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時空の歪み  作者: 中野拳太郎
11/25

### 俺は兎  5   一、



 俺は、六時に仕事が終わると、ソワソワと心が落ち着かないのを覚えた。七時に千晶と待ち合わせをしているからだ。

 そして、オフィスから出て、六時三十分には、栄の二番口にやってきて、一人ぼけーっと、スマホをいじりながら時間を潰し、彼女を待っていた。待たせるのもどうかと思うが、このように早く来すぎるのも考えものだ。まだ三十分もある。七時まで何をしよう。

 ヤフーニュースを見て、それだけでは時間も余った。スポーツ、芸能などを片っ端らから見ていった。

 ようやく七時を回ったが、それでも千晶は来なかった。どうしたんだろう。仕事が長引いているのか、それとも悪い考えが浮かんでくる。

 もしかしたら、嫌になって、帰ってしまったのかもしれない。ああ、電話番号も知らないし、どうしよう。このまま待つしかないだろう。でも、いつまで待とうか・・・・・。七時を過ぎてからは、時間がわりと早く廻っているような気がする。




「ごめんなさい。待った?」

 

 七時二十分に、栄の二番口に、加納千晶がやってきた。やっと来てくれた。良かった。というのが正直な思いだった。遅くても、来てくれたことが一番だ。


「全然。今来たとこ」


 取り敢えず、俺は、そう言っておいた。


「よかった。仕事がなかなか終わらなくて、ごめんなさいね。電話番号も、知らないし、どうしようかと思ってたんだ」


「いいよ。気にしなくて。ほんと、俺今来たばっかだから」


「本当に?」


「本当だよ」


「嘘。顔が、待ちくたびれてるもん」


「そんなことないよ。取り敢えず、何処にしよう? 今日はお茶だけだよね」


「うん。親と暮らしてるから、ご飯造って待っててくれてるから ー」


「そうだよね。じゃ、何処にしようか」


「スタバでも、よかったかしら?」


「うん。いいね」


 二人は肩を並ばせ、でも一定の距離を保ちつつ、歩いた。朝の電車の時とは違う雰囲気。よく見ると、意外に背が高いことを知った。


「いきなりだけど、身長何センチ?」


「え?」


「いや、俺の肩より大きいから。あ、自分は百七十七センチ」


「私は、百六十八センチ」


 千晶は少し、がっかりしたような、やや暗い顔を浮かべた。


「大きい、つて思ったでしょ?」


「いや、スタイルいいなって」


「また、またお世辞いっちゃって。私ね、本当は小さい方がいいなって思ってるんだ。可愛く見えるし。

 それに、大きいといつも損するんだよ。クラスでは一番前に並ばされたし、運動会でも、男の子とコンビを組まされたりして、運動音痴なのにね、バスケ部やバレー部に駆り出されることもあったんだから」


「そうなんだ。大変なんだね」


「そうよ。大変だったのよ」


「でも、スタイルいいっていったのは、本当だよ」


 それでも彼女は少し嬉しそうに、照れながら、前髪を掻き上げていた。その様が似合っていた。




 スタバに入ると、学生が多く、混み合っていた。

 窓際は全て埋まっていたが、入口辺りの座席に落ち着いた。


「待ってて。俺が注文してくるからさ。何がいい?」


「あ、カプチーノかな」


「オッケー」


 俺はそう言って、すぐにレジに向かった。




 千晶は、言われた通りに席に着いていた。感じのいい人だな、レディファーストが嫌味にならないくらいの所作を持っている、そう思った。

 でも、いきなり待たせちゃったな。二十分も。もしかしたら、彼、もっと早くから来ていたかもしれない。

 もう、嫌だな。初めての日に。いつもだったら仕事、こんなに遅くならないのに。

 何で今日に限って、入力ミスなんかしたんだろう。きっと、心ここに非ず、状態だったのかもしれない。だって、六時頃から極度の緊張があったもん。彼とお茶をすることに対して。どうしようって。




 俺はスターバックスラテ、千晶がカプチーノ。それからチーズタルトを二つ購入し、それを手に席まで戻っていった。


「お金は?」


 千晶が財布を取り出してきたので、それを制した。


「いいよ。俺が誘ったんだから。驕り」


「じゃ、お言葉に甘えて。有難う」


 千晶は、俺が席に落ち着いてから、カプチーノを一口飲んだ。


「美味しい」


「良かった。じゃ、チーズタルトも食べてよ。俺好きなんだ。こういうの」


「そうなんだ。私も甘党だよ」


 ニコリとした千晶の顔が、可愛いなと思った。


 先ずは、仕事の話しをした。


「私ね、医療事務をしているのよ。それで、制服を着て、働いてるの」


「へぇ。意外だな」


「意外?」


「じゃ、どんな仕事してると思ってたの?」


「なんか、営業とか、とにかくアクティブティに動くような」


「きっと、ショートカットにしてるからかな」


「かもね」


「そっか。でも、実は、医療事務管理士 技能認定試験に合格しているのよね、これが。で、受付の後ろにいるのよ」


「そこで、仕事をしてるんだ。一度見に行きたいな」


「いやだ。だってね・・・・・・」


「どうして?」


「だって、恥ずかしいじゃない」


 話しを訊く限り、仲間からも慕われていることがわかった。俺とは、違い、仕事の出来る女性だ。道理でショートカットが様になっているわけだ。そう思った。


 話しを続けているうちに、大分打ち解けてきたかに思える。それがいいことに、千晶がいつも病院にやってくる面々を、面白おかしく、話してくれ、それから病院で働く職員、医師など、そういう人たちと、どういう風に働いているのかを教えてくれた。


