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水彩度  作者: 梦現慧琉
3/8

三頁目

一週間と三日前。


 懲りる様子も見せず、また一週間が始まった。

 目覚し時計を止めて、しばらく停滞。その後起床。

 制服に袖を通し、食卓に着く。母の用意した朝食は簡素なものだが、不味くはないし――何より朝食を用意してくれていると言うだけで、感謝に値する。感涙のあまり視界がぼやけるほどだ……なんて、眠いだけだが。

 野菜ジュースを飲み干した。

 食べ始めた所で、父親は会社へと出勤していった。ニュースを映すテレビで時間を確認すれば、僕もあと二十分の内には出かける必要がある。

 昨夜のおかずの残りが多い。

 卯生やら渡砂やら毬雲やら、他人についてばかり意見しているのも不公平なので、翻って見て自分はどうなのかと考えてみる。僕が育った家庭は良くある両親共働きの家庭で、両親ともそれなりの教養と学歴を持ち、健全な教育を僕に施し、健全な教育を受けられるだけの教育費を提供してくれている。一人っ子である僕に、しかし重荷となるほどの期待をするわけでもなく、かなり好きなように生きられるだけの自由を許してくれている。家庭内での会話も途絶えず、夫婦喧嘩を何度か見てはいるが離婚するほどでもなく、仲睦まじい良い家庭なのだ。

 だから、もし僕が異常だったとしても、それは両親や家庭のせいではない。

 僕が自殺したとしても、それは僕の責任であって、両親は余計な心を砕く必要などないのだ。

 箸を置いた。

「ごちそーさま」

「はーい。後五分よー」

「うぃーす」

 顔を洗い、口を漱ぎ、キシリトールのガムを噛み締めて、バッグに教科書を放り込み、靴を履いて、包み紙でガムを包み、ゴミ箱へ捨て、玄関のドアを開ける。

「はっしれー」

「いてきま」

「いてきな」

 後少ししたら母親も家を出るはずで、慌しい毎日である。

 変わり映えのない朝の空気を吸い込んだ。


*   *   *


 のんびりと一日が過ぎてゆく。当然のように、保呂羽卯生は出席していた。昨日のメールについて聞いてみようかとも思ったが、それほどのことでもないだろうと思い直し、やめておいた。いくら幼馴染と言っても、もはや他人同士。同じクラスとは言え、席が近いわけでもないし、きっかけの無い話題で盛り上がるほどの友人でもないわけだ。何より男子女子だし、活動圏が微妙に違う。

 二限と三限の間。

 二限の英語(会話)が早めに終わり、別段急ぐでもなく教室へ向かって歩いていた。会話の授業は別教室なのだ。と……、A組の渡砂が視界に入った。

 何をするでもなく人の目を引く奴ってのはいるもので、渡砂瀬々斗も間違いなくその素質を持つ一人だろう。一般人とどこが違うのかはわからないが、こう、視界に入ると思わず視線を向けたくなってしまう。カリスマ、とは違うか……役者体質、芸能人体質? 政治家の息子だからだろうか。どれにしたって、僕には備わっていない素質である。

 にしても、一人で歩いてるな。彼は友人連中に囲まれていることが多いってのに。A組みの授業は終ったのか? そもそもなんで廊下をうろついて……あ、まずいぞ、こっちに気付きやがった。

 二限終了のチャイムが鳴った。

「よ。卯生の幼馴染君じゃないか」

 話し掛けられた。だから僕はアイツの付属品でもなんでもない。

「どーも」

「悪いな。あんな良い奴の彼氏をやらせてもらっててよ」

 人懐っこい感じの笑みを浮かべてくる。

 何で話題が卯生中心で、しかもそう言う方面なんだ……と思ったが、よくよく考えてみれば僕はアイツに振られたばっかりだった。当の恋人である渡砂が、その出来事を知らないはずがないので……これは一種の気遣いと言う奴だろう。

