### 俺は兎 7
今日は仕事が早く終わったのもあり、こっそり千晶が勤めている病院にいき、そこで彼女と待ち伏せをすることにしよう、そんな風に思った。
喜ぶかな。いきなり現れた俺に、彼女はどんな表情を見せるのか。
楽しみだ。
俺は、近くにあるカフェドクリエで、コーヒーを飲みながら待っていた。勿論、俺が行くことは内緒だ。
スマホを開き、SNSを覗き、次にヤフーニュースで時間を潰しながら彼女を待った。それだけで楽しかった。
今が一番楽しい時期なのかもしれない。いや、これからもきっと楽しいに違いない。だって、クリスマスや新年といったビッグイベントが待っているんだ。
彼女とあれして、これして、こんな所に行ってみたりして、楽しむんだ。
と空想するだけで楽しかった。彼女はどう思っているんだろう。俺なんかと付き合って、本当によかったのだろうか。
いいに決まっている。俺が楽しんだから。もし、俺が少しでも、不安に思ったり、楽しくないな、と思っていれば、きっとそれが相手に伝染する。
現に、俺が不安やそんなことを思ったことがないのだから、きっと彼女も楽しいに違いない。顔を見ていればわかるもの。少々自意識過剰なところもあるが、それほど相違ないことだろう。
時計を見た。六時四十五分。席を立ち、俺は店を出た。彼女は七時に終わる。そろそろ病院の前に行こう。
そこで待っていれば、どんな顔をするだろう。きっと喜ぶに違いない。
ひょっとして、もう帰ってしまったかもしれない。時々七時前に帰り支度をする時もあるそうだから。
急ごう。せっかく準備してきたのだ。ああ、カフェで寛いでいる場合ではなかったんだ。
俺って、こういう抜けたところがあるのかもしれないな。いつも早く来過ぎて、時間を持て余し、そして、いらんことに時間を割き、肝心な時に間に合わなかった、なんて時もちらほら。
千晶の喜ぶ顔。夕食を共にしようと急いだ。夕食? いや、待て。彼女は実家暮らしだ。今頃思い出した。
急にご飯が要らなくなったから、と親に言えば、娘の帰宅を待っている親はどう思うのか。
やはり、訊いてから行動するべきだったのかもしれない。それならば、お茶だけでもいい。急いでいるなら、三十分だけでもいい。俺は、彼女の笑顔が見たいだけなのだ。
そこで彼女と会話を楽しむ。でも、心配なこともあるんだ。最近話したこと。
一緒に暮らす親の話しは別として。彼女の病気のことだ。ちょくちょく発作を起こすことがあるといっていた。どうも体調は芳しくないようだ。
でも、クリスマスに日帰りで温泉に行くか、それとも遊園地にいくか。話し合いたい、と千晶は言っていた。嬉しい想いと、あまり無理はさせられない、という不安が交錯し、複雑な想いが湧き上がってきた。
病院に着いた。病院は終了しているため、患者の姿もおらず、ひっそりとしていた。
もうしばらくすると、看護師や医療事務の人が帰宅に向かう頃だろう。酷い息切れだ。普段運動などしてないのに、走ってきたからだ。呼吸を整え、ここで千晶を待つことにした。
病院関係者がポツポツと出てくるようになった。しかし、いくら待っても千晶の姿がない。もしかしたら、帰ってしまったのかもしれない。
「加納千晶さんはいますか?」
痺れを切らした俺は、丁度病院から出てきた茶色のコートに、紺色のジーンズ姿の小柄な女に向って、訊いてみた。
彼女は、不審な視線を向けてきた。
「ああ、自分は友人の堤眞人というものですが、加納千晶さんに話しがあって来ました・・・・・・」
自分を千晶の関係者だと相手に分からせることが、いかに難しいかを改めて知った。
「あ、加納さんは、その、今日、昼で帰宅しましたが・・・・・」
嫌な予感がふつふつと湧いてきた。どういうことだ?
