってくれた心優しい少年の声音だ。
死なないで、と彼は言う。死ぬことこそに意義がある軍人の男に、だ。それを当たり前としていた手前、ヒナギクの台詞に男はいつも戸惑わされた。
けれどそれが嫌というわけではない。
むしろ心地がいいのだ。
そう。
男にとってヒナギクの存在は陽だまりのような穏やかさがあり、温かさがある。
だがらこそ男はヒナギクをなによりもいとおしく思うのかもしれない。
―速くお会いしたい。
会って事の次第を伝えて、そして―安心させてあげたい。
本当に彼が無事であるという確証がいまはとにかく欲しかった。
王都は、近い。
肉眼からも城壁がおぼろげであるが確認できるほどの距離にまでようやく来ることができた。王都までの距離は後何時間もすれば着くであろう。
もはやオーディが侵攻してくるのも時間の問題である。隠し切れない不安が男の顔に仄めかされている。
遠めからも伺える王都の城壁を見やりながら、男がもう一息の距離を駆け抜けようとした、瞬間だ。
「……これ…は」
男は、見た。
否、それは見てしまったと形容するべきなのかもしれない。
王都へと近づくにつれて濃厚になっていく死の気配を。鼻がもげそうになるほどの臭気を。
なによりも累々たる死体の列が、道に連ねて横たわっているのを男は見た。川の淵に何体かの死体が打ち上げられている。その凄惨な死体の状態を男は驚愕の思いで目にしてしまった。
まさか。
突如浮上する憶測を、男はかぶりをふって打ち消した。真っ先に浮かんできた可能性を頭から否定しながらも皮肉なことに、思考の片隅ではそれが引っかかってしまっている。
男の心臓が早鐘のように鳴り響きだした。
この感覚を男は知っていた。何度も。それこそ数え切れないほど戦場という生死のやりとりの場で味わったではないか。
これは―本能が告げる警鐘である。
「そんなこと…あるわけが…っ」
不安の拭えない男は弾かれたように馬の手綱をひき、いましがた駆けていた道を引き返させた。
馬も急な指示に戸惑いを見せたが、従順そのものであった。男の手綱どおりに踵を返すと、嘶きながら馬蹄で地面を力強く蹴り上げた。
まさか、まさか、まさかー!
反駁する意識をひきずりながら、王都全体が見渡せるという高台へと男はその足を向けた。
思惟する中で、やはり男の脳裏を占めるのはただひとりの姿である。
金髪のさながら美姫のような容貌に、不釣合いなまでに真っ直ぐな無垢なる瞳。
護らなければと庇護欲を掻きたてる儚げな姿とは裏腹、その実にある彼の意思の強さを男は知っていた。
『デューイ』
「―殿下!」
高台へと到着した男は馬上から身軽に飛び降りると、祈るような気持ちで高台に立てかけられた梯子を登り始めた。
胸をつかえる嫌な予感は払拭されない。
肌が粟立つ。
頬丈を伝う汗を手の甲で拭う。
不吉な感覚に苛まれながら登りきった男の眼前には、絶望的な光景が一面に広がっていた。
男の予感は、当たっていたのだ。
「あ………」
一体、この惨状はなんなのか。
一体、この、有様は。
―――侵攻、と突然に男の脳裏にその単語が鎌首をもたげた。
男の視界に広がるのは、誰が信じられるというのだろうか。
あれほど栄華を誇っていたはずの王都の変わり果てた姿だ。
くすぶる黒煙が空高く立ち昇り、王城は遠目から見ても判然するほどに見る影を失くしている。
黒煙が王都全体を覆いこんでいるかのような錯覚にさえ陥るほどだ。煙の上がった王都。焼け跡のような王都に、火の手があげられたのだと予想する。
そこに、男の知るアースタの面影はなかった。
「殿…下…」
最後に交わした会話を、いまでも鮮明に覚えている。
最後に目にした、ヒナギクの微笑さえをも鮮明に。
死なないで、と。不安を見せまいと気を張り、必死に自分に笑いかけようとしたヒナギクの姿を。髪一筋から、声音から、指先までなにもかもを。
こんなにも覚えているというのに。
『俺は絶対に死にません。俺は貴方を…』
あのヒナギクとの最後の別れ際の台詞が、唐突に蘇る。
最後まで言うことの叶わなかった言葉がいまとなっては呪わしいばかりであった。
護る、と決めていたではないか。
何があっても、命賭けても、絶対に。自分はあの少年だけは命を代価にしてでも護ろうと誓っていたというのにも。
それなのにも、これは、なんなのだ。一体、これは―!
崩れるように、男は両膝を床についた。
たまらずかぶりを振るも、悪夢は覚めてはくれない。
あてもなくさまよわせる視線は一体、どこへ。
探すことのかなわない愛しい姿に、男は深い絶望を知る。
「うああぁああああぁああっ………!」
王都崩壊を目の当たりにした男の絶叫は、あまりにも悲痛な響きを帯びていた。
アースタビンカ崩壊。
アスタ暦にして、九九八年。
これを人は後に【変革の境】と呼ぶ。
世界をも巻き込む運命の、始まりの賽は投げられた。
―――戦が、始まる。
ー第一章 完ー