 ならつまり、こちらもそれらしい対応をするべきか。

「いや……。まぁ、確かに僕なんかじゃ釣り合わないだろうしね。取り立てて取り得の無い僕より、渡砂の方がずっと保呂羽に相応しい。精々アイツを幸せにしてやってくれ」

「おい、拗ねるなよ」

 渡砂はそう失笑した。しかしそれから、ちょっと考えるようにして繋げる。

「つっても……、卯生は可愛いし、優しいし、さっぱりしてるし、頭も良いし、明るいし……惚れるのもわかるな。俺が言うべきことじゃ、ないか。幼馴染君の言う通り、精々頑張らせてもらうな」

「……呼び方戻してくれないか?」

「おっと。悪いな、水梳」

 周囲を生徒の集団が通過してゆく。。

 しばしの、両者沈黙。人の波が途切れた所で、渡砂は言葉を続けた。

「――最近、有名人だよな」

「僕が?」

「お前がだよ。水梳軌跡君」

「……噂の的になってるだけじゃないか。恥の上塗りに次ぐ上塗り。下地の色が何色だったかなんて、もはや推測すらつかない。笑いたければ笑えば? 僕は気にしないぜ」

「だから拗ねんなって」

 ぱんぱんと肩を叩かれる。馴れ馴れしいと言うか……僕は真似できないコミュニケーションだよな本当。……なんて考えていたら、若干顔を近づけて渡砂は言った。

 斬り込むように。

「何か企んでるんだろ」

「――、いや……」

 何……?

 反応に一瞬詰まる。

「上手くやってると思うぜ、水梳は。多分ほとんどの生徒が――お前が『わざと』恥の上塗りをしていることに気付いてない」

「…………」

 渡砂を睨むようにする――が、無駄だ。自分の理論に自分で納得しきっている顔だ。卯生から聞いたのか……? いや、上手く行ってないといってたし……。それも嘘……ではないだろうな、あそこであの嘘をつく意味が不明だ。

 なら、自分で気付いた……のか。

「誰にも言わねーよ。言ったところで俺に利益は無いわけだし、信用してくれ。あ、勿論ゆすったりするつもりも無いからな」

 冗談めいて、そう言う。

 確認――して、おくか。

「……どうして気付いた?」

「面白ぇな、サスペンスドラマみてー。俺、結構ああ言うの好きなんだぜ。ま…………何となくだよ。ここでもう一回拗ねられたら、はいそうですかごめんなさいで済んでた話だ」

「何となく?」

「……お前が学校休んでないからだよ」

「――あー」

 成る程。そこは気付いてしまえば、不自然に見えるところだ。

「これだけ恥かいてりゃ、不登校にもなりそうなもんだ。そうじゃなくても、休みがちになるくらいが自然だろ? 精神的に追い詰められるだけで、人間体調壊すんだから」

「体調が悪くて、精神的にも負い目があったら、簡単に登校を諦める……か。にしては、僕は健康的過ぎるってこと」

「ああ。つまり、恥をかいたとして、それを苦にしてねーんだろ」

「それは何かしら別の狙いが在るだろうから、ね。はぁん……なーる」

 コイツは名探偵か。

 だとしたら僕は、罪を認めて膝を折り、両手を床につかなきゃいけないのか?

「だからって他人に言うつもりも、ましてや理由を聞くつもりもねーから、安心しとけって。目に付いたから声をかけただけ。俺みたいに気付く奴もいるかも知れないから、気ぃつけとけよーって」

「どうかな……。渡砂みたいに勘が良い奴がたくさんいられるのも」

「俺を買いかぶるなよ」

 遮るように。

 ここで何故か、名探偵役であるはずの渡砂瀬々斗の方が――歪んだ顔を見せた。……何だろう? 卯生と上手く行っていないのに関係が……あるのだろうか。人懐っこい笑顔に、爽やかな立ち振る舞い、優れた洞察力、他人に深入りしない気遣い。勘だけじゃなく、良い奴じゃないか。

