### 俺は兎 2
地下鉄の中にギリギリで入ることのできた俺は、横並びの椅子の真ん中辺りの前で立って、吊り革を握っていた。
汗の匂いに、皮の匂い、体臭に、服の匂い、香水の匂いが入り交じったこの空間に、必ずしも平常心を保てない俺がいた。気分が参っていた。イラつき、心の中で何度も舌打ちした。
くっつき合う人間。犇めき合う人間の数々に嫌気を覚えるが、これがサラリーマンの宿命なのだ。しょうがない。
学生にOL,サラリーマンに気の毒そうな家族連れ。もっと違う時間にずらせばいいものを。
なぜこんな時間に、しかも満員電車なんかに乗らなければならないのだろう、と他人事ながらに思ってみた。もう、この頃になってくると、さっきの地震のことなど頭から抜け落ちていた。
何気なく前の長椅子に座る女を見た。女と目が合った。何となく視線を感じていた。
彼女は慌てて持っていたスマホに目をやり、俺の目を反らした。二十代半ばか後半で、耳が見える程のショートカットの落ち着いた感のある女性だ。茶系のコートに、黒のパンツスタイルの服装をしている。
何処となく顔色が悪いような気がした。
そんなことはどうでもいいはずだった。だが、なぜかは分からなかったが気になった。それは可愛かったから、というのも充分にあろう。
「大丈夫ですか?」
びっくりした。自分で発した言葉のはずが、まるで違う誰かが発した言葉のように。
いきなりのことで、言われた彼女の方もびっくりしたのか、目をキョトンとして、見つめ返してきた。
「あ、あ、顔色が悪くて、気分が悪そうだったから」
微妙な空気が流れた。そりゃそうだろう。見知らぬ男にものを言われたのだから。
「だ、大丈夫です。私、座っていますから」
ちょ、ちょっと。ああ、びっくりした。女は一人ドギマギ鼓動が跳ねるのを実感した。そりゃ、気になったから、目の前にいる男を見ていたんだけど。
まさか、その男に、いきなり声をかけられるなんて・・・・・・。どうしよう、今まで見ていたこと、バレたのかな。
ああ、でも、どうしよう。意識が・・・・・・。遠のいていく・・・・・・。
もし、このまま意識をなくしたりしたら、どうなるんだろう。
その後は、何も喋れなかった。こんなことってないだろうか。いや、ある。俺は思った。
例えばナンパだ。勇気を振り絞り、声をかけてみるが、相手に無視された時。そんなような感じだ。ああ、言わなきゃよかった。後の祭りとは、このことを言うのだろう。
やがて、地下鉄は栄に着いた。
吐き出される人、人、人。その後に遅れることなく俺もついていった。
そして、彼女の背中について、階段を登った。いつもは三番出口。でも今日は二番出口から。
やめとけばいいものを、彼女の背中を追って、付いてきてしまった。また、恥をかきたいのか。いや、でも、二番だろうが三番だろうが大して変わりはない。
前方にいる、その彼女の背中はとても苦しそうで、息苦しそうに大きく波打っていた。と、その時だ。
「あ、」
よろける彼女の背中を、俺が支えてやった。
「すいません」
「大丈夫?」
「ええ。ちょっと眩暈が・・・・・・」
彼女をよく見ると小刻みに身体が揺れているのを知った。痙攣を起こしているようだった。
「まずいな。どうしよう。ちょっと失礼して」
俺は、彼女の額に掌を当ててみた。
「熱があるな。ちょっと座ろうか」
俺は、壁際にある長椅子の方へと導き、彼女をゆっくりと座らせ、そして、背中を摩ってやった。こんなことをしてもいいのか、と思ったが、彼女が随分と苦しそうだったから、自然にやっていた。
「大丈夫? 平熱も高いのかな?」
「いえ、どちらかというと、低いのかも・・・・・・です」
彼女は額に脂汗を浮かべていた。
「じゃ、大変だ。こりゃ、熱があるよ。今から仕事?」
彼女は肯いた。
「休んだ方がいいよ」
「でも・・・・・・」
「休めないの?」
彼女は小さく頷いた。額に薄っすらと汗が滲んでいた。
「悪いことは言わない。会社なんて所は、さあ、君のことなんか、なんとも、これっぽっちも気にしていないんだよ。
そう。ただ単に歯車の一つなんだ。その歯車の一つが無くなれば、また違う歯車を探してきて、付けるだけ。
それを、誰もが分かっていることなんだけど、そこについていく限り、歯車なんだから一緒に回り続けなきゃならない、と思わされている。ごめんね。熱出てるのに、こんな訳の分からないこと聞かしちゃって」
彼女は、首を振った。何だろ、この人、でも、なんだか安心するな。そう思った。この人といると緊張なんかは感じないし、むしろ、癒される。不思議な人だ。
こんなに優しくしてくれて、この人、もしかして、私のこと・・・・・・。そんなわけないか。ただ私が苦しそうだったから、ほっとけなかったんだろう。
「要は、歯車として回らなきゃならないんだけど、時には他の人に回ってもらって、そう、仕事をやってもらったり、手伝ってもらって、っていう意味なんだけどね。
うん。要は上手くやれよ、っていうことなんだ。とにかく、自分のことが一番大事だよ。
そりゃ、一人休めば、周りは困るかもしれない。でも、無理して、このまま働き続け、倒れたら、どうするの。
君にも家族があるだろ。そう。その時、他人は、君の身代わりは出来ないんだよ。もしものことがあったら、君の家族は悲しむよ」
何、熱弁してんだろう。自分でも途中から訳がわからなくなってしまったことに、今気づき、それを取り繕うために、笑顔を浮かべた。
それを見て、彼女もようやく笑顔を見せてくれた。
「だから、さ。今から家に帰って、いや、会社に電話して、か。あ、そうだ。途中まで出てきたんだけど、熱があるから、階段で倒れちゃった、って連絡したら。だって本当のことだよ」
俺は、どうにも気になったので、彼女に電話をかけさせ、休むことを確認し、しばらく様子を見ていた。
これは、ナンパでもなければ、邪まな浮ついた気持ちでもない。ただ、本当に彼女のことが気になっただけだ。
地下鉄を降り、改札口に向かう乗客たちが視線を寄越していくが、俺たちのことを、傍目からは、どんな風に見ているだろう。
「わかった。でも、少し待ってね。呼吸を、整えるから・・・・・・。どうしちゃったんだろう、私・・・・・・。昨日までは、調子が良かったのにな。何でだろう。
でも、良かった。意識はしっかりしているし、手足の痺れもない。だから・・・・・・、もう少し、待ってね。慌てると、よくないから」
彼女はいまだ苦しそうだった。少しだけ、意識が朦朧としているのか、彼女の言葉を、聞き取ることが困難だったが、もう少しだけ、この場に居てあげよう、俺は、そう思った。