△△△ ぼくは亀 8
― 一月二〇日 ―
「明日からすぐにでも、働いてもらいたいんだ。君は営業を希望しているが、実はね、先日、組み立ての方で不良を出してしまってね。
お客様の納入が迫っていて、逼迫した状態なんだ。だから、今も応援体制を設け、選別をしているんだが、それでも人手が足りない。
そこで、悪いんだけど、うちの会社としては、猫の手でも借りたい状況だ。営業と現場では畑違いだが、来てくれるかね。勿論選別が終われば、営業の仕事に移ってもらうから安心してくれ」
「わかりました。明日からでも御社にいって頑張りたいと思います。宜しくお願いします」
ぼくは力強く言った。
「良かった。それじゃ待っているからね。最初は作業服での従事となるけどいいかい?」
「はい」
「作業服は一着支給となっていて、二着目は半額となっている。取り敢えず、弊社の方で一着用意しておくよ。ロッカーも用意しておくから、私服で来ても構わないから」
「わかりました。宜しくお願いします」
ぼくは、やっとのことで自動車部品を製造する会社に、営業として就職が決まった。従業員は三百人程の中小企業で、トヨタ系の下請け会社だ。
長かった。ほんと、長かった。そして、今までにないくらいに苦労をした。この複雑化した社会の中で、いかに職を見つけるということが、どれほど難しかったことか。
何度も失敗を繰り返し、受かったと思う企業にソッポを向かれ、それでも根気よく、諦めることなく、面接を繰り返し、そして、取り組んできたからこそ、乗り越えられたんだと思う。自分を褒めてもいい。だから思いっ切り褒めてやろう。
だが、本当のところは、ぼくは、この就職に納得出来たわけではない。ただ、取り敢えずスタートラインに立てた、というだけのことで、それを土産に、すぐさま実家に帰ることにした。
ここからなんだ。ぼくの道は、これからもっと辛い道のりが待っているかもしれない。でも、この経験は先で絶対に生かされるはず。人生に、無駄なことなんて何もない。そう思える。壁はいくつもある。でも、人間にはそれを乗り越える力があるはずだ。だから前へ進むことができる。
門を潜ると、ぼくは、喜び勇んで、現況を報告した。親も最初こそ、なぜかはわからなかったが、一つ、二つ文句を言ってきたが、ホッと、安心することができたようで、笑みが漏れるようになった。
食事を進めている中でも、会話は続いていたし、親父がビールを飲み始めたことで、それを実感することができた。
ぼくは、明日から仕事ということで、いいだけ自分の話しをして、気が済むと、帰ることにした。
「ま、これからだぞ」
ぼくが玄関先まで出てくると、親父が言った。ぼくは靴を履き、親父の顔を見た。久しぶりに見る親父の赤い顔。今日は大分飲んだことがわかる。何はともあれ、ほっとしたんだろう。
「うん。今度はうまくやるよ。心配かけて、悪かったね」
「ちょっとは、心配、したかな」
「体には気を付けるんだよ」
母親が心配そうに言った。
「あんた、お金に困ったら、いつで戻ってきなよ」
ぼくは、母親の顔、それから親父の顔を見た。二人共、頷いていた。
ぼくは、二十六にもなって、いまだ親に迷惑をかけているお子様に過ぎない。
でも、なんだこの二人から出される安心感は。それは揺るぎないものだった。
「大丈夫だよ。ま、とにかく、これから頑張るよ」
ぼくは、そのことを心に誓い、実家を後にし、外に出た。
ぼくは、心なしかほろ酔い気分で夜道を歩き、駅に向かっていった。
前方に、老婆が覚束ない足取りで、買い物かごを背負い、よろよろと歩いていた。
何でこんな時間に、一人だけで夜道を歩いているのだろう。買い物に来たんのだろうか。だが、なぜこんな時間帯にいるのかが不思議に思った。一人暮らしだろうか。
気になった。もしかしたら旦那を亡くし、一人だけなのだろうか。でも、僕には何もできない。詮索することでもないのだが・・・・・・。
― 思い出した。あの日、あの時、金山で地震があった日だ。ぼくが覚束ない足取りの老婆を助けたことがあったのだが、あの時の老婆ではないか、似てる、そう思った。
その老婆の後ろを、速足で歩いて行く女がいた。
その女は今、目の前の老婆を追い抜こうとしている。思い出した。こんなことがあるのか。またもや、あの金山で地震があった日に見かけた人だ。
ショートカットで、切れ長の目をしたキャリアウーマン風の彼女。地下鉄でぼくの前にいた彼女。そんな彼女と時々目が合うから、はっきりと覚えている。
こんな所で彼女の背中を見るのが不思議だった。なぜこんな所に・・・・・。そう、頭の中に疑問が浮かび上がった。
名駅や栄でならば頷ける。でも、ここは名古屋市ではなく、一宮市なのだ。もっとも地下鉄で顔を合わせているだけで、彼女の素性など知らぬのだが。
彼女の後を追った。というよりも駅に向かっているので、必然的についていくことになる。
恐らく名駅か、金山にいくのだろう。電車に乗ったら、話し掛けてみようか、そんなことが頭を過った。彼女はどう思うだろう。
不審者に思われないか。いや、毎朝顔を合わせているんだ。心の何処かに、気に留めていてくれるに違いない。
ぼくは一定の距離を保ち、彼女に付いていった。早すぎず、遅すぎず。出来れば、合流するのは、明るい場で、そう駅に入ってからの方がいい。
― その時だ。
物凄い風の音を聞いた。
黒色のクラウンが常人ではないスピードを出して迫って来た。
その前方に彼女の姿がある ー。
パアァァァ~ン!