 と。三限開始のチャイムが不意をつくように響いた。

「おっと」

 見渡せば、歩いている生徒もほとんどいない。

「お。悪いな、引き止めちまって。じゃ――またな」

「……ああ、うん」

 さっと手を振って、A組教室へ向かう渡砂。

 僕もC組教室へと急ぐ。

 のんびりしていたところを、横から突然轢かれた気分だ。油断ならない。

 ただまー……、不登校はしづらいところがあるんだよな。両親に怪しまれる、つまりは警戒されてしまうと、選択できる自殺の幅が狭くなるからだ。方法を早いところ見つけてしまわないと、いけないってことか。そうだな……ぽろぽろ休む、くらいはし始めておいて良いかもしれない。

 渡砂の助言(?)を反芻しつつ、先生の居ないざわめく教室の中、席に着いた。

 次は数学か。


*   *   *


 他に特筆することも無く、その日は終る。

 卯生は放課後何処かへ行ってしまったし、部活も無かった。

 そう思っていたら、メールが来ていた。卯生からだ。またもや無題。昨日のメールについて何かしらの説明でもされてるのかと思ったが、違った。しかし簡潔に、また、一言だけ。

「泣いてたよ」

 ……か。

 誰がもどうしてかも訊く必要は無い。携帯電話をベッドへ放る。


 明日早速休むかどうするかを考えて、結論を出した。


▼    ▼    ▼


一週間と二日前。


「地球温暖化、進む砂漠化、オゾン層の崩壊、海の汚染に大気汚染、肥大するゴミの処理問題に人口増加による食糧問題。将来への不安。不況に陥る経済界、高騰する物価、保証の無い雇用、明日をも知れない職場、不信の溢れる政治界、対外政策のずぼらさ、首の回らない赤字国債、行き当たりばったりで求心力を失う国会、不満で溺れる教育界、教師による犯罪、行方知れずの生徒達、頼りない授業内容。不幸な世界。日常生活での衝突に、人間関係での失敗に、自己存在への苛立ち、うやむやになる境界、あやふやになる意義。苦しいし切ないし、安心できないし、先の見通しなンて全然出来ない……けれど、少なくとも新しい命たちは祝福されて生まれてくるンです。望まれて求められて生まれてくるンです。赤ン坊は無垢だもン。いくら苦しくたって、私たちが努力して、なるべく良くして、この世界を次の命たちに受け渡さなきゃいけないンです。今までだってずっとそうしてきたし、これからだってそうしていくべきだし、私たちだってそうできるはずなの。希望が降って沸いてくるわけじゃない、探して見つけて、あるいは自分たちで作らないと。私はそう言う未来を軌跡くンとも作っていきたいと、是非一緒にやっていきたいと思います。思うンです。……少なくともこの一年ちょっとの間、一緒に美術部やってきたンです。ビブってきたンです。一緒におしゃべりしながら絵を描いて、私楽しかったなぁ、ずっと卒業まで楽しく出来たら良いと思ってるンですよ。軌跡くンのこと、おトモダチだと思ってます。仲が良いもンって、他の人に言える数少ない友達です。悩みがあったのなら言って欲しかったし、苦悩があるなら言って欲しいな。相談に乗れないほど、私狭量じゃないンですよ? 確かにあちこちちっちゃいけど、私気にしてないけど、心の方は広いつもりなンです。反比例して。反比例ってなンだか今一まだよくわかンないけど、外見に反比例して心は北海道なンです。むしろ本州です。でもこれからの問題はグローバルだから、アメリカとかカナダとか言っても良いかも……イタリア行ってみたいなぁ。きっと軌跡くンがいなくなったら、たくさンの人が悲しくなると思う。です。