色々あったけど、前を向いて
翌日の午後。
由梨から電話がかかってきた。久しぶりの声に自分がどう反応したのかも思い出せない。
ただ、今迄の日常であるかのように、ぼくの身体に染みついていた習慣がきっと行動に移していたのだろう。前と変わらぬこの習慣。ぼくは、久しぶりの彼女と接していたに違いない。
「あなたも知っていることだけど・・・・・・」
由梨が喋り出した。
「私は、出ていく前からあなたとは別に、付き合っている人がいた。そして、その人と一緒になるために、私はあなたの部屋から出て行った・・・・・・」
しばらくは音が消えたように、無音が広がっていた。
「でも、分かったの。あなたのいない日常がいかに、つまらなくて、そして、淋しい、ということが。私ね、男と別れたの」
何ていっていいのか、わからなかったが、心の何処かで、こうなるんじゃないのかな、って思っていた。就職さえ決まれば、また由梨が戻って来るんじゃないのかな、って。そしたら、本当に・・・・・・。戻ってきた。だから、ぼくは驚かなかったのだ。
「あいつ、大手に就職が決まり、それで、私のことを、邪険にするようになったんだわ・・・・・・。
それにね、あいつ、最初は、俺が働きだしたら、俺、一人暮らしを始めるから、そしたら、俺の所に来ればいい、っていってたのに、あいつ、いつまでも親の基から独立しようとしないのよ」
ぼくは、それでも何も言わなかった。
そうゆうことか。だから、由梨は、ぼくに電話をかけてきたのだ。しばらくは沈黙が続いた。結局は、こうなるんだ。
「反省してる。結局、あいつは、その程度の男だったのよ。ごめんなさい。
もし、よかったら、こんな私でも、構わないのなら・・・・・・。ごめん。何言ってんだろうね、私。調子いいよね。あんな酷いことしたんだから」
泣いていた。由梨は、しくしくと女々しく泣いていた。
それが彼女の手だということは知っている。それでも、それに乗っかってもいいとさえ思った。それがぼくなんだから。行動力のないぼく。相手のことをすぐに気にしてしまうぼく。
例えば、相手の思いだとか、魂胆みたいなことがわかっても、知らない素振りをし、いつも自分が損をしてしまうぼく。しょうがない。それがぼくなんだから。
「ぼく、就職先が決まったんだー」
その一言だけをいった。もう、他のことは、どうでもよかった。
これでいいんだ。もう、淋しいのは、ぼくも嫌だ。由梨のことが好きなのか、それとも、ただ単に一人でいることが辛くて、傍にいてくれる人を欲していたのか・・・・・・。
わからない。結局は、元の鞘に収まった、というだけのことだろう。今までのように。ぼくは便利屋で終わるのかもしれない。それは、それでいい、とさえ思っている。わかっているんだ。どうしようもないことを。
何も変わらないし、何をも変えられない質なのかもしれない。ぼくは、そういう男なのだ。二十六年間ずっとそんな風に生きてきた。回り道ばかりの人生。
十月一日。あの金山駅にいつもの倍、人が集ってきた日。
多分、あの日が関係しているのかもしれない。金山駅に、異常に人が集まり過ぎたこと。それで地震があったこと。それらがあって、時空が歪んだのかもしれない。
もしかしたら、地表が物凄い重力によって、時空が歪まされたのかもしれない。
そして、たまたま、このぼくが二度、同じ時間を共有することになった。それは確かでもなければ、わかるはずもないのだが・・・・・・。
実際、いまも、宇宙は膨張しているだろう。さらに将来にわたっても。そう、ずっと宇宙は膨張を続けていく。
ということは、想像を超えた大昔、宇宙はいまよりもずっと小さかったのではないか。それよりも前になると、宇宙は一点になる、といわれている。そう。宇宙は小さな宇宙で生まれたのではないか。
そして、エネルギーを支配し、時間と空間だけがある世界を創り出した。
インフレーション膨張により、空間は光よりも速いスピードで一気に広がり、次の瞬間一秒よりもずっと短い時間、ビッグバンという超高速、超高圧の宇宙へと移っていった。
その時ビッグバンによる宇宙の膨張とともに温度は下がり、約三十八万年後、約三千度になったとき、宇宙は晴れ上がり、現在の宇宙の出発点ができたというわけだ。それ以降、百三十八億年後の現在まで宇宙の膨張は続いている、とされるている・・・・・・。
時間と空間は区別できるものではない。
なぜなら時間と空間が一体となって時空ができ、時間と空間は混ざり合う。それが一般相対性理論だ、とアインシュタインは解いている。
エネルギーと運動量の状態が時間と空間の曲がり具合を決める。逆にいうと、重力によって決められた時間と空間の曲がり具合がエネルギーと運動量の状態を決める、ことにもなる。
一般相対理論では、重いもの=重力の強いもののまわりでは、時間が遅く流れるとされている。重要なのはここだ。
ふむふむ。ぼくはさらにページをめくった。
光は基本的に真っ直ぐに進むが、その線上に強い空間があると、くぼみができる。光はそのくぼみに沿って曲がって進むので、その分、余計な時間がかかる。
たとえば、環境条件で類似点が多いとされる火星と、地球での暮らしを比べてみると、火星の重力は地球よりもわずかに軽いので、もし火星で暮らすことができれば、今よりもカラダが軽く感じるはずだ。
では、時間の速さはどうなるのか?
