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「エトワール殿!」
「間一髪というところだろうな。随分と手こずっているではないか!シルバ」
歳の頃はもう六十を越えているであろう年嵩の男だ。
口に立派な白い髭を蓄えたいでたちに、豪胆な笑い方、恰幅のいい体型は六十を迎えた初老には見えない。
だが伊達に六十余年を生きていることだけはあり、その様とくれば堂々たる貫禄が備わっていた。
「…予想外に敵兵の数が多くて…正直…油断していた」
「全くだな。まさかここまでオーディが軍備を拡張していたとは思わなかった。オーディもやるようになったものだ!」
「敵兵を褒めないでください」
会話を交わしながらもシルバ同様、名隊長として名高いエトワールも軽やかな剣さばきだ。否、エトワールが片手で扱っているものは、見目珍しい。刃が異様に長い剣―長呉とよばれる武器であった。珍妙な見掛けとは裏腹に、その長呉の実用性は抜群だ。
エトワールは器用に長呉を振りかざし、次々と敵兵を打ち倒している。
首の飛ぶ者。身体を矛で突き通された者。目を抉られ、肉を断ち切られ、無惨な肢体に成り果てた者。
戦場ならではの阿鼻叫喚たる惨状が、兵士達の前に繰り広げられていた。
死体ばかりではない。
敵軍―オーディの軍が仕掛けてくれた罠のおかげで、戦場となった荒地は一面に火の海が広がっていた。
オーディの軍はあらかじめ、戦場となるそのガラドナの荒地に幾らかの罠を仕掛けておいたのだ。現今、アースタの行く手を阻む猛火がそのひとつに挙げられる。
おそらくオーディは地面に大量の油らしきものを撒いておいたのだろう。結果として油をこのうえなく含んだ地面は激しい勢いで炎をあげているわけだ。
「…にしても視界は最悪だな」
視界は炎が上がる煙の膜が幾重にも重なり、シルバの言うとおり最悪な状況であった。
苛烈に勢いを増す炎。もはやおぼろげでしか見ることのできない環境の劣悪さに、シルバは眉をしかめた。
「同感だな。…まあその点で言えば、敵も我らと変わりなしということだな」
「それはそうですね…」
盲点を指摘され、シルバは肩をすくめた。
エトワールの台詞は最もである。敵勢も、自分達と同じ場所で剣を交えているのだから環境条件はこちらとあまり大差ないだろうが。
「…ですがおかしいとは思いませんか?なんで奴らはわざわざ自分たちにも被害をこうむるような罠仕掛けてきたのだろうか」
「………私が知るはずないだろう」
シルバの疑問を一蹴し、エトワールは敵兵へと剣を突き立てる。致命傷ともなる傷を受けた男はかすかな呻き声をたて地面へと崩れた。
シルバもエトワールに倣って自分に向けられた撃兵の矛を受け流す。矛は柄が長い分なにかと隙ができやすい。
攻撃をかわした際に生じる隙を彼は見逃さない。
隙に便乗しシルバは敵兵へと斬りかかった。命を落とした敵兵がその場に崩れ去る。
「それにしても…エトワール殿」
「なんだ?」
シルバの呼びかけにエトワールは応じた。
もはや視界は敵兵の起こす煙と霧によって敵味方の区別が難しくなってきている。
敵味方が入り乱れる戦場では致命的だ。間違っても、味方勢力に斬りかかることがないよう周囲に注意を配りながら、シルバは語を続けた。
「デューイ隊長のことですが」
「ああ、デューイがどうかしたか?」
「デューイ隊長は大丈夫でしょうか…? 後先を省みない人だ。無事に王都へたどりつければよいのだが……」
デューイという男はこの戦争の火蓋が切って落とされて間もなく、王都への連絡を命じられていた。
これはすべてエトワールの一存によってだ。
