表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時空の歪み  作者: 中野拳太郎
5/25

 ### 俺は兎  2


 地下鉄の中にギリギリで入ることのできた俺は、横並びの椅子の真ん中辺りの前で立って、吊り革を握っていた。

 汗の匂いに、皮の匂い、体臭に、服の匂い、香水の匂いが入り交じったこの空間に、必ずしも平常心を保てない俺がいた。気分が参っていた。イラつき、心の中で何度も舌打ちした。


 くっつき合う人間。犇めき合う人間の数々に嫌気を覚えるが、これがサラリーマンの宿命なのだ。しょうがない。

 学生にOL,サラリーマンに気の毒そうな家族連れ。もっと違う時間にずらせばいいものを。

 なぜこんな時間に、しかも満員電車なんかに乗らなければならないのだろう、と他人事ながらに思ってみた。もう、この頃になってくると、さっきの地震のことなど頭から抜け落ちていた。


 何気なく前の長椅子に座る女を見た。女と目が合った。何となく視線を感じていた。

 彼女は慌てて持っていたスマホに目をやり、俺の目を反らした。二十代半ばか後半で、耳が見える程のショートカットの落ち着いた感のある女性だ。茶系のコートに、黒のパンツスタイルの服装をしている。


 何処となく顔色が悪いような気がした。


 そんなことはどうでもいいはずだった。だが、なぜかは分からなかったが気になった。それは可愛かったから、というのも充分にあろう。


「大丈夫ですか?」

 

 びっくりした。自分で発した言葉のはずが、まるで違う誰かが発した言葉のように。


 いきなりのことで、言われた彼女の方もびっくりしたのか、目をキョトンとして、見つめ返してきた。


「あ、あ、顔色が悪くて、気分が悪そうだったから」


 微妙な空気が流れた。そりゃそうだろう。見知らぬ男にものを言われたのだから。




「だ、大丈夫です。私、座っていますから」


 ちょ、ちょっと。ああ、びっくりした。女は一人ドギマギ鼓動が跳ねるのを実感した。そりゃ、気になったから、目の前にいる男を見ていたんだけど。  

 まさか、その男に、いきなり声をかけられるなんて・・・・・・。どうしよう、今まで見ていたこと、バレたのかな。


 ああ、でも、どうしよう。意識が・・・・・・。遠のいていく・・・・・・。

もし、このまま意識をなくしたりしたら、どうなるんだろう。




 その後は、何も喋れなかった。こんなことってないだろうか。いや、ある。俺は思った。

 例えばナンパだ。勇気を振り絞り、声をかけてみるが、相手に無視された時。そんなような感じだ。ああ、言わなきゃよかった。後の祭りとは、このことを言うのだろう。


 やがて、地下鉄は栄に着いた。


 吐き出される人、人、人。その後に遅れることなく俺もついていった。

そして、彼女の背中について、階段を登った。いつもは三番出口。でも今日は二番出口から。

 やめとけばいいものを、彼女の背中を追って、付いてきてしまった。また、恥をかきたいのか。いや、でも、二番だろうが三番だろうが大して変わりはない。

前方にいる、その彼女の背中はとても苦しそうで、息苦しそうに大きく波打っていた。と、その時だ。


「あ、」


 よろける彼女の背中を、俺が支えてやった。


「すいません」


「大丈夫?」


「ええ。ちょっと眩暈が・・・・・・」


 彼女をよく見ると小刻みに身体が揺れているのを知った。痙攣を起こしているようだった。


「まずいな。どうしよう。ちょっと失礼して」


 俺は、彼女の額に掌を当ててみた。


「熱があるな。ちょっと座ろうか」


 俺は、壁際にある長椅子の方へと導き、彼女をゆっくりと座らせ、そして、背中を摩ってやった。こんなことをしてもいいのか、と思ったが、彼女が随分と苦しそうだったから、自然にやっていた。


「大丈夫? 平熱も高いのかな?」


「いえ、どちらかというと、低いのかも・・・・・・です」


 彼女は額に脂汗を浮かべていた。


「じゃ、大変だ。こりゃ、熱があるよ。今から仕事?」


 彼女は肯いた。


「休んだ方がいいよ」


「でも・・・・・・」


「休めないの?」


 彼女は小さく頷いた。額に薄っすらと汗が滲んでいた。


「悪いことは言わない。会社なんて所は、さあ、君のことなんか、なんとも、これっぽっちも気にしていないんだよ。

 そう。ただ単に歯車の一つなんだ。その歯車の一つが無くなれば、また違う歯車を探してきて、付けるだけ。

 それを、誰もが分かっていることなんだけど、そこについていく限り、歯車なんだから一緒に回り続けなきゃならない、と思わされている。ごめんね。熱出てるのに、こんな訳の分からないこと聞かしちゃって」




 彼女は、首を振った。何だろ、この人、でも、なんだか安心するな。そう思った。この人といると緊張なんかは感じないし、むしろ、癒される。不思議な人だ。

 こんなに優しくしてくれて、この人、もしかして、私のこと・・・・・・。そんなわけないか。ただ私が苦しそうだったから、ほっとけなかったんだろう。




「要は、歯車として回らなきゃならないんだけど、時には他の人に回ってもらって、そう、仕事をやってもらったり、手伝ってもらって、っていう意味なんだけどね。

 うん。要は上手くやれよ、っていうことなんだ。とにかく、自分のことが一番大事だよ。

 そりゃ、一人休めば、周りは困るかもしれない。でも、無理して、このまま働き続け、倒れたら、どうするの。

 君にも家族があるだろ。そう。その時、他人は、君の身代わりは出来ないんだよ。もしものことがあったら、君の家族は悲しむよ」


 何、熱弁してんだろう。自分でも途中から訳がわからなくなってしまったことに、今気づき、それを取り繕うために、笑顔を浮かべた。


 それを見て、彼女もようやく笑顔を見せてくれた。


「だから、さ。今から家に帰って、いや、会社に電話して、か。あ、そうだ。途中まで出てきたんだけど、熱があるから、階段で倒れちゃった、って連絡したら。だって本当のことだよ」


 俺は、どうにも気になったので、彼女に電話をかけさせ、休むことを確認し、しばらく様子を見ていた。

 これは、ナンパでもなければ、邪まな浮ついた気持ちでもない。ただ、本当に彼女のことが気になっただけだ。

 地下鉄を降り、改札口に向かう乗客たちが視線を寄越していくが、俺たちのことを、傍目からは、どんな風に見ているだろう。




「わかった。でも、少し待ってね。呼吸を、整えるから・・・・・・。どうしちゃったんだろう、私・・・・・・。昨日までは、調子が良かったのにな。何でだろう。

 でも、良かった。意識はしっかりしているし、手足の痺れもない。だから・・・・・・、もう少し、待ってね。慌てると、よくないから」




 彼女はいまだ苦しそうだった。少しだけ、意識が朦朧としているのか、彼女の言葉を、聞き取ることが困難だったが、もう少しだけ、この場に居てあげよう、俺は、そう思った。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