第二章地下鉄に乗れた男と、乗れなかった男 ###俺は兎 4
改札口で、定期を通し、階段を降り、ホームに出る。ラッシュアワーということで、人と人とが密集したこの空間は寝起きの身体には応える。
しかし、いつも通りのこの道も、なんだかあの日以来、心がウキウキと新鮮な気分で、地下鉄に乗ることが密かな楽しみになった。
だが、昨日は彼女の顔を見ていない。きっとあのまま寝込んでしまったのかもしれないし、あるいは俺のことを疎ましく思い、違う時間帯に変えてしまったのかもしれない。
俺は、階段のすぐ近くの列で地下鉄を待つことにした。いつものこの列。勿論二日前と同じ列で。前には沢山の行列が出来ていた。その列の前方に視線を送る。
いた。前から三番目に彼女が立っていた。あの順番からなら座れるだろう。恐らく彼女は、一つ、二つ地下鉄をやり過ごし、座れるであろうこの地下鉄を選んだのだろう。
しかし、後方の俺の順番からは、座れるわけはない。そんなことはどうでもいい。彼女がいたことが大きい。
彼女は、茶系のコートに紺色のパンツスタイルだった。後ろ姿からはわからなかったが、彼女の横顔でそれを認識できた。
やがて急ブレーキの音がして、このホームに地下鉄がやってきた。前から、その行列が動き、口の中に入っていく。俺もそれに続いて入っていく。
前にいた男がもたもたとした所作で、進むので、何人かに抜かれていく。俺もその男を抜こうと、半身になり、抜き去ろうとしたが、肩にぶつかり、その男に睨まれた。
ようやく中に入り、人の輪を掻き分け、更に中まで進み、長椅子の方まで入っていった。その真ん中に立って、吊り革に掴まった。
「お早う」
二日後にようやく、地下鉄の車内で、彼女と再会することができた。
「あ、お早うございます」
彼女が顔を上げた。
「この間は有難うございました」
こんなに綺麗だったかな、と思えるほどに今日は顔色も良く、凛とした雰囲気を醸しだしていた。
「昨日も休んだの? 駅で見なかったから」
「ええ。熱は下がったんだけど、身体がえらくて」
「休んで、正解だよ」
「あなたの言葉に、甘えてね」
笑うと笑窪が出て、笑顔も素敵だな、そう思った。
「ハハハッ。あ、名前は? 訊いてもいいかな。僕の名は、堤正人二十六歳」
「え? あ、私は、加納千晶」
彼女は恥ずかしそうに俯いた。なんで年を言うの?
「年も言うの?」
「できれば?」
何訊いてんだろ。やっぱ、それは、早計過ぎたかな。
「二十八です」
「年上だったんだ。俺はてっきり・・・・・・・」
「てっきり?」
千晶の顔が曇った。どういう意味?
「年下だと思っていた。もしくは同じ年くらいかと」
「年上だったのよね、これが」
「何処から来てるんですか?」
俺は思った。笑顔が可愛いく、それが子供っぽい女性なんだな、そんな風に思った。
「え~。いきなり敬語?」
俺は笑った。
「私は、名鉄の堀田から来てるんだけど、金山から地下鉄に乗り替えて、栄へ行くんだけど」
「あ、俺は、沢上に住んでるから、歩いてここまできて、地下鉄に乗って、栄まで」
「そうなんだ。近いからいいな」
わりと喋りやすい男性だな。千晶はそう思った。
「変わらないじゃないですか」
なんか、いいな。彼女。彼女と話しをするだけで、こんなにも楽しんだから。
「でも、名鉄に乗って来るし。費用も、それから若干時間もかかるわよ」
やがて電車は栄に着いてしまった。お互いもう少し話していたそうな雰囲気だったが、改札口に到着すると、そこで別れなくてはならない。
「じゃ、私はここで」
「あ、俺はこっちだから」
「それじゃ」
「それじゃ」
彼女は、駅近くの川本で、会計事務をしているとのことで、俺とは、方向が違った。
「あ、」
「何?」
「もし、良かったら、その、」
千晶が首を傾げながら、言葉を待った。
「もう少し話しがしたいなってー」
