二、
髪を切って、最初に見せたかったのが千晶だった。邪魔が入ったが、やっと彼女と合流し、披露することができた。
千晶は、黒色のジャケットに白のブラウス。下は茶系のパンツスタイルで、白いマフラーを施していた。
「わ、短く切ったね」
「おかしい?」
「ううん。こっちの方が爽やかで、いいかも」
加納千晶の笑顔を見ると、こっちまで嬉しくなり、楽しい気持ちになってくる。待ち合わせは、いつもの金山の地下鉄にした。
栄まで地下鉄で行き、俺たちは、美術館に向かった。彼女が、絵が好きだということから。昨夜の電話で行くことに決めていたのだ。
二人は、美術館内にあるカフェで、寛いでいた。千晶は、ミルクティーを飲み、俺はブレンドを飲んでいた。
「エドバルド・ムンク。十九世紀末から二十世紀初めの美術、ムンクと象徴主義・表現主義。
写実主義に反発し、内的な世界を表そうとした十九世紀末の象徴主義と、外界の事象再現よりも感情や精神性の表出を重視した二十世紀初頭の表現主義。
この展示では、両者をつなぐ存在としてムンクを中心に置き、彼の版画作品を紹介している、とあるわ」
ここは私のフィールドよ。千晶がパンフレットを読みながらいった。前々からこの美術館に来たかったのだ。
「なんか物悲しいところがあるのよね、ムンクって」
「そうなんだ。ムンクって何処の出身なの?」
「ノルウェーの国民的な画家よ。ムンクはね、幼い時に母を亡くし、その後十年もしないうちに姉がなくなるという不幸に見舞われたの。
だから、それが、その後の彼の絵画作品に、影響を与えたといわれている。中でも説明し難い不安が通底している、叫び、は有名よね。知ってる?
私が一番好きな絵画なのよ。人間の心の闇の世界を表現したものとも言われている」
「ま、何となく、だけど。詳しいね千晶さん」
「あれね、あの絵で描かれている人物が発するものではなくて、実は、恐れおののいて耳を塞いでいる姿を描いたものなのよ」
「そうなんだ」
「そう。あれは、いってみれば、ムンクが感じた幻覚なのよ」
「幻覚?」
「そう。ムンクがその時の体験を、日記に書いていたみたいなんだけど。ある日ね、二人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけ、空が血の色に変わった。
ムンクは疲れを感じ、柵に寄り掛かる。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並に被さるようであった。
友人は歩き続けたが、ムンクはそこに立ち尽したまま不安に震え、戦っていた。そして、ムンクは自然を貫く果てしない叫びを聴いた、
とあるのよ」
「へぇ~。まさに芸実だね。やっぱすごいや。だって、普通の人の感性じゃないもん」
「だよね」
「千晶さん。そういう歴史的な観点から、ムンクの絵が好きなんだね」
「それもあるかもしれないけど、なんか、ムンクの物悲しさに魅かれちゃうのよ」
「凄いよ。勉強してるんだね。俺なんか、ただ漠然と、ああ、綺麗な風景、色使いがいい、なんて低レベルなとこしか見てなかったから」
「だって好きだもん。だから調べたのよ」
「そうなんだ」
「うん。これでも私、学生の時に、美術部に在籍していたのよ」
言っちゃった。彼になら、自分の過去のことを曝け出してもいい、そう思った。
「なんか、そんな感じがする」
「ね、眞人君は学生の時、なんか部活やってた?」
「部活?」
千晶は頷いた。
「中学の時は野球部だったけど、ほら、俺運動音痴だし、飽き性だったから、高校からは帰宅部」
「そうなんだ」
千晶の俯いた表情、俺は、彼女の感情を読むことができなかった。がっくりされたのか、そんな風に思った。だが、悲観することはない。俺はありのままの自分をわかってほしいのだから。
その後も俺は、彼女の横顔ばかりを見ていた。彼女の横顔が好きだったからだ。正面から見る彼女の顔も勿論好きだ。でも、横顔が好きだった。切れ長の目、それから髪の毛からちらりと見える耳が可愛い。とにかく、それだけで充分楽しかった。
外に出てきた。
夜空が綺麗で、気持ちがよかった。気候も秋ということから、まだこんな風に歩いていても、それほど寒くはない。いい気候だ。
二人は、美術館を出て、栄の複合施設オアシス21に向った。水の宇宙船といわれる空中に浮かぶ、ガラスの大屋根がシンボルとなっている所だ。そこを二人で歩いた。
ガラスの屋根には水が流れ、美しい波紋を描き出している。水の宇宙船の下に広がるのは緑の大地。
