初恋がはじまる
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
眠たいなあ、と思いながら、放課後のグラウンドの端っこを歩いて裏門へと向かう。昨晩の夜更かしのせいで、眠気がすごい。特になにかしたいことがあったわけではないのに、スマホをダラダラと見ていたせいで寝そびれてしまったのだ。早く帰って仮眠しよう。
グラウンドの中心部では、野球部とサッカー部と陸上部が限られたスペースを複雑に住み分けて部活動に勤しんでいる。部活動が特別盛んなわけではない公立高校なので、専用の練習場を与えられていないのだ。
野球部がノックだかバッティングだかの練習でもしているのだろう、キン、と金属音がして、続けて「危ない!」という声が聞こえた。それに反応する前に、側頭部に衝撃を受け、俺はその場に倒れてしまう。
目が覚めると、保健室のベッドにいた。
「あら、起きたわね。野球ボールが頭に当たったんだって。それは大丈夫みたいだけど、あなた熟睡してたのよ」
保健の先生の言う通り、どうやら本当に眠ってしまっていたらしい。頭がすっきりしている。側頭部に鈍い痛みがあるが、まあ騒ぐほどではない。
「ごめん。俺の打ったボールが当たったんだ」
練習用ユニフォームを着た一目で野球部員とわかる男子生徒が、ベッドの横にいて、申し訳なさそうに俺にそう言った。素朴ですっきりとしたその顔立ちに、見覚えがある。たぶん、同じクラスのやつだ。
「ああ、そうなんだ……」
俺はどう反応したらいいのかわからず、それだけ言った。謝ってくれているし、わざとではないのだろうから怒るのは違う気がする。そもそもそこまで腹が立っているわけでもない。
「本当に大丈夫か?」
「うん、平気」
「自分の名前、言える?」
ふいに野球部員が言った。
「高島海悠」
保健室の使用記録でも書くのだろうか、それとも俺の頭の心配をしてくれているのだろうか。俺は素直に答える。すると野球部員は、
「じゃあ、俺のことは覚えてる? 名前、わかる?」
などと、尋ねてくる。なるほど、俺の頭の心配をしてくれているらしい、と思い、
「ああ、わかんない。ごめん」
それにも素直に答える。顔には見覚えがあるが、名前までは覚えていない。
「同じクラスだぞ」
ショックを受けたように、野球部員は言った。
「もうすぐ五月になるのに、覚えてないのか」
「覚えてない」
「入学式のときも、話したろ」
そうだっけか、などと思いながら、
「いま、ちゃんと覚えるから許してよ。名前、なんていうの?」
俺はそう提案する。
「三鷹大輔だよ。本当に覚えてないのか?」
「うん、ごめん」
ぼんやりしているせいで、俺はまだクラスメイトの名前を覚えていなかった。顔はかろうじて覚えているが、名前までは無理だ。そのせいで、友だちもまだできない。いや、実際そのせいなのかどうかは不明だが、とにかく友だちはいない。別にいいか、困ることはないし、などと安易にかまえていたら、もう四月も終わりに近づいていたのだ。その間に、俺以外のクラスメイトたちは着々とグループをつくっていき、俺はそのどれにも入ることができていなかった。
「もしかして、記憶喪失なんじゃないのか」
三鷹大輔は不服そうに言う。
「そんなわけないじゃん」
最初から覚えてないだけだって、とは申し訳なくてさすがに言えなかった。俺の記憶力がないのが悪いのだ。でも、言わなくても結局、三鷹には伝わっていると思う。
「俺、普段からぼんやりしてるから、あんまり人の名前とか覚えらんないんだよ」
いいわけのように言うと、
「それ、いつから? 俺がボールを当てちゃったから忘れたんじゃなくて?」
三鷹は妙な反応を示す。
「べつにいつからでもいいじゃん。たぶん、生まれつきだよ。おまえのボールのせいじゃない」