そしたら、不幸な世界がもっと不幸な世界になっちゃって、不幸不幸世界になっちゃって、貧乏神が所狭しと犇きあってなンだか逆に賑々しい感じで、皆やる気を失っちゃうかもしれないから、これは一大事な世界的問題だと思うンです。一つ一つ小さい事が積み重なって、一大事に発展するンだよ。本当だよ。軌跡くンがいなくなっちゃうのが小さい事だって言ってるわけじゃないンだよ。本当だよ。そのまま軌跡くンが一大事……軌跡くンは大事なンです。少なくとも軌跡くンが消えちゃったら、私は困っちゃう。美術部がしンみりしちゃうンです。美術部が寂しくなって、私もきっと悲しくて、だから部屋全体が寂しくて悲しくなります。悲しい。哀しい。悲しくて、私はきっと泣く。私は絶対泣きます。泣きます。少なくとも世界中でたった一人の少数派で、のけものけもの笑いものでも、軌跡くンがいなくなったら泣きます。毬雲雛鳴の号泣ショウが開催されて千客万来、あれよあれよと言う間に時間が過ぎ去って、私お婆ちゃンになって、でも泣きます。泣くもン。わぁわぁ泣く! 眉毛がハの字になります。だから軌跡くンが死ンじゃうって言ってるだけで、凄く残念で、残念で、惜しくって、悔しくって、で、悲しいです。いけないよ、駄目だよ。よ〜く考えよう、命は大事だよ? グッドラック・グッドラックだよ。欠けてる方のラックじゃないよ、棚や物置の方のラックじゃないよ、楽しくて幸せなほうのラックだよ。アヒルさンだって優雅に見えても、水面下でばたばたしてるンだよ。してるンです。折角奇跡的――あ、駄洒落じゃないです、ミラクル☆の方の奇跡です――奇跡的に生まれてきたンですよ、軌跡くン。卯生ちゃンとも会えたし、私とも出会ってくれたし、何でそれを無駄にしようとか言うンです? わかンない。別にいいもン。私馬鹿だもン。馬鹿じゃないかもしれないけれど、馬鹿だもンって、口癖みたいに言うもン。いけないよ。軌跡くン、優秀だし、いろいろ出来るじゃない。綾取りが得意なのも見せてくれたよね。のび太くンみたいだねって誉めたら、嫌な顔されちゃった。あの時も悲しかった。悲しかったンです。ね、自殺なンか……ううぅぅ……自殺なンか駄目だよ、いけないよ、ごはっとだよ、禁中並公家諸法度だよ! 軌跡くン、自殺なンかしちゃいけませン! 殺されるだけでも駄目! 殺す方も殺される方も悲しい人だよ! 殺人事件も自殺社会も反対! 禁止事項です……拘束対象です! アウトバーンなこーそくじゃないンですよ、ホールドアップなこーそくです。ですです、ぅ、あああン。駄目! なンでこンなに言ってもわからないかなぁ、わかりづらいこと言ってるかなぁ、私説明下手かな、説得下手かな? 下手かしら? そうじゃないでしょ! 軌跡くンがいけない、いけないことするから、私悲しくて、色々言うンです! あぅぅぅ、ぅ、ぁぅ、なンて言ったらわかるンだろ、ホント、もぅ、もぉー! 自殺とか言っちゃ駄目、ちっとも大丈夫じゃない、y軸対象で逆方向! 何が自殺の方法ですか、馬鹿馬鹿! 阿呆! 間抜け! 土手南瓜! 四字熟語ぉ! おたンこなーす! 似鳥ユキエ! あのキャラ太宰治好きなンです、知ってた? 太宰治気取ってンじゃねーよ! 自殺とかいけないもン、ありえないもン……困る、ぅぅ、考えるだけで涙が出るよ。ぼろぼろしちゃう。するもン…………えーいっ! 自殺とか言ってる軌跡くンなンか死ンじゃえばいいンですー! ですですー! だから死ンじゃいけないって、ずっと言ってるじゃン、じゃン、じゃないですかぁ! もうっ、軌跡くンのばかぁー! ばぁあああーかぁああ! え〜ンっ!! もう知らないっ!」

 びしぃ! がさっ!

 き――ばたんっ!!