そのデューイがガラドナを発って幾日が経っている。王都までも道のりは長くどんなに馬を酷使したとしても十日以上はかかると予想される。
王都にたどりつく途中で疲労や、もしかしたら性質の悪い輩の刃に倒れることだってあるのだ。
シルバの声音からは危惧の響きがあった。
デューイは国内屈指の雄将とさえ呼ばれた男だ。腕の強さは誰もが知らずもがなである。心配は不要かとも思われる。
それでもこうもデューイの身を案じてくれる者がいるのは、ひとえに彼の人徳あってこそだろう。
シルバの心配をよそに、エトワールは意外にも淡白した答えを放った。
「それも…知らん」
「…期待通りの答えだ」
「だがな、シルバ」
だが、と言葉を切るエトワールの声音はどこまでも力強い。
毅然と。その先にある現実を見据えるかのごとく、彼はあまりにもしたたかだ。
「信じきってみせようではないか」
「………!」
雄将と呼ばれるデューイが無事に王都へ辿り着ける、と。
なによりも、ほかならぬ自分達が信じなければ。
信じきる他に道はないのだから。
「身を案じることだけしかできないわけではない。信じきるためにも我らはここでオーディ共を足止めしないとな」
もしも、ここでオーディにアースタへの侵攻を許してしまったりなどすれば。
王都に無事に辿り着けたであろうデューイにも、また自分達に一縷の望みを賭けた国に―民にさえ顔向けできなくなってしまうのだから。
例え、それがもはや数千人という自軍の軍勢、数万人規模にも及ぶ敵兵の勢力という絶望的な数字になっていたとしても。
例え、勝つことが叶わないと分かりきっていても。
負けることだけは、決してできるわけがないのだから。
「さすが…エトワール殿だ。言うことが違う。…でも、同感です。俺も信じきってみせますよ。ここでオーディを食い止める……王都にいる妻と…」
「産まれてくる我が子のためにも、か」
「知ってたんですか」
「ああ。リーシャ殿から訊いた。ぜひ産まれたら私も会いたいものだ。会わせてくれよ………シルバ」
「はい」
「持ちこたえるしか、あるまいな」
「…そのようですね」
エトワールの台詞に深く頷くと、シルバは剣の柄を握り直して、視線をひた、と前方へと据えた。
その先には何十もの敵兵の姿だ。シルバ達は敵兵に囲まれていたがその瞳には絶望の影は見えない。
―――信じきってみようではないか。
シルバは再度、胸中だけで呟く。
信じなければ、何も始まらない。信じることしかできないなら、案じ、そして信じようではないか。
「信じてますよ……デューイ隊長」
だから、どうか、ご無事で。
規則正しく響く馬蹄の音が、あった。
広い荒地を駆け抜ける黒馬の姿がある。馬上には黒衣の男がいる。濡れたように黒い髪に、漆黒の瞳。年は二十歳後半といったところだろうか。精悍な面輪であり、年齢をも感じさせない利発さがその男にはあった。
男は馬の手綱を巧みに操りながら、黙然と広大な地を進んでいく。
だが川沿いに進んでいるものの所々に起伏した岩壁などがあり馬の通行は困難を極めた。
中天には太陽さえ差し掛かり、陽光が大地に黒い影を落としている。
男の身には無数の刀傷がつけられ、見るも無残な姿だ。男は自分の身なりを意に介した様子もなく、焦燥の駆られるままに馬の手綱を操っていた。
速く、速く、速く―――!
男を突き動かしているのは、漠然とした焦燥感だけだ。
事は一刻を争うのだ。
男の焦燥は馬を操る手綱にも雄弁に現れていた。通常の馬ではこうも速く駆けられるはずがない速度を、男が乗馬する黒馬は常に一定に保っていた。
だが、馬の体力にも限界はある。ましてや人間の体力などはたかが知れている。
案の定だ。全力を出し切っていた男は自身の体力の許容量を知る羽目になった。