一般相対理論で考えてみると相対性なのでどちらの惑星にいても、それぞれの一秒の感じ方は同じだが、地球の一秒を基準にすると、重力の軽い火星の一秒は速く見えるはず。
さらに言えば、地球の一日は二十四時間だが、地球から見ると火星では二十四時間以上経過しているように見える。
いうなれば、ぼくらが生活しているこの地球上でも、時間のズレ、は起こっている、とされる。
たとえば、ジェット機で移動している間は、地表に比べて時間が遅く進むことが、特殊相対理論によって証明されているし、エベレストの山頂や赤道直下では、地球の自転による遠心力で重力が軽くなり、一般相対理論によって時間の進み方が早いということもわかっている。
さらに地球の自転による効果を含めると、結果として時間の進み方がゆっくりとなることまで示すことができる。
何がいいたい?
一般相対理論においては、重力は空間(時空)を歪ませ、時間の進みを変化させる。
このため重力ポテンシャルの低い惑星上では、重力ポテンシャルの高い宇宙空間に比べて時間がゆっくり進むことになる。例えば、地球上で一秒当たり百億分の七秒遅くなる。
時間の遅れだ。
もしかしたら、浦島太郎、というのは考えられない話ではないのかもしれない。
例えば、ある人が、宇宙人と共に、円盤型宇宙船に乗って、目的地へ光速移動したために地球との時間の進み方にずれが生じた。
そして、目的地では数日の滞在でも、地球に戻ってくると、何百年という時間が過ぎていたというわけだ。
有り得ない話しではなかろうか。もしかしたら、実際、ぼくの、ここ何か月間の体験からも、それは実証されるのではないか。
しかし、あの日。金山駅に、なぜあれほどまでに人が集まってきたのだろう。
それは分からない。偶然だったのかもしれないが、必然だったのかもしれない。だが、集まって来たのは、確かだ。
だから、その重さに地表が耐えられず、大きく揺れた ー。
そして、あの日。時空は歪んだのだ。きっとそうだ。だからぼくは、同じ瞬間を二度、経験することとなった。恐らく世界中で、ぼくだけがそのことを知っている。
それがどうした、といわれれば、それまでだが。とにかく僕はここ三か月間。デジャブ 既視感を体験していたのだ。
その中で、ある時は、自分が死に。またある時は、女の人が死んだ。
それを運命といってしまえば、話しは終わるのかもしれないが、それだけでは済まされない。
人生というものは、きっと、誰かの犠牲によって廻っているのかもしれない。
ぼくは、時空が歪んだのを目の当たりにしても、結局のところ、どうすればいいのかも、この先どうやって生きていけばいいのかも、わからない。何もわからないのだ。
もしかしたらこんなぼくが生きるよりも、彼女の方が生きるべきだったのかもしれない。
ぼくなんかよりも、ずっと役に立つ人間なんだし・・・・・・。
きっと、ぼくは、ただの偽善者なんだ。楽なことばかりを考え、辛いことからは、逃げる。
こんな風に、時空が歪んだとしても、答えなんて、出るわけもなかったんだ。自分の将来の選択をするのは、自分しかいない。
答えを得るのは、自分の力で得るしか道はない。誰かから得ることなんかはできない。だって、その人が間違っていれば、どうするっていうの?
その人に悪態でもつくとういうの?
そうゆうことだよ。自分で納得するしかないんだ。
ところで、君は、一体、何が知りたかったの?
「ね、眞人、訊いてる?」
「は? 何?」
「また訊いてない。だから・・・・・・。あんた、今何処にいるのって訊いてたの。変わってないね、眞人」
「そうかな。今は、図書館にいるよ」
「そんな所で何してるの?」
「宇宙について、調べているんだ」
生命というものは人と人との犠牲の上で成り立っているのかもしれない。
そうだ。ぼくが生き延びたことで、彼女は死んだのかもしれない。だってもう少し早く、あの一宮駅にぼくが着いていれば、ぼくが被害者となっていたのかもしれないのだから。
それは・・・・・・。もういい。とにかく、彼女は、ぼくの身代わりになってしまったのだろうか?