 たたたたたた…………。

 乱暴に筆ペンを放り投げると、自分荷物を引っつかんで、毬雲は美術部室を出て行った。

「……いや、僕、何も言ってないんだけどな……」

 とにかく、アイツには驚かされる。ちょっと状況を整理してみよう。

 ええと……、結局、僕は今日学校へ登校した。いつも通りに。授業を普通に受け、普通に昼食を食べ、午後の授業もこなし、美術部活動日であるから、美術室に来たわけだ。道具は広げてあった(今日は三本の筆ペンと画用紙)ものの毬雲自身は居なかったので、こっちも勝手に道具を広げて絵の続きを塗っていた所、彼女が帰ってきたのだった。座って、毬雲も絵の続きに取りかかったな――と思った矢先、先ほどの台詞が始まったのだ。

 少しも口を挟めなかった。

 挟もうとしたタイミングで次の言葉が来る。

 しかもまくし立てながら、こちらは少しも見ていなかった。絵を描きつづけながら、説教していきやがったのだ。勿論、しっかり完成させていったようだ。

「どれだけすげぇ奴なんだ……」

 呆れてしまって、実感が追いついて来ない。

 しかし……今日学校に来て、良かった。

 あれは日にちを置いたら、さらに醗酵して余計わけがわからないものになっていただろうし、下手をすると家にまで出向いて来られた上、同じような事をまくし立てられたのかもしれない。そうしたらもう、自殺プランどころではない。毬雲の様子は狂人の沙汰だった。

 だから苦手なんだよ、アイツは。

「確かに凄かったねー。あたしはあんな台詞思いつかないよ」

「…………」

 まるで今まで登場していなかったかのように気配を消していた卯生が、ここで口を開いた。美術室の端の方に椅子を持っていって座り、雑誌を読んでいたのだ。関係などこれっぽっちもしていない、背景としての部屋のオブジェの如く。裏切り者め。

「あれー……もしかして、きーき怒ってる?」

「怒ってないさ」

「ぶっきらぼうじゃん。ぶっきらぶっきら。嫌ですねぇ、契約内容果たしただけじゃん。心配しなくてもいーよ。ななちゃんの方からも話が漏れ出したりしないよう、それとなく言いくるめておいたから」

「そりゃ助かるね」

 あの調子の毬雲に他人へ言いふらされたりしたら、恥の上塗りとかではなく水梳軌跡という人間像が根本から揺らぎかねない。その辺りの気配りをしてくれた事は感謝するが、しかしそもそも卯生が毬雲に話さなければ……もっと言うのなら捨てたルーズリーフを拾うだなんて非常識をやらかさなければ、こんなに疲れずに済んだのだ。

 当の本人は、ぶっきらぶっきらと言いながら、毬雲の残した画用紙を覗き込む。

「うわっ! きーき、凄いよ! ななちゃんは相変わらず巧みだねぇ〜」

「だろうよ」

 卯生がぱたぱたと画用紙を持ってきた。

「なんて言うか、何描いてあるんだかわからないけれど、凄いね。抽象画って言うんですか、こう言うの? コンビニで売ってるような筆ペンで、ここまで描けるもんなんだねー、へーっ!」

「コンビニで売ってようが画材屋で売ってようが、筆ペンは筆ペンだろ」

 画用紙を覗き込む。

 乱暴に一息で描かれたラインが、そこには折り重なっていた。配置されているそれぞれの線は、勢いがあるのに計算されているような印象を受ける。川のように渦のように。緻密な心算の上成り立っているであろう、気持ち良いそれらの黒線を……しかし、幾許かの水滴が滲ませていた。

 毬雲の涙だった。

「涙も含めて作品みたいだな。全く、アイツはどんな画材ででも絵を描きやがる」

「ふぅん……」

 卯生はその絵をためすがめつ眺めていた。何が描かれているのか、考えているのだろうか。

 今日は珍しく解説が無かったので、それは僕にもわからない。

「それで」

 やっと脇に絵をやって、卯生が言った。

「するの?」

「何を?」

「自殺」

「するよ」

 当然だろ、と付け加えて、自分の絵に取り掛かる。今日は青色を交えてみる……が、少し明るすぎたな。黒を混ぜてみるか……? 黒を使うのはちょっと外道な感じがするんだが……暗くなるだけで、深みが出ないし。ま、やってみてから考えよう。