「加納さんは、昼間体調を崩して、それで帰宅したんです」
「体調を、崩して・・・・・。もしかして、また発作を起こした、だとか?」
彼女の表情が、少し緩和した。千晶の病気を知っている者として、警戒感が薄れたのだろう。そんなことよりも、俺の中では、千晶の健康の方が気になった。不安が大きく広がっていく。
「ええ」
「千晶さんが、意識を失くしただとか、痙攣を起こしただとか・・・・・・」
「ええ。今日の昼間に。だからこの病院で診療し、しばらく休ませて、それから帰宅してもらったのです」
「意識は、戻ったのですか?」
「ええ。一人で帰宅することができましたし」
「有難うございました。それでは電話をかけてみます」
「そうしてあげてください。今頃は回復していると思いますから」
女は、そういうと会釈をして歩いていった。
俺は、どうにも心配だった。千晶は、普通の子じゃないんだ。もしものことがあったのなら、と思うと、不安で、不安で勝手に体が動き、気づくと、そのまま地下鉄に乗って、千晶の家に向かっていた。
金山駅で名鉄に乗り換え、堀田まで行く。
皆疲れを背負っているようで、どうにも重々しい雰囲気が構内に充満していた。俺は、その間を縫いながら、先を急いだ。そして、スマホを取り出し、電話をかけてみた。
「俺」
「眞人君」
「大丈夫?」
「え? 眞人君、まだ仕事なの? え、何処にいるの?」
「今、堀田駅に着いたところ」
「え? え? どういうこと?」
「今日、実は千晶さんのこと、喜ばそうと思って病院まで行ったんだ。でも、倒れたって訊いたから、慌てて。うん。心配で・・・・・・」
「ちょっと、ちょっと、私、訊いてないよ。今日来るってこと」
「うん。驚かそうと思って。だけど、いなかったから・・・・・・。それはいいんだ。それより、大丈夫? 今から行くよ。一目でいいんだ。君の顔が見たい。そうしないと安心できそうにない。窓からでもいいんだ」
「明日仕事で、朝が早いでしょ」
「そんなことはいいよ。それより君の顔が一目でいいんだ、見たい。だから家に着いたら、電話するから、少しだけでもいいから。窓から顔を出してくれないか、それだけで満足するから。迷惑はかけない。そしたら帰るよ」
「迷惑じゃないけど・・・・・。だって眞人君、今まで仕事してて、疲れてるだろうから。こんな所まで来て、眞人君の方が体壊すよ」
「大丈夫だって、俺、頭は弱いけど、身体は頑丈に出来ているから」
苦笑いを浮かべるが、恐らく引き攣っていたに違いない。顔が見えるわけではないのに必死で頬を緩めようと努力する。自分でも痛々しいのがわかる。とにかく急いだ。
「待ってて。今行くから。道がわからないから教えて」
彼女の声を聞き、少しだけ安心することができた。俺、本当に彼女のことが心配で、彼女が大丈夫だと知ることができると、改めて千晶のことを愛しているんだな、と認識できた。いつの間にか速足で向かっていた。
大通りを歩き、二区画目にコンビニがあり、そこを左に折れると、細い道に出る。外灯の光さえ疎らでこの辺りは暗く、ひっそりとしていた。俺は言われるまま先を急いだ。
冬の訪れを知らせる木枯らしが体に纏わりつくように拭いてきたが、それでも俺は熱かった。身体が火照っていたからだ。
ようやく千晶の家の前に着いた。二階建てのブラウンの屋根、白い壁の家の前で、立ち止まり、深呼吸をしてから、電話をかけた。
「もしもし、今、千晶さんの家の前にいるんだけど」
シーンと静まり返ったこの閑散とした住宅街。しばらくすると、その二階の窓がゆっくりと開いた。
俺は掌を振って、自分の居場所を知らせる。 ん?
遠目に見た彼女の様子に、少しだけ違和感を覚えた。
スエットを着た女。家で寛いでいるからそう見えたのだろうか。
いや、違う。だって、彼女は髪の毛が短い。だが、今、俺の目の前にいる女は、後頭部で束ねたポニーテールをしているのだ。
うん? どういうことだ。数日の間に髪の毛が伸びたとでもいうのか。それともウィッグ?