そこはなだらかな芝生の斜面となっており、春と秋とで、それぞれ違った景色を楽しむことができる。
夜の栄の街並みが見え、優雅に聳え立つテレビ塔を眺めていると、時間がゆっくりと流れ、心安らかに、この都心の中にあるオアシスを満喫することができた。
「でも、美術館なんか面白くなかったでしょ」
私は楽しかったけど。千晶は微笑んだ。
「いや」
「眞人君、私の我がままで、付き合ってくれて有り難う」
優しんだね、眞人君。
「楽しかったよ。千晶さんとデートできて」
「ほんと? でも、私のこと、誘ったりして、いいの?」
俺は頷いた。
「由梨とは、別れたんだ」
「そう」
え? 本当に? 眞人君が、彼女と別れた。
自分は、不謹慎なんだろうか。その言葉を聞き、私は安堵のようなものを感じた。
それを顔に出さないよう、必死に真剣な顔をした。人の不幸を、笑ってもいいのだろうか。
千晶の何ともいえない表情。ポーカーフェイスに徹した鉄の仮面。その中にはどんな表情が隠されているのか、知りたいと思った。
「由梨と別れて、すぐに俺と付き合って、というのは、虫が良すぎるかもしれないけど・・・・・・。
だから、最初は、友達でいいんだ。でも、俺は本気で君と付き合いたいと、思っている」
え? どういう展開、これは。もしかして、私の事、好きなの?
どうしよう。眞人君は本当に彼女と別れたのだろうか。それを、確かめたい・・・・・・。
いや、ちょっと待って。私と眞人君は、つい先日出会ったばかりよ。眞人君、私の事、何も知らないでしょ。え、え、友達として、でしょ? そんなの、まさかよね ー。
知りたいと、思ってみたが、それを出来ない今は、俺は進むしかない。だから俺は行動に出た。これが裏目に出ようが、構わない。
本当はもう少し、待つべきだったのかもしれない。様子を見ながら、自分のいいところを分かってもらいつつ、そして、告白した方がよかったのかもしれない。だけど・・・・・・。それができなかった。
「こんな、私でもよかったら・・・・・・。最初は、あなたが言うように、友達からでもよかったら、始めましょうか」
千晶は、最初は神妙に、やがて笑顔が溢れ出し、その後、頬を真っ赤にした。
断る理由など何処にもなかった。だって、私なんか、ね。友達でもいい。眞人君とお話しをしているだけでも、それだけで私は楽しんだもん。
可愛いと思った。そして、今度こそ、幸せになりたい、と思った。始まった、俺たちは今、この場から始まったのだ。
俺たちには、どんな未来が待ち受けているのかわからないが、とにかく今、この場から始まろうとしていた。明るい未来を夢見て。
これほどまでに良い、こんな一日は、今までになかったような気がする。
「口では表せないけど、」
「え?」
俺は、千晶の手を取り、しっかりと握り絞めた。
「こんなに心地いい、夜風を感じられる日は、今までになかった」
「ほんと?」
私も、こんなに良い日なんて、今までになかったかもしれない。なんて心地い風なんだろう。私には、言えない。だって、こんなキザな言葉なんて、キャラじゃないもの。
「ああ」
千晶が、俺を見つめた。
俺はドキッとした。鼓動が跳ねるのを知る。
「もう少しこんな風に歩きたいな」
俺がそう言うと、千晶は微笑んだ。
「うん」
千晶も握り返してきた。白くて、柔らかな手だった。いつまでも、いつまでもこんな風に楽しく、彼女と一緒にいたい、そう思った。
もう裏切られることは、ごめんだ。
確かな真実、変わらぬ感情と安定。それを望み。
多くを望み過ぎかと思ったが、口に出さなければいい。だって、自分だけが思っていることならば、相手にプレッシャーを与えることもないだろう。
ほんと、良い日だな・・・・・・。それなのに私の身体は、この一日を終わらせようとする。
さっきから後頭部を鈍器で殴られるような痛みを感じていた。何でこんな時に・・・・・・・。
お願い、もう一時間だけでもいい、このままでいさせて。痙攣して、眞人君に迷惑をかけたくない。意識だけでもいい、頭が痛いのは、我慢できるから。
―それよりもここで、意識を失くし、気が付いたら家のベッドに寝ている、なんていうのは絶対に嫌。
だから、お願い。もう少しだけ、じっとしていてー。いつも私を苦しめる、もやもや病。
変な名前の病気さん。お願いだから、今日だけは、じっとしていて・・・・・・。だって、こんな楽しい日を、嫌な気持ちで終わらせたくないもの。