 会話は続く。

「ななちゃんはあれほど悲しむのに?」

「確かに申し訳なくは思うが……アイツが悲しむからって、それは僕に何の影響もおよばさないよ。毬雲の悲しみは毬雲の悲しみで、僕の自殺は僕の自殺――別物だ」

「残酷な物言いだよね」

「残酷かもしれないけれど、本音だよ。さっきの毬雲の説得は、一方的な感情に過ぎない。自分が他人にとって、……毬雲が僕にとって、それなりに大事だと思われている――そんな勘違いで構築された言い分だろう? 僕は毬雲のことを、同じ学校の同じ学年の人間……それ以上にもそれ以外にも認識していない」

 ぺたぺたと色を広げてゆく。

 やはり薄っぺらい暗色になってしまった――が、逆に良いかもしれないな。

「そ――。ま。わかるけどさ」

 卯生はそう言って、僕の絵を覗き込んでくる。

 見ても良いが、僕の絵は毬雲と違って拙いぞ。メッセージ性もほとんど無い。

「毒殺なんかどう? 毒自殺」

「それは僕の絵を見て思いついたのか?」

「うん。あ、違うって。タイミング的にはそうだけど、相関関係は無いって」

 笑って注釈をつける。

 まぁ、そんなところで気を悪くするほど、僕は悪い性格していない。

「で、毒自殺? 面白いネーミングだとは思うけれど、具体的には?」

「具体的にも何も、毒を飲んだり注入したりで、ぽっくりサヨナラって言う手筈だよ。面倒臭くないし、確実じゃん」

「お膳立て次第だな……しかし、毒って言ってもいろいろ在るぜ?」

 ミステリジャンルでお馴染みの青酸カリやらヒ素やら、殺人に使われるものは勿論の事……安楽死用の薬剤も病院にはあることだろうし、広く言ってしまえば賞味期限の切れた食材ですら毒だ。塩酸硫酸塩基性、酸欠を狙うのなら一酸化炭素も毒になるし、神経系をそのまま麻痺させるフグ毒。殺虫剤は人体にそこまで影響を及ぼすわけではないが、量次第では虫のように人を殺す。ニコチン、カフェインだって毒物――この間僕が飲み干したコーヒーすらも、そういうわけで。

「及ぼす効果もそれまでにかかる時間も、致死量も違うんだ。ただの空気だって、血管に直接叩き込めば毒になる――漫画にあるみたいにね」

「うぅん、そこは調べれば良いんじゃないかな? インターネットでぱこぱこって」

「悪くはないが趣味じゃない」

「うーわーばっさりー」

「面白くないだろう。演出上どうしようもなく選択するならまだしも、毒自殺メインでそれだけじゃ、あまりにもあっけない気がするんだ。調べてみて、良さそうな毒が見つかったら教えてよ」

「人任せにするねぇ。良さそうな毒って例えば?」

「三日間笑い続けて死ぬとかかな」

「ドクキノコ」

「けいたいでんわ」

「ドコモダケ」

「とんでもないわ」

「ドンダケェ」

 即応した卯生は大したものだ。

 一端会話が途切れた所で、色を変える。うーん、塗るたびに追い詰められていく気分だ。描く領域も、色の幅も、どんどん限られていくように感じる。絵を描くとはなんと難しいものだろう。コンセプトが無いからかもしれないが。