しばらくすると後ろの方で、もう一人、女の声がした。
「もう、下がってなさい」
「いいじゃん。見せてよ」
「大声出さないで。下にバレるから」
「大丈夫だって」
後ろから元気そうな声が聞こえてきた。そして、千晶が顔を出した。
「眞人君」
俺は、顔にクエッションマークを浮かべていた。
「あ、妹の真美」
「はじめまして」
隣の髪の長い女が、小さな声で挨拶をした。
「妹の真美です」
「妹さんがいたんだ」
「そうよ。黙っていてごめんね」
千秋は白地で、所々赤いバラが縫ってあるパジャマを着ていた。もしかしたら寝ていたのかもしれない。
「いいよ。でも、寝てた? 俺、心配だったから、様子を見に来たんだけど」
「ううん。横になっていたけど」
「今まで、お姉ちゃん、テレビ見てたんだよ。そんな心配ないって、一種のズル休みなんだから」
妹の真美が割り込んできた。
「もう、あんたは、あっちに行ってなさい」
「いいじゃん。私はお姉ちゃんの彼氏がどんな人か見たかっただけだから。はい、はい。邪魔者は消えますよ」
そういって妹は下がっていった。千晶は、心なしか、頬が緩み笑顔を浮かべるようになっていた。
「有難う。でも大丈夫よ」
「そう。良かった。千晶さんの顔を見て安心できた」
「ね、クリスマス、」
「え? 何? 聞こえない」
「だから、クリスマス・・・・・」
「え?」
スマホに着信が鳴った。
俺は慌てて受信した。
「あ、どうしたの?」
「だってここから大きな声出せば、近所迷惑だし、パパやママの耳に入るかもしれない。何より、恥ずかしいもん」
「え、何が?」
「だからクリスマスの予定よ。私をどっかに連れてってくれるんでしょ。予定、ちゃんと開けとくからね」
「ああ、そのことか。勿論。まだ何処とは決めてないけど、どっかに行こうね。だって初めてのクリスマスだから」
「うん。楽しみにしてる」
「俺も」
「今日はごめんね。せっかく来てくれたのに、こんなところから、それに、うるさいのが出てきたりして」
「うるさいの?」
「うん。私のうざい妹」
「別にうざくないよ。いい子じゃない。きっと千晶さんの事、心配してんだよ。それが分かるもん、第三者の俺が見ても」
「そうかな」
「そうだよ。だから、こんな夜に出てきたんだよ妹さん」
「それはただの野次馬根性からきたのよ、きっと」
「そうかな」
「そうよ」
「それじゃ、明日も仕事だろ。ゆっくり休んでね。俺はいくから」
「うん。ありがとう。嬉しかった」
「じゃぁ」
「お休みなさい」
「お休みなさい」
俺たちは別れの言葉を言い合っても、しばらくは遠い位置ではあったが、いつまでも見つめ合っていた。
帰るのが惜しいと思った。手が触れられないこの距離、息の届かない距離、お互いの話し声の聞こえない距離、それらの距離をもどかしく感じていた。
本当は今、すぐにでも彼女の手を握り、頬に触れ、抱き締め合いたい、そんな風に思った。だがそれが出来ない。今の、それが現実の二人の距離であることを改めて知らされた。
近いようで遠い。手が届きそうで届かない。息を感じることも鼓動の音を聞くこともできないこの距離を俺は呪った。
そして、ようやく背中を向け、歩き出した。そうでもしなければ、千晶はずつと俺を見ていたに違いない。
寒いこの夜風に当たらせるわけにはいかない。だって彼女は、健康そうな顔をしているが、それはマスクであって、実は難病を抱える女性なのだから。
いい加減に、この言葉は、こういう時にも使うものなのだろう。きっとそうだ。なぜなら、彼女に、これ以上夜風に身を曝させてはならない。
俺は、駅に向かって歩き出した。
彼が歩き去るのを確認すると、私は膝から崩れ落ちていった。本当は、しんどい。物凄く。この顔を維持するだけでも、辛かった。
でも、彼にはそれを知られたくはなかった。だって、こんな病弱な女を好きになるわけないんだ。
絶対に後から負担に思われる。それを言われないのも、辛い。だって無理している彼の顔なんか見たくないもの。
急に来てくれたことは、嬉しいけど、でも、健康そうな顔をつくるの、意外と疲れる、のよね。
あの人の前だけでも、元気でいたい。普通のカップルのようにー。それ以外は、何も望まない。だから・・・・・・。あの人の前にいる時だけでもいいから、普通にさせて。
手術を受ければ、もう少し、普通の人間に、なれるのかしら・・・・・・。それだったら、怖いけど、私、頑張ってみようかしら。




