### 俺は兎 3
予定通りに、会社に到着した。何のことはない。あの地下鉄に乗れたことで今日も順調に一日を過ごせそうだ。
ラッキーだとも思わない。俺はいつだってこういう風に予定通りにことが進んでいくのだから。
「ね、大丈夫だった?」
後輩である咲ちゃんが話しかけてきた。俺は、振り返った。今日も可愛いな。そんなことを思いながら。
小柄で、童顔のため、まだ高校生といっても通じる程に幼く見える。これでも大学を出て二年。二十四歳だ。
「何が?」
「堤さん、金山から地下鉄乗ってきますよね」
「ああ」
「なんか、伝馬町で人身事故があったんですよね」
「そうなんだ」
「ええ。飛び降りらしいんですが、電車も停まったらしくて~」
彼女は、語尾を伸ばしながら言った。
「え? 何時頃?」
「詳しい話はわかりませんが、桑田さんが駅で足止めされているって、さっき連絡が入りました。堤さんは大丈夫でした? 地震もありましたし」
「俺は、大丈夫だった。現にこうして、会社にいるんだから。でも凄い揺れたけど、震度どれくらい?」
「震源地は静岡県で震度五です。この辺りは四か三らしいですが」
「そんなに揺れたんだ」
「ええ。でも御無事でほんと良かったですね」
「まあね。地震の後、人身事故だもん。あの地下鉄に乗れなかったら、と思うと、本当に怖いよな」
「そうですね。運が悪ければ、堤さんも桑田さんと同じく、大遅刻でしたよ、恐らく」
「分からないよ。ギリギリで間に合っていたかもしれないし」
「いや、大遅刻。きっと。堤さんが、もし地下鉄を一本でも乗り遅れてたら、桑田さんと同じ運命だったはずです。
だから、今日、堤さんが何事もなく、出社できたのは、きっと、桑田さんが、可哀想に、堤さんの代わりに、そうゆうトラブルに巻き込まれたのかもしれない、かもですね」
咲ちゃんはケラケラと笑いながらいってしまった。意外と咲ちゃんは性悪女かもしれない、と思いながら俺は彼女の背中を見ていた。
運命、ね。きっと、何をやっても駄目な人間はいるのだろう。何かをしようと前へ進むと、何かしらのトラブルに遭う。
人間、紙一重なのかもしれない。そうである人間と、そうでない人間は。俺は思う。だから立ち止まっていては、それだけそのトラブルの波に襲われる可能性が深まる、と。飽く迄も可能性の問題ではあるが。
それより、地震の方も気にはなった。震度三から五。地震と人身事故が重なったことも。何よりあの金山駅に、あれほど人が押し寄せたのを見ることが、初めてだった。
何かがあるのか、何かが始まろうとしているのか、そんなことを俺は、薄っすらとではあったが、感じ取っていた。
それは、そうと、その日は、いやに、仕事もすんなりとはかどり、珍しく定時で帰宅することができた。
何かがある、そんな風に思った。妙だ・・・・・・。まるで、静かに、心の中からさざ波が湧き立つような。
「お疲れ様」
朝の後輩の彼女、咲ちゃんが疲れた顔で挨拶をしてきた。
「お疲れ。咲ちゃんは、まだ仕事なの?」
顔を曇らせ、頷いた。
「ご苦労様」
「先輩は、もう帰るんですか?」
「ああ」
「珍しい。あ、因みに桑田さん、まだ仕事してますよ」
「あ、そう。桑田さん、結局何時に出社してきたの?」
「十一時少し前かな。疲れた顔してましたよ。最寄りの駅からバスが出たらしいんだけど、多くの人が利用してて、それが嫌で、桑田さんタクシーに乗ってきたらしいんだけど、とにかくそこでも行列で。
それで、やっとのことで会社に着くと、取引先がトラぶってて、すぐに岐阜に飛んでったらしいです」
俺は何も言わないことにした。ただお疲れ、と言い残し、会社を後にした。運が悪いんだ、それがこっちにまで感染するのを、必死で防御する意味でも関わるな、と俺の中で信号が鳴っていた。
栄から地下鉄に乗った。行きと違い、乗客も皆疲れた顔をしていた。しかし、俺は疲れてなどいない。そんなものだろう。これがサイクルだ。地球の。
疲れている者がいれば、元気な者もいる。だから地球は廻っているのだ。もし、同じ人間、全ての人間が平等であれば、いがみ合うこともなく、戦争もないだろう。でも、それじゃ、地球は廻らない。絶対に歪みが出来る。そして、ぽっかりと穴が開き、そこから多くの人間が落っこちていくことになる。
こっくり、こっくりと吊り革にしがみつきながら、それで重心を支えるが、覚束ない。膝がガクリとして、それで目を覚ました。単調な波のような振動で、いつの間にか寝入っていたようだ。
あの地下鉄に乗れなかったら、こんなにも早くは帰れなかっただろう。そう思える。
今頃桑田さんはあくせくと働いているに違いない。咲ちゃんの言ったように、俺の代わりに桑田さんが身代わりになったのかもしれない。
ま、いい。そんなことは考えることでもない。今日は、何事にも巻き込まれることなく、仕事がすんなりと終わり、このように、気持ちよく家に帰ることができるんだ。他のことを考えず、家に真っ直ぐ帰ろう。そして、俺は、もう一度目を瞑る。