俺は、言いづらそうにいった。答えの分からぬ要望ほどいいづらいものはない。
「あ、私、今日の七時過ぎなら、空いてるかな・・・・・・」
千晶は、顔を真っ赤にした。あ、考えとは裏腹に、思わず口に出しちゃった。彼は、この言葉をどう捉えるのだろうか。
「え?」
俺は正直戸惑った。突然の話しで、どうしていいのかわからなかったのだ。まさか、明るい答えが返ってくるとは思わなかったから、リアクションが遅れてしまった。こういう時、どうすればいいんだろう。
「だから、七時過ぎには、空いてるっていったの」
照れているのか、少しつっけんどんな言葉が返ってきた。
「ああ、じゃ、俺も、七時には仕事も終わるし、良かったら、そのお茶でもどうかなって」
しばらくして、お互いが笑った。
「何か、年上って、こういう時困るのよね」
「どうして?」
「だって、こういう風に年下を誘導した、なんて思われちゃうもの」
「思わないさ」
俺は言った。
「じゃ、七時でいいかな? ここで待ち合わせをしましょう」
「ええ」
「楽しみにしてます」
俺がそう言うと、彼女はクスッと笑顔を浮かべ、歩いていった。
本当言うと、昨日、ああ、やはり時間をずらされたのか、とがっくりとしたが、思い違いのようだった。
何であんな見ず知らずの人間に馴れ馴れしく、あんなことを言ったんだろう、って後悔したほどだったのに。
怪しい人、と思われたかのもしれない。ナンパ目的の軽い男と思われたかもしれない。
そんな風に、今日に至るまで後悔しかなかったが、実際今、地下鉄で再会できたことに、ほっとしたし、正直、嬉しかった。また、思わぬ返答に安堵もした。まだ、繋がっているだな、と。
だって、人間関係が希薄なこの近代社会なんてものは、ほんとちょっとしたことで、まるでなかったこととして、その行動が消去されていくんだ。
そして、一瞬の行動が、過ちであったことに気づかされるし、取り返しのつかない結果をもたらすことだってある。俺は上を向いて歩いた。
加納千晶は、堤眞人とは違う方向へと歩んでいく。職場が違うため当たり前のことではあるが。
気が緩む。少なからず、緊張していたと思う。正直に言うと、悪い気はしない。むしろタイプかもしれない男と、親しくなれたのだから。
「年下か・・・・・・。何となくそんな感じはしていたけど」
人が途絶えた所で、千晶は独り言を呟いた。人がいる所でこんなことを言えば、怪しい人間に思われちゃう。
第一印象では、何て軽い男だろう、と思っていた。でも、今では正直な人なんだな、って思うようになった。
だって、私が気分を悪くした時、周りの人が、私に好奇な目を向けていたように思う。
でも、その視線を気にすることなく、彼は、私のことが心配だったから、介抱してくれたのだ。
あの時は、ほんと助かった。意識が飛びそうになったのを優しく介抱してくれたのだから。
普通の人だったらやってくれないだろう。だって周りの人の目が気になるに違いない。でも、彼は違った。
そして、面白いことを言っていたし・・・・・・。あんなことを言われたら、会社なんて・・・・・・って思って、気兼ねなく、休むこともできた。
もし、一人切りだったら、あのまま無理して、会社、私の場合は、病院なんだけど、出勤して、そこで倒れていたに違いない。これで良かったんだ。
でも、眞人君って、一体、どんな人なんだろう。興味は、ある。どんな所で、働き、そして、彼女は、いるんだろうか。今夜、訊いてみようかしら。千晶は一人、クスっと笑いながら階段を登っていった。
地上が見えてくると、天気が良く、お日様が差していた。いい天気だ。今日も沢山の人々が歩いていた。大体の人が速足で進んでいく。
なんか、これから朝の通勤が楽しくなるような、そんな気がしてきた。天気がいい、ってこんなにもいいことかしら。
千晶は目を瞑り、青空に向って、背伸びをした。気持ちいい風を感じることができた。