いきなり大きな音がして、ぼくは振り返った。
「危ない!」
思わず声を出していた。
一人の女の背中に向かって、黒のクラウンが突っ込んでいこうとする。ショートカットで、切れ長の目の彼女に ー。
あの地下鉄で、ぼくの前にギリギリで間に合い、中に乗り込んでいった彼女。タイプかもしれない、と思っていた彼女。ぼくがいつも横目で見ていたあの彼女。
それから街中で由梨と男が肩を寄せ合いながら歩いているのをぼくが発見し、後ろから女々しく、口を開けながら見ていた、その僕の後ろ姿を、笑いながら見ていたあの彼女だ。確信した。間違いない。
ああ、危ない。― 気が付くと、ぼくは走っていた。
― 時間よ、止まってくれ。彼女が危ない。
パアァァァ~ン!
だが、何も出来なかった。ただあの時のように、目の前で地下鉄がぼくの前から過ぎ去っていった時のように、僕は、口を開けて見ていることしか出来なかった。
クラウンが、警音器音を立てながら、物凄いスピードで、彼女の背中に向かって突進していく。
何とかできないものか。
でも、それはスピードを上げ、獲物を追う狼のように、一目散に、彼女の背中を追いかけていく。
危ない!
ぼくは力の限り、叫んでいた。せめて彼女の耳に届いてくれー。
クラウンがガードレールに激突して、停まった。
白煙がもうもうと立ち込めていた。
その煙りの中から彼女の姿が浮かび上がった。
後頭部から血を流し、力なく横たわる彼女の姿に、ぼくは何をしていいのか、すべきかを全く理解も出来ず、ただじたばたとしているだけで、何の役にも立たなかった。
女に追い抜かれた老婆が、買い物かごをほっぽりだし、女の元へ急いで向かっていくのを確認するが、自分では何も出来なかった。あ、あ、あ、声にすることもできない。
(もう少し、早かったら・・・・・・。早く歩いていたのなら、自分が轢かれていたー。あの時の、地下鉄のホームで男性に言われた言葉が甦ってきた)
ぼくは、彼女のことを思うのではなく、自分のことを思っていた。
それはそうだ。話したこともなく、付き合っていた、というわけでもない。情もなければ、それは自分の命の方が大事に決まっている。
そう思おうとするが、何処か切なく、変な感情が湧いてくる。それは、目の前で人が死んだから、ということだけではなく、ぼくの心の中に存在していた何かが、命を落したんだ。
何なんだ、この心にポッカリと空いた大きな穴は・・・・・・。
― 何処かで、この景色を見たような気がする。
ぼくは、今まで、幾度となくこんな既視感に苛まれることがあった。わかっているんだ。ぼくにだけ時空が歪んでいる、ということを。
だからこんな風に地下鉄に乗れた、乗れなかっただけで、性懲りもなく、同じことを繰り返すんだ。きっとそうだ。
もう、うんざりなんだ。何で僕にだけ、こんな風に同じ既視感に苛まれなくてはならないんだ。一体、ぼくに何をさせたいんだ?
教えてくれ、もっと具体的に。
こんな無意味なシーンを何度も見せられて、一体、ぼくに何をさせようとしているんだ。
ぼくには、どうすることもできないんだ・・・・・・。
パアァァァ~ン!
頭の中で、いつまでも車の警音器が鳴り響いていた。