「うん、うん、うっっ・・・」
「ハァ、ハァ、ハッッァ・・・ダメだ」
「ああ、もう、何やってんのよ、ほんとに」
女のけだるい声。
「ご、ごめん。昨日、呑み過ぎて、というより・・・。その今にも帰って来るかもしれない、っていうこの恐怖。
他のことが気になり、こっちに集中出来ないんだ。わかるだろ。それで・・・ダメみたいなんだよ」
「馬鹿ね。まだ当分帰ってこないわよ。あの人、最近残業ばかりで、いつも遅いから」
「ほんとかよ。じゃ、」
「はあ~あっ。何か、もう、そうゆう気分じゃなくなったから。早く服着て。もしかしたら、今日は早いかも」
「何だよ。お前、さっき、最近は、遅いっていってたじゃないか」
男は、布団の中に頭を潜らせた。
「やめてよ。くすぐったいから」
こんなこと、やっていいとは思わない。だって一緒に暮らしている男の部屋に、違う男を連れ込んでいるのだから。食事だって、住む所だって、面倒をみてもらっている、というのに・・・・・・。
でもさ、最近は私のこと相手にしてくれないのよね。いつも暗い部屋であの人が帰って来るのを待つだけ。
なんか、さ、そんな生活に疲れちゃったんだよね。この退屈な生活に。だって、私はあの人にとって、空気みたいな存在になってるんじゃないか、って思い始めているの。
あの人が帰ってこれば、風呂に入れて、出てきてからは、食事をつくって上げる。
こんなことの繰り返し。私、一体あの人の何なの? もしかして、お手伝いさん?
「さっきの続きしよ」
「だから、やめてって。もう、テンション下がってるんだから、本気で怒るよ」
由梨が、男の腹に蹴りを入れた、その時だった。
ピンポ~ン!
二人の動きが静止した。
そして、貼りついたままの笑顔を解くことも忘れ、二人はお互いの顔を見ていることしかできなかった。
「うそ? 何でこんな時間に帰って来るのよ。どうしよう・・・・・・」
「俺に、訊かれても、そんなこと・・・・・・」
ピンポーン!
「ちょっと、何してんのよ。早く、服、着てよ」
男は、慌てて女から離れた。
ガチャ、ガチャというロックが解かれる音がした。
「ヤバい」
「どうしよう。あの人が帰ってきた」
「こうしちゃ、おれん。いいから、早く服を着よう」
俺は玄関の鍵を開け、上り框で靴を脱ぎ、そして、中に入った。
「ああ、疲れた。ったく。今日は予定が一つ消え、二つ消えたから・・・・・。早く・・・・帰れたけど」
ワンルームだから廊下そのものがない。振り返ると、玄関からすぐにその現場が目の中に飛び込んできた。
なんと由梨がベッドの中で寝ているのだが、布団がいやに盛り上がっていた。
不自然だった。中に何かが入っている。人間の形がはっきりと刻まれているー。
俺は、猛然と駆けより、その布団を捲り上げた。
すると一人の男が現れた。しかも上半身は黒のTシャツを着ているが、下は、下は、何もつけては、いなかったー。
行き場を失くした象さんがブラブラとしているのが目に入った。
「お前、どういうつもりだ!」
俺が大声を張り上げると、男はびっくりして、慌ててベッドを下り、服を抱え、そのまま出ていってしまった。
その時の動きが早かった。目のにも止まらない、というのはこういうことなんだろう。
大柄な男で、体格が良かったが、そんなのは関係ない。俺は、怒りに任せて、その男の背中に向って、怒鳴り散らしていた。
シーンと静まり返ったこの部屋。
何ともやるせなさの残ったこの空間。残された二人は、お互い顔を合わさるのも躊躇われた。
俺は静かに、だが確実に怒りが湧いてくるのを感じた。何という、何という、馬鹿女なんだ。
俺は、俺はこんな馬鹿女と今まで一緒に暮らしてきたというのか。俺の外面は怒っていたのかもしれない。でも、裏切りだとか、そういったものは、もはや感じなかった。
ただあの男の象さんが記憶に残っていて、それがコミカルなだけで、ちょっとしたことで、俺は笑い出していたかもしれない。
それをしなかったことは、ただ単に、由梨がえらく神妙な顔で、項垂れていたからである。
「今日は八時過ぎになるって、いってたのに・・・・・」
由梨がそう場違いな声を、絞り出すように吐き出した。
「逆切れか! 何だよ、その言い草は」
でも、由梨の声で正気に戻った。また怒りが湧いてきた。
「だって、眞人、いつも仕事が忙しいって、相手してくれないじゃない。一緒に暮らしてはいるけど、私はただの空気。空気のような存在みたいじゃない。昔は、もっと違った!」
由梨は、自分でもわかっていた。こんな場面で、言ってはいけないことくらはわかっていた。
でも、日頃の鬱憤が蓄積されていたのか、それは止まらなかった。第三者が見れば、そりゃ、私が悪いに違いない。でも・・・・・・。
私だって、我慢してるんだよ。遊びにだって行きたいし、羽目を外したい。それなのにこんな狭い空間で、何も喋らない男を待ち、ご飯を食べさせるだけ、だなんて・・・・・・。私は、一体あなたの何の?