 核、根幹は大事だと、しみじみ思う。

「んー……何度か訊こうかって思ってたんだけどさ。この際だから、思い切っていーかな」

「うんん?」

「きーきに疑問、質問、アンチモンです」

「なんだそれは……」

「第五十一元素。鉛に似た感じの元素だったかな……毒性があるんだ」

「知らねぇよ。あ、さっきの毒自殺を受けてるのか。……わかりづらいな! ……えっと、それで質問って?」

「何できーきは美術部なの?」

「あー…………」

 成る程、面倒な質問だ。いや、答えるのが面倒なのか。

 ま、いい。話して得があるわけじゃないが、損するわけでもない。パレットを机に放り、絵筆をバケツに突っ込んで、僕は軽く伸びをした。ぐぐっと。

「去年は卯生、B組だったからな」

 因みに僕は、二年連続でC組だ。

「そう。だから『幽霊部』が出来た過程も、きーきがここにいる過程も、よく知らないんだ」

「大したことがあったわけじゃ、全然無いんだけどね」

 きっかけは、一年よりも前……この学校に入学した時にまでさかのぼる。

 高校一年生の入学式当日、式は体育館で行われたが、待機場所やらは一年C組の教室だった。毬雲雛鳴、ま。水梳軌跡、み。五十音順で席に座らされたので、不自然な運びは何もなく、毬雲は僕のひとつ前の席に座っていた。その時は、なんだかちっちゃい女の子だなぁ、と思ったくらいだった。ちっちゃな女の子は席につこうとする僕に微笑みかけて、雛鳴って名前なンですよろしくー、と挨拶をしてきたので、こちらも軽く名乗り返し、暇な待機時間を潰すように会話をしたのだった。随分とフレンドリーな奴だな、と思いつつ。

 この学校の生徒として最初に会話をしたのは、毬雲だったのだ。

 話していても思ったし、彼女のクラスメイト自己紹介の時にも思ったが、毬雲雛鳴は結構な変人だった。それまでは保呂羽卯生のことを変な奴だと思っていたが、その遥か上を行っていた。いくらなんでも、名前の前に「美術部員です」は無いだろう。

 ちっちゃくてフレンドリーの次に、変で、そして面白いやつだという印象。

 と言うわけで……何となく毬雲のことを気にかけつつ、高一の序盤はスタートした。やがて、この学校には美術部が存在しないとことが判明する。なら順当に描画部とやらに入るんだろうな、と思っていたら(僕だけじゃない、誰もがそう思っただろう)、毬雲のとった行動は違った。彼女はあくまで美術部員だったのだ。

 のんびり普通に、ちゃっかり強引に、美術部を始めた毬雲。

 入る部活を特に考えてなかった僕は、暇潰しにも近い感じで、放課後の毬雲に付き合ってみた。彼女は美術室を根城にしていた。あまりにも自然に美術室を使い始めるものだから、美術科の先生さえも美術部が復活したのかと、勘違いしていたほどだ。正直な話、はじめの頃は僕も普通にそう思っていた。あるいは描画部の一人として美術室を借りているんだなぁ、と。しかし実際は、何の申請もしておらず、勿論何の許可も下りてない、『幽霊部』だった。

 最初の定期試験までそれが判明しなかったのだから、よっぽど当たり前のように使っていたんだろう。

 逆に言えば、その定期試験が返却された所でバレた。例の数学の点数十七点&テスト用紙の落書き事件だ。ぶっちゃけ他の課目も散々だったわけだが……、それより何より「ビブだもン」の発言が効いた。何それ、とクラス中で話題になったのだ。

 ……実は。

 幽霊部こと現美術部も、最初から最後まで部員が二人きりだったわけじゃない。クラス中の話題になった頃、話を聞きつけ面白がって入部(と言っても美術部に入り浸るだけだが)する輩が、結構な数いたのだ。正確には覚えてないが、少なくとも部としての申請を出せる五名以上の人間はいただろう。事実、そう言う話も出た。

 ――いっそのこと、復活させちまおうぜ――『俺ら』のビブを。

 絵もろくに描けないし、描こうとすらしない、それどころか何の創作意欲も無いような奴等が、たむろし始めたわけだ。ある意味至極当然な流れだったろう。部活を結局選び損ねたり、先輩たちとうまくやれなかったりして、行き場をなくした新入生どもが、目に付いた手付かずのスペースへ掃きためられるように集った――と言うこと。そして、そこで勝手な仲間意識とコミュニティを形成した――だけのこと。

 毬雲と違って、なんて面白くない連中だ。

 毬雲にとっても、面白くなかったらしい。

 亀裂は、あっという間に入った。美術室で行儀悪く月並みな雑談を続ける彼等に、一度毬雲は、「邪魔です」と言った。その時彼等は軽く謝った。次の活動日には何も変わらない。二度目毬雲は、「邪魔です、他でやればいいンじゃないですか」と言った。彼等は美術部室から出て行った。しかし次の活動日には、何も変わらない。最後に毬雲は、「ああ。あなたたち無意味なンですね」と言った。彼等は毬雲を罵倒した。