そんなことはわからない。でも、だからといって死んでいい人間なんかはいない。
結局、今、生きている者が、今をしっかりと、全力で、生きていかなければならないことに、間違いはないだろう。
だって、選ばれた人間なのだから。
今を生きている人間は、きっと、篩から零れ落ちることなく、ちゃんと残ることができているのだ。だから、それだけでもすごいことなんだよ。
それだったら、ありのままで、そう、楽しく生きていくしかないじゃないか。楽しく生きてみよう。
いつの間にか電話が切れていて、それから間を置かず、また、電話がかかってきた。
「俺だ。お前ら、寄りが戻ったんだってな」
鴨川の声を久しぶりに訊いたような気がした。この安心できる声音が、今のぼくには心地が良かった。
「な、今、お前何してんだよ」
「図書館で調べもの」
「今どきそんなものスマホで調べりゃ、出て来るだろ。何古典的ことしてんだよ」
「何も古典的なことじゃない。ただ単に図書館で調べものをしているだけさ。それだけじゃない。ぼくにとっては、ここが一番落ち着く所なんだ」
「ふ~ん。ところで、今暇か?」
「まあね」
「それじゃ、理恵を連れて、お前ん家に行くから、コンビニで酒とつまみ買ってこいよ」
「金出してよ」
「またか。奢れよ」
「嫌だね」
「由梨ちゃんも連れていくから」
「何で? どうして、鴨川が連れてくるんだよ」
「実は、今一緒にいるんだよ。それで、由梨ちゃんが謝りたいっていうからさ、俺たちが背中を押してやってる、ってとこだよ。
由梨ちゃん、これでも心底、悩んでいるんだぜ。もういいじゃないか。許してやれよ」
「そうゆうことか」
「そうゆうことなんだよ、これが」
電話の向こうが騒がしいことに今気が付いた。結局、元に戻っただけなのかもしれない。
でも、一つだけわかったことがある。今生きている者は、篩から落されずに、残った者たちであり、選ばれしものなのだ。
せっかく選ばれたのだから、楽しまなければならないだろ。一生懸命生きて。そう、楽しんだものが勝ちなんだ、この世の中は。
「もう一回、由梨ちゃんの声聞くか?」
「いいよ。後から来るんだろ」
「ああ」
「その時でいいよ」
いや、今聞いておかなきゃいけないのかもしれない。
「今、そこにいるの?」
「ああ。隣にいるよ」
「ちょっとだけ、代わってくれないか」
「わかったよ」
すぐ傍で、息を飲む気配を感じた。
「今、代わったよ」
由梨の声がした。あの時と変わらぬ声。
「家で、待ってる」
「うん」
その短いやり取りで、ぼくらは分かり合えたような、妥協し合ったような、と言った方がいいのか、とにかく、元に戻ったんだ。変な気持ちのままではあったが、とにかく、これで和解したようだ。
ぼくは就職を手にした。そして、彼女も手にした。これからだ。ぼくの人生は、これから良くなっていく。それは確信に近い考えだ。他の人がどう思おうが、関係ない。自分がそう思えば、それが事実なんだから。
とにかく色々な人生がある。地下鉄に乗れた人、乗れなかった人。例えそれが何らかの結果を生んだとしても、それは事実とは限らない。たまたまそうであっただけなのだ。
地下鉄、という物体は、ぼくにとって単にツールだったのだ。何でもそうだ。人生の選択は、自分でするもので、導いたその答が、正解なんだ。
間違えはない。選択の答えを出すまでは、大いに悩めばいい。ツールだっていっぱい使えばいい。
これでいいんだ。これで・・・・・・。深く、考えることはない。だって、社会はぼくが思っているほどに、複雑なものではないのだから。
人間にとって、基本の衣、食、住、この三点が揃っていれば、他は、大した意味はなさない。そのどれかが脅かされたのであれば、その時にでも、考えればいいことだ。
だって、人間は、どんな時代であっても、時間と共にそれらを乗り越えてきたんだ。
歴史上でも、例えば、戦時下の基、今まで生きてきた場を追われることになり、新しい大地へと移動しなくてはならなくなり、その場所で、根を生やし、生活をし、そして、生きていく。そんな適応力だってあるんだ。
そりゃ、すぐには解決してくれなかったかもしれない。その時は環境が変わったことで、死ぬほど苦しんだのかもしれない。
今は最悪かもしれない。でも、明るい未来。時間が忘れさせてくれる、解決してくれる、と言われ、それで、心を落ち着かせてきたのではなかろうか。だから、その言葉があるから、意外と人間って強いものなのかもしれない。
ぼくは、図書館を出て、歩き始めた。そして、今まで頭の中で開いていたページを、ゆっくりと閉じて、胸を張った。
すると目の前が明るくなったような気がした。何もかもが新しい生活になってようで、今までの鬱蒼としたものが取り払われていく。
早速、近くのコンビニに入店し、物色した。
鴨川の好きな物。
理恵ちゃんの好きな物。
そして、由梨の好きな物。
それらを籠の中に入れていくと、自然と笑顔が浮かぶ。今夜は、久しぶりに明るくなりそうで、心が段々と軽くなっていくのを実感できた。
了




