揺らぎと香りと熱
都の外れ。出廷するには遠く、時間の掛かるその小さな庵は、初めて得た居場所だった。
日課になっている星読をしながら、今夜の月が昇るのを見ていた。雲がかかり読めない部分もあるが、大筋として昨晩と変わらないだろう。天命も地命も、変わり映えしない。一昨日、輝きが増した星も変わらず光度を保っている。
本邸では生まれたばかりの弟と母たちが忙しなく動いているのだろう。
別邸であるこの小さな庵の東に見える半月を眺めながら、まだしばらくは戻ることができないな、と息を吐いた。
諸々の穢れというよりも、赤子は幼すぎて光栄がつい先日引き入れた友に当てられやすい。
――すまんな
この庵に移る前に父が見せた本当に申し訳なさそうな顔を思い出し、溜息が出てくる。
本邸から離れることを謝ったのか、いい年して子が増えることを謝ったのか、年が離れすぎている――十五も離れている――ことを謝ったのか。実父ながらいまひとつ掴みきれない一言に疑問が湧く。
光栄からすれば何でもないことだった。人が人を成すことは、ごく自然のこと。謝罪されても、返す言葉を持っていない。そのことが光栄へ焦りに似た感触を覚えさせた。
思考に飽きると縁に置いたままだった酒杯を一口含み、月と同じく濁った白色を確かめる。舌の上を甘い香りが滑り、どろりと重さを持ったまま喉に落ちていく。
良い酒だ。
父の保憲から貰った甘酒だ。これも、晩の友にしていたので残りは半分になっていた。栓をした木器は確か、左季が降った日に受け取ったものだ。
半人前で、出廷しても大した仕事をしていない光栄に、ようやく式が付いたのだからと奮発してくれたらしい。
だが、実際は識が増えただけだった。つまり、今までと変わらず半人前の上、大した仕事はない。まして兄分の清明がいる限り、陰陽師になるなど無理な話だ。実力差はよくわかっている。星読のみを日課としている時点で暦学生から上ることなど有り得ない。
くい、と杯を飲み、そこに濁酒を注ぐ。今度は舐めるようにちびりちびりと舌に諸味を残して味わった。
娯楽の一つである酒だが、値が高すぎて自分で用意することは到底無理だ。意識しなくても意地汚い飲み方になってしまうが、この癖にいい顔をしない保憲も母も左季も今はいない。光栄は心置きなく貧乏くさい飲みを堪能していた。
ゆるゆると昇る月が中天にさしかかった頃にはその杯も空になった。酔うには足りないが、賀茂家嫡男には似つかわしくない貧乏性が幸いしてか今夜は仕舞いにした。先に眠った識を追って暗い室へと入った。
何も敷いていない板間で目を閉じている左季は、大路を歩けば一人は見かけるだろう童子と少しも違わない容姿だ。コレが神であった存在だとは、光栄の同僚は誰も信じない。光栄も、幼少から知っていなければただの子と思うだろう。だが左季は、賀茂と親しい山に生きていた山神の一つだったものだ。
狩衣姿の左季のそばに寝転がり、目を閉じた。左季の依代である伽羅香木の匂いが強くなった気がする。
目を開け、横にいる左季へ手を伸ばした。暗がりの中でその肌が際立っている。眠る彼女に、いつかが重なった。欲しいのかと問われ、欲しいとは言えなかった緑の中でも伽羅が香っていた。
――その力が欲しかったわけではない。
その美しさが欲しかったわけではない。
その儚さが欲しかったわけではない。
ただ、切り出されていく依代を見て、もう少しだけ傍にいてほしいと思っただけだった。
だから使役する式ではなく、対等な関係である識として左季も人界へと降った。その中で、面白いほど純粋な心に触れてしまっただけだった。
指先に触れた白い頬のやわらかさは、甘い痺れとともに光栄の体に流れた。持っていた力に触れて、綺麗な波紋を作り出している。
揺らぎながらじわりと広がり、腹の奥に落とした酒と力が混ざり合い満ちていく。満たされていった。
甘い香りに目を閉じ、これ以外はいらないと思った。
小さな庵を照らす白月は、縁側に置かれたままの杯と酒槽をなぞっていった。