 えげつない否定の言葉に、キレたのだ。

 無様で醜悪この上ないあの時の出来事は、あまり描写したくない。毬雲も幼く見えるが、彼等のような人間はそれよりも幼稚だ。なまじちっちゃく舌足らずで成績の悪い毬雲は、徒党を組んだ凡人どもには、ひどく矮小で目障りな存在に見えたのだろう。毬雲のために集まってやってるのにとか、それこそ何様のつもりだったのだろうか。

 とにかく、僕はその日、毬雲の涙を初めて見た。

 それで。

 僕はそれ以上、馬鹿らしくて下らない事この上ない、何より見聞きするのに耐えられないやり取りを終らせたくて、介入した。毬雲が目障りなら、コイツのいないところへ行けば良いだろう。絵を描きたいのなら描画部へ行け。何処にも行けないのなら、何処にも居場所がないというのなら、確かに君たちは無意味な人間だ。毬雲の言いなりになりたいのか?

 まぁ、殴られた。

 さらにそれから数ヶ月、友人が出来なかった。

 ただ、毬雲に「あンがとぅ」とだけ言われ、「邪魔です」とは言われなかった。

 その数日後から、『ブービー・ヒナナ』の呼称が広まり始める。毬雲は全然気にしていなかったが、二つ名というより、やはり元は蔑称だったのだ。

「美術部を――続ける理由は無いけれど、やめない理由はそんなとこ」

 自分の絵をかざしてみたりして、そう言った。うーん、青と黒はやっぱいまいちかー?

「ふぅーん……。…………それさぁ」

 卯生は、人差し指で自分の顎を軽くつついてから、続けた。

「嬉しかったんじゃない? ななちゃん」

「んー……? けど、奴等を拒絶したのは毬雲だし、きちんと意思表明したのも毬雲だし……あれはアイツらしい確信的で簡単な物言いだったな……僕はたまたまそこに居合わせただけだぜ。グリコのおまけみたいな感じ」

「おまけ嬉しいじゃん」

「だけどさ」

「だけども、ねぇ。多分、ななちゃんの方はそー思ってないよ。きーきが支持してくれて、嬉しかったんだよ」

「一言お礼されただけだって」

「わかって言ってるでしょ」

「まーね」

 どこか感性のずれた、言動もずれきった変人ではあるが、毬雲は嬉しかったんだろう。結果、僕に対して変な信頼と、変な期待をする事になった。嬉しかったから――悲しくなるんだろう。それがわからないほど、人でなしはやってない。

 けれどそれでも、だ。

「何を言ったところで、決心は揺らがないさ。僕はたまたまそこにいただけだし、毬雲は自分を通しただけだし、僕は自殺をするだけだし、毬雲は悲しむだけ。喜ばせようとして介入したわけじゃないし、悲しませようとして死ぬわけじゃないよ」

「…………」

 う〜ん、と唸ってから。

「きーきは、きーきだなぁ、ホント」

 保呂羽卯生はそう言った。

 諦めたような、でも、さっぱりしたような、笑顔だった。

「そうそう。スーパーマンにもウルトラマンにも変身しない、水梳軌跡君だ。さ、帰るか」

 今の言い回しがちょっと恥ずかしかったのもあって、手早く画材を片付け始める。

「あれ、今日はもうおしまい?」

「絵の具も乾いてるし、丁度いいだろ」

「これは?」

 毬雲の絵をひらひらさせる。

「部室にしまっとくよ」

 自分の絵と、毬雲の筆ペン絵(水墨画?)を重ねて、僕は部室へ向かった。

 二つの絵を見比べつつ、何とはなしに毬雲の言葉を思い起こす。

 …………。

 ……。

 あ、そうか。

「――およ? なんかすっきりした顔してるね。トイレ行って来た?」

「ちゃうわ。ただ、手が届いただけ」

「何によ」

「明日へ続く」

「はぁー?」

 文学的に言えば、もしかしたら皮肉な出来事とやらだったのかもしれない。

 けれど、毬雲の説教のお陰で僕は思い至ったのだ。


 望む自殺の発想に。


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