面倒くさくなって、俺はベッドから這い出し、リュックを探す。丸椅子に置かれていたリュックを三鷹が取って手渡してくれる。
「ありがとう」
俺は三鷹に礼を言い、帰ることを告げようとしたそのとき、
「やっぱ、かわいい顔してるな」
三鷹が言った。
「はあ?」
険のある声が出てしまった。急になにを言い出すのか。
「まさか男だとは思ってなかったから、驚いた」
その言葉には、さすがに腹が立ったので、
「セクハラだ」
俺は三鷹の肩に軽くパンチを入れ、保健室を出る。もしかしたら、これがきっかけで三鷹と友だちになれるかもしれないと少し期待していた。だけど、お互いのせいで険悪な状態での別れになってしまったので、もう無理かもしれない。
「本当に、俺のこと覚えてないの?」
翌日、俺が登校すると、三鷹が寄ってきて言った。
「もう覚えたよ。三鷹大輔」
そう返すと、
「そうじゃなくてさあ」
三鷹は不満そうにしている。かと思うと、
「海悠は、野球部入らないのか?」
唐突にそんなことを尋ねてくる。しかも、昨日の今日でもう名前呼びだ。距離を詰めるのが早すぎる。陽キャだなあ、と俺は三鷹の少し日焼けした顔を見る。ほっとしてもいた。三鷹は、昨日、俺が肩パンをしたことなんて気にしていないようだった。
「入んないよ。興味ないもん」
「でも、おまえ、学童野球やってたろ」
「なんで知ってんの?」
確かに、小学生のころは野球をやっていた。男の子にはとりあえずスポーツをやらせておけばいいのでは、という両親のゆるい教育方針で、少しの間だけ学童野球のチームに入っていたのだが、すぐにやめてしまった。もしかしたら、三鷹はその学童野球のチームでいっしょだったのかもしれない。
「もしかして、いっしょのチームだった?」
三鷹にそう言うと、
「思い出したのか」
三鷹はあからさまにうれしそうな表情で、明るい声を出す。
「いや、全然。でも、三鷹が学童野球のこと言うから」
正直、そのころのことは本当によく覚えていない。どうして学童野球をやめたのかも思い出せないのだ。入りたてのころは楽しく通っていたように思う。入ってみたものの、結局野球に興味を持てなかったからだろうが、そのあたりの記憶がすっぽりと抜けている感じがする。
「まあ、いいや。海悠が俺のこと思い出すまで待つよ」
「なんだよ、それ」
三鷹は自分の席に戻って行った。ということは、俺が三鷹のことを思い出すまでこんなふうにずっと話しかけられ続けるのだろうか。べつにそれが嫌だというわけではないが、少し面倒だとは思う。思い出せと言われても、自分ではどうしようもない。でも、三鷹と友だちになれそうなので、少しうれしくもあった。
「思い出話をしよう」
昼休憩、俺の机に自分の机をくっつけながら三鷹が言う。
「思い出話もなにも、俺のほうは覚えてないんだから」
言いながら弁当をひろげ、いただきますをする。三鷹が手を合わせた俺を見て、同じように手を合わせた。
「海悠は、すっげーかわいかったから、俺、高校入って海悠に会うまで、ずっと女だと思ってたんだ。名前も『みゆう』だし。学童野球のチームに入る女子もちらほらいたから、そういう子なんだって思ってた」
「悪かったな、男で」
「悪かないよ。びっくりしたってだけ」
「俺だって、本当に悪いとは思ってないよ。勘違いしてたおまえが悪いんだ」
「そりゃそうだ」
三鷹は自分の勘違いを全く悪びれていない様子で、あっけらかんと笑っている。
「入学式の日にさ、海悠が同じクラスにいて、それもびっくりした。久しぶりって言ったのに、よくわかってないみたいだったのは悲しかったけど」
「ああ」
確かに、そんなことがあった。けど、俺は覚えていないのだから、その反応は普通だ。
「野球、続けてなかったんだな」
「うん」
「あの時、なんで急にチームやめたんだ」
「たぶんだけど、野球にあんまり興味がなかったからじゃないかな」