「出てけ! お前も、あの男のように出てけ」
しばらくはまた沈黙が落ちた。時間が動こうともしない。
「出てってくれないか。お前の顔も、そして、その汚されたベッドも、もう、見たくはないんだ」
出ていくのは、困る・・・・・・。勝手なことはわかっている。でも、私には、帰る場所なんてない。親にだって、何といえばいいのか・・・・・。それだけは、困る。本当に。
急速にさっきまでの想いが消え、萎んでいく。ただ保身に走ろうとする自分の姿があった。
「ごめんなさい。私、あなたに出てけって言われると、どうしていいか、分からないの。ごめんなさい。
自分がしてしまったこと、この過ちをどうやって、償えばいいのか、わからないけど、お願い、出て行けって言われるのが、私、辛いの。お願いだから、私、何でもするから・・・・・・」
由梨は、静かに、まるで呼吸をするように泣き出していた。段々正気に戻ってくると、自分の仕出かしたことの重みを知るようになる。とんでもないことをしてしまったのだな、と。今になって後悔だけが残った。
俺は、何も言えなかった。いや、言えなかったじゃなくて、正直なところ、ほとほとに疲れていた。この部屋に帰る前までは、元気だった。
でも、こんな状況を目の当たりにすれば、誰だって、普通じゃいられない。ショックだって受ける・・・・・・。もう、どうだっていいじゃないか、とさえ思えてきた。
もしかしたら、朝の親友の電話は、このことだったのかもしれない。鴨川は、由梨の浮気を教えようとしていたのかもしれない。でも、俺はその行為を、煩わしく思い、受け付けなかった。そのため、最悪にカッコ悪い状況を作ってしまった・・・・・・。
自分の家で、浮気をされ、そして、その、現場を目の当たりにする間抜けな男。
「そのベッド処分しないとな。でないと、俺が、壊れちまうよ・・・・・・」
俺は、いやに静かな声で、そういった。
しばらくすると俺の背中で、ごそごそと小さな音がした。俺は振り返らなかった。
やがて、ドアの開錠する音が聞こえ、この部屋に風が入ってきたことで、あいつが出て行ったことを認識する。
呆気ない終わり。第一印象がそんな感じだった。ただそれだけだ。ただそれだけのことなんだ。
俺たちは家族でもなければ、他人なのだ。くっつく時は熱いものなのかもしれないが、離れていく時はこんな風に呆気ないものー。
だけど、何なんだ? この後ろ髪を引かれるようなこの想いは・・・・・・。
どうしようもなかった。もう駄目だ・・・・・。由梨はむくっと立ち上がり、髪の毛を手グシで整え、それから洗面所にいき、顔を洗った。鏡に映る情けない自分の顔に、嫌気を覚えた。
一旦部屋に戻り、ハンドバックを持ち、そして、ナップサックに手頃な私物を詰め込んでいく。
一度後ろを振り返ったが、あの人は、自分のことを一度も見なかった。
もう終わりなんだ。自分の軽はずみな行動で起こしてしまったこの過ち、それがとんでもないくらいに大きいことだと、今知った。
由梨は、支度ができると、玄関に行き、靴を履き、そして、ドアを開けた。
冷たい夜風が拭き差し、一気に体温が低下した。それでも、出ていかなければならない。もう、私は、この部屋にはいられないのだから。
どうしよう、ほんと。ここを出て行ったら、私の行く宛てなんて何処にもない・・・・・・。外は、寒いし。でも、しょうがない。
この代償は大きすぎるのかもしれない・・・・・。