最終章 既視感 $$$ 狼 Ⅱ
― 一月十九日 ―
このところすっかりやる気を失くしていた。何もやる気を起こさない。悪いことはわかっている。でも・・・・・・。
男はこの日も会社を無断で休んでいた。そのことを家族には黙っていた。会社に行くと見せかけ、違う所に出かけていたのだ。
図書館で新聞を読み漁り、見たくもない本を読み、眺め、時間を潰し、デパートやスーパーに用事もないのにいく。
そこで何時間も潰して、夜の六時頃に、ようやく家路へと向かう。こんな風に、町を宛てもなく、ただブラブラと歩き、時間を潰すことで少しはストレスも緩和されていった。
今日も無断欠勤をしてしまった。反省というのか、肩を落し、帰宅すると、突然顔を赤くした女房がすごい剣幕で出てきた。
「あんた、一体どういうこと?」
開口一番、激しい言葉で罵られるように攻撃を受けた。
「さっき、会社から電話があったわ。そしたら、あんた無断欠勤してる、っていうじゃない。
今日だけじゃなく、このところちょくちょくあるって。どういうことよ。え?
携帯も切ってて、何度かけても繋がらないから、って。上司の佐川さんが困ってたわよ。もう、恥ずかしったら、ありゃしない」
言葉を挟む余地などなかった。
「何でそんな子供騙しみたいなことするの?」
何も言えなかった。まさかバレるとは・・・・・・。
「これじゃ、奈津美にも何ていっていいのか。うちのパパは会社ズル休みしてるんだよ、とでも言うの? バカじゃないの。もっと家族のことや子供のことを考えてよね。
そんな仕事のやり方で、いいと思ってるの? それに、二十年近く家のローンだって残っているというのに。子供だってまだ小さいのよ。これからの学費、高校や大学だってあるのに・・・・・・。給料は上がらない。もう! 一体、どうするつもりよ!」
嫁と口論、というのか一方的に罵られるだけだった。これ程肩身の狭い思いをしたことはなかった。
バカバカしい、と思った。同じ言葉の繰り返しだ。もうちょっと違う教養のある形容の仕方もあっただろうに。
これじゃ、ヒステリーに任せて言い放つ、暴言の数々じゃないか。訊くだけ野暮とは、このことを言うんだ。何で、お前らは、俺のことをわかってくれない。
何度も何度も罵声を延々と浴びせられ、精神的にもやられてきた。これ程までに、相手を叩きつけるようなマシンガン女だとは思わなかった。
昔から自分は、口が立つ方ではなく、言い合いになると、最後には手が出ていたタイプだ。
でも、嫁には一度たりとて手を上げたことはない。それだけは絶対にしない、と心に誓っていた。でも、この時ばかりは・・・・・・。
男と女とでは絶対的に腕力が違う。何より、今回の件に関していえば、無断欠勤のことを黙っていた俺に非がある。それはわかる。
圧倒的に俺が悪い。なので、嫌気の差した堂山の取った態度は、家を飛び出ていくしかなかったのだ。
そして、お互いの頭を冷やす冷却期間が必要だと思った。ただ、この行いが必ずしもいいとは限らない。今は何も考えたくなかったし、頭の中が真っ白になり、考える余裕など、なかった。後々、事態がもっと悪い方へと、向こおうとしていることにも気づかずに。
堂山は外で、酒を浴びるように飲むが、自分の心を癒すことはできなかった。
どうする? どうしよう? 啖呵をきったのはいいが、どうすればいい? そんな単語だけが、延々と頭の中でグルグルと廻る。
気持ち悪くなってきた。これほどまでに酒の味を、覚えなかったことはない。
ついには悪酔いをしてしまった。逆ギレをして、家を出なかければ良かった。そんなことが頭を過り、なかなか酔えない。
それが嫌で、どんどんと黄色や透明、時には白や赤色の液体を、グラスに注いでいった。
嫁の恵との出会いは、三十六歳の時だった。知人の紹介で知り合ったのだが嫁の方は、再婚だ。
堂山は、長らく独身を続けており、仕事も不規則で、プライベートに使う金も少なかった。だから貯金も沢山あった。
しかし、お互い年も取っていた分、それに恵は再婚というのもあり、籍だけを入れ、結婚式をすることはなかった。
だから、金に余力があったのかもしれない。マンションを買ってしまった。
最初は子供を作るつもりもなかった。でも、なんとなく、そういう気になり、自然に奈津美が生まれた。何事も計画性のない性質がいけなかったのかもしれない。やってしまったから、そうなってしまったから、と昔から受け身のまま抵抗を示すことなく生きてきた。
そんな奈津美も、今では八歳になっていた。顔は俺に似たせいか、客観的に見ても、可愛いとはいえないが、なんせ初めての子だ。自分の中では、目の中に入れても、痛くはない。それほどに可愛かった。
奈津美は、小さな頃は、自分によく懐いていた。何処に行くにも付いてきたし、自分に纏わりつくように一緒に歩いてくれた。でも、今となっては恵のせいで、懐かなくなってしまった。
はああっ。溜息ばかりが口に出る。最初のうちは酔えなかった。いくら飲んでも・・・・・・。
だが、知らず、知らずのうちにキープしていたボトルを空けていた。でも、全然美味しくはない。
味などわからない。ただ、コップに並々と注ぎ、そのコップを空にし、こんなことばかりを考え、またしてもコップに液体を注ぐ、その繰り返しだった。
その機械的な動作を続けていれば、悪酔いするに決まっている。堂山彰浩は、その店をどうやって出たのか、全く記憶がなかった。
そして、今何処にいて、自分は何をしているのかさえわからなかった。ただ一つだけわかったことは、こんなことは今までに一度もなかった、ということだけだろうか。