「あんなに楽しそうにしてたのに? 俺のことも、だいちゃんって呼んで仲良くしてくれてたろ」
「知らないよ。覚えてないんだから」
本当かよ、俺が忘れてるからって話つくってないか、などと思いながら、俺は弁当に集中しようとする。
「手ごわいな」
三鷹は冗談めかしてそう言った。
「俺は、野球やってたらいつかまたどこかで海悠に会えるんじゃないかと思って続けてた。また会えてうれしかったけど、野球は全然関係なかったな」
自分の弁当をもりもりと食べる三鷹は、少し残念そうに見えた。それに対して、俺はなぜか罪悪感に似た感情を抱いてしまう。そんな必要なんてないはずなのに。
「俺は、おまえが初恋だったんだ。初恋は実らないってよく言うけど、本当だったな」
三鷹がそんなことを言い、明るく笑った。初恋って。そのワードが引っかかり、俺はむせてしまう。
「大丈夫か」
三鷹はなんでもない様子で、むせる俺の心配をしている。
「俺が、学童野球やめたときのこと、覚えてる?」
その日、夕飯の片付けを手伝いながら母に尋ねてみた。父が帰ってから父に聞こうかと思っていたが、帰りが遅くなるようなので、もう母に聞いてしまおうと思ったのだ。
「どうしたの、急に」
「いや、なんでやめたんだったかなと思って」
そんなたいした理由じゃないと思って軽く聞いたのだが、
「……野球、やってみたけど、合わなかったのよ」
母のその答えに、妙に空々しさを覚えてしまう。自分でもそういう理由だと思っていたのに、母の口調に、なんだか引っ掛かりを覚えてしまったのだ。
「なんか隠してる?」
「べつに。なにも、隠してなんかないわよ」
「うそだ」
そんなやりとりを何度も何度もして、根負けした母がとうとう口を割った。
「あんたにとってはすごく嫌なことだけど、それでも聞く?」
「うん」
「後悔すると思う」
「後悔するような内容?」
母は頷いた。
「それでもいい。聞きたい」
母の口から聞いた話は、きっとだいぶソフトな言葉に翻訳されていたのだと思う。
「急に野球行きたくないって言い出して。それまで、結構楽しそうに通ってたから、どうしたのって聞いたら、新しくきたコーチが身体をさわってくるから嫌だって」
端的に言うと、俺は学童野球のコーチに性的ないたずらをされていたらしい。この「いたずら」という言葉もどうかと思う。要するに「強制猥褻」だ。
両親は監督に相談し、監督がコーチを問いただすとコーチはそれを認め、すぐにチームを辞め、それが原因かどうかは知らないが引っ越したらしい。俺までチームをやめる必要はなかったのだが、チームに顔を出すたびに嫌な記憶がよみがえるかもしれないと、両親はそう判断し、俺は学童野球をやめることになったのだ。その後、マイホームを購入した俺たち家族も、そう遠くはない町へだが、引っ越しをした。
「この世には、わけわかんないことやっちゃう人間が、時々いるの。男だとか女だとか、大人だとか子どもだとか、容姿もなにも関係ないの。気をつけるに越したことはないけど、いくら気をつけてたって、そういう人間に遭遇してしまったら、もうどうしようもない」
そう言って、母は涙ぐんだ。
「あんたが忘れてるんなら、忘れたままのほうがいいと思ってた。今も、話してよかったのかどうか、わからない」
「ううん。聞きたがったのは俺だし、話してくれてありがとう」
俺はそう言い、自室へ行き、ベッドのなかでまるくなる。母の話は、普通にショックだった。自分の過去にそんなことがあったなんて、知らなかった。いや、忘れていたのだ。きっと、脳の自己防衛本能的ななにかが発動したのだろう。もともとぼんやりしていて忘れっぽい性格だったのが功を奏したのか、それともやはり脳のガードが堅いのか、ショックですべてを思い出す、なんてことにはならなかったが、その話を聞いて、母の言うとおり、すごく嫌な気持ちになった。聞かなきゃよかった、と後悔した。だけど、聞きたがったのは自分なので、後悔してもいいと言ったのは自分なので、嫌な気持ちごと飲み込もうと努力する。だめだ、できない。気持ち悪い。自分に腹が立っていた。話したくなさそうだった母の口を無理矢理に割らせた。せっかく自分で忘れていた嫌な過去を自分で掘り起こしてしまった。明日、三鷹に話してやろうと腹立ちまぎれに思う。三鷹も道連れにしてやる。三鷹に話して、俺の過去を思い出させようとしたことを後悔させてやる。嫌な気持ちになったらいい。
結局、昨夜は全く眠れず、寝不足のままに俺は朝を迎えた。
「どうした。今日は元気ないな」
朝のホームルーム前の教室で、三鷹が俺の席に寄ってきて言った。おまえのせいだ、と言おうとして、三鷹のせいではないことに気づき、俺はむっつりと黙ってしまう。
「目が真っ赤だぞ。なんか嫌なことあったのか」
俺は黙って頷いた。心配そうな三鷹の顔を見たら、なぜか泣きたい気持ちになった。
「海悠」
三鷹は俺の名前を呼び、小声で「ホームルーム、サボろっか」と言う。俺は、手でおいでおいでの仕草をする三鷹について、教室を出る。三鷹に連れて行かれたのは、中庭沿いにある別棟の化学室の裏だった。中庭に下りる短い階段があったので、そこにふたりで並んで座る。
俺は、昨日、母から聞いた話を三鷹にそのまま話した。それが、きっと俺があのころのことや三鷹のことを忘れている理由だから。三鷹を道連れにしてやろうという気持ちは、もうなくなっていた。ただ、自分ひとりで抱えきれなくなった重たい荷物を、三鷹に少し持ってもらおうと思ったのかもしれない。いや、言いかたを変えただけで、それも結局、道連れといっしょだ。
「そういえば、いた。入ったと思ったらすぐに辞めたコーチ……」
三鷹が呟いた。三鷹の話だと、チームの子どもたちにはコーチの辞めた理由は家の都合だと知らされていたらしい。
「ごめん」
三鷹は上半身を俺のほうへ向け、頭を下げた。
「ごめん、海悠」
もう一度、そう言われる。
「思い出さなくていい」
顔を上げて、俺の目を真っ直ぐに見て、三鷹は言った。
「そんなことがあったなんて知らなかった。そんなの、忘れたままでいい」
三鷹がこんなに全力で俺の話を受け止めてくれるとは思っていなかった。
「なのに、俺、ずっと思い出せって……でも、勝手だった。ごめん」
「いいよ。知らなかったんだから」
三鷹があまりにも真剣に謝るので、昨夜、後悔させてやろうと邪悪な思いを抱いたことなんて忘れて、俺は言う。
「昔の俺のことなんて、もう思い出さなくていい」
三鷹はもう一度言った。そして、
「だけど海悠、せっかくまた会えたんだし、これから楽しいこといっぱいして、俺といっしょに新しい思い出をたくさんつくろう」
明るい笑顔でそう続けた。
「おまえって、すごく前向きなんだな」
心の底から感心して言うと、
「そうか。普通だろ」
三鷹はなんでもなさそうに言う。
「普通じゃないよ」
言いながら、少しだけ涙が出た。心が、わずかだけど軽くなったように感じた。きっと、三鷹が荷物を少し持ってくれたからだ。
「三鷹の初恋って、もう終わった?」
俺は涙を拭いながら言う。俺の言葉の意味が理解できなかったらしい三鷹が、きょとんとした表情で俺を見ている。
「……まだ、終わってない」
少し間を空けて、気づいたらしい三鷹が真剣な表情に戻り、そう言った。それを聞いた俺は、すぐ横に置かれていた三鷹の手に、自分の手を重ねる。
「じゃあ俺は、いまからはじめるよ。初恋」
そう言うと、三鷹は日に焼けた顔を真っ赤にして笑い、手を動かして、俺の手を握り返してきた。三鷹の手は、とても熱い。
「すごい。初恋って実るんだ」
三鷹がそう言い、うれしくなって俺は笑う。そして、結局、三鷹とは友だちにはなれなかったな、なんて思ったのだ。
了
ありがとうございました。