 俺は、チーズタルトを食べ終えると、話しを始めた。由梨と付き合っていること。だが、同棲のことは隠すことにした。この点に関していえば、俺はズルい男だ、そう思った。




 結局、あの夜。二時間後に俺は、由梨に電話を掛けたのだった。あんな時間帯に女一人を外に出してしまったのだ。気になったし、男としてあまりにも無責任だったことに気づき、慌てて行方を捜した。

 すると案の所、彼女はアパートの近くの公園で、震えながら、俺の部屋を見ていた。あの日は寒くて、彼女も薄着だった。だから、仕方なく俺は、彼女を中に入れたのだった ー。




 千晶には、由梨が浮気をしていたことを話し、今後のことや、俺が由梨のことをどう思っているのかを語った。

 正直、彼女と半信半疑な想いで、付き合いを続けていってもいいものか、とまだ会って間もない千晶に、そんなことを口にしていたことに、自分でも驚いていた。

 なぜだろう? こんなに短い間でも、彼女になら、何だって言える、そう思ったからか、それとも、由梨とのことを終わりにしたいが、踏ん切りがつかないからなのか。


 きっとこの話を千晶にすれば、何らかの動きをするきっかけに、なりはしないか。そう思ったことは事実だった。実際、俺は、何かが動くのを感じとっていた。


 千晶は黙って、頷くだけで、意見をいうことはなかった。自分が口にすることではない、と思っているのだろう。でも真剣に訊いてくれた。それがわかったから、俺は話した。






 ― やっぱ、彼女いたんだ。ちょっとがっかりしたような、しないような。

でも、初めて夕食を共にし、この人は彼女のことを言った。誠実な人なんだな。別に付き合うだとか、そんなことは考えていないけど・・・・・・。だって、二日前にあったばかりの人に、対して。

 でも、もし、彼の方から言ってきたら、私はどうするだろう。わからないー。そんなわけないか。彼女いるんだし。


 やがて、千晶は言った。


「私も、心に抱えている闇というか、そういうものがあるには、あるのよ」


 千晶は、二年前に失恋したことを語り始めた。


 六つ年上の男と、結婚を前提にして、二年間付き合っていたこと。 

相手は商社マンで、所謂出来る男だった。いつも身分が違うようで、必死で彼に合わせてきたが、途中でそんな彼に疲れてしまった。

 浮気だとか、そうゆうものでもない。むしろ、ちゃんと尽くしてくれた、というよりも、べったりだった。

 私が、ちょっとでも他の男性と話したり、会いにいく機会があると、機嫌が悪くなったし、その後、監視も厳しくなった。今日はいつ帰ってくるの? 今週は会えるの? と。とにかくべったりだった。


「それでね、私から言い出したの」


 俺も彼女の話しを真剣に訊いてやった。


「もう、あなたに付いていくの、疲れちゃったって」


 俺は思った。何処となく彼女は淋しそうだった。もしかしたらまだ、本当は未練があるのかもしれない、と。別れを切り出したのは、彼女だ。でも・・・・・・。


「そうなんだ。で、彼氏は何て言ったの?」


「少しね、取り乱しちゃって、」

 

 彼女は、自分の右頬を摩る。


「叩かれたの?」


「うん。何でって、言ったら、また叩かれた。今度は力いっぱい。だから、男の人がちょっと怖くなって・・・・・・。

 だって、唇から血が出てきたんだもん。親からも叩かれたことがなかったし、怖くて。ショックだったな」


「そうだろうな。叩かれたことがなかったんだから」


 彼女は肯いた。そして、


「でも、その後、謝って来たの。ごめん、ごめんって。でも私、その豹変ぶりも怖くなっちゃって、私しばらく何も言わなかったから、彼、ごめんね、殴る気はなかったんだ。許してくれ、って何度も、謝ってきた。でもね、もう私の気持ちが・・・・・・」


「そこには、なかった?」


「うん」


「別れて,正解だよ。そんな男は、また殴るよ。そうゆう男は自分がしたことをすぐに忘れるんだ、きっと」


「そうよね。私にも分かった。それに、彼は、私のことを愛しているから、別れたくない、そういうことでもなかったのよ。

 きっと、失敗が怖くて、そうなることを恥じていただけなのよ。ただそれだけだった、と思う・・・・・・。

 家族や、友人や、知人、会社の人たちに、別れたのか、って言われることだけが、カッコ悪くて、嫌だったんだと思う。ただそれだけのことなのよ」




 千晶は、そう言った。私って、何で昔のことを、この人に言うんだろう。自分の過去をちゃんと言っておかなければ、いけない、とでも思った? 昔の話しをして、彼に同情でもしてほしかったのかしら。




 俺は、淋しそうな千晶の顔が印象に残った。でも、ここまで正直に話してくれる彼女に、もしかしたら、という淡い期待感のようなものを抱いている自分を知った。


「失敗がね。よくあるよね。エリートにありがちな。完璧主義者。いってみれば、自分の履歴書にフラれたという汚点を残したくなかったんだろうな、きっと」


「そうかもね」


 俺は思った。どうなんだろう。彼女は、俺にこの話をし、何といってもらいたかったのか。自分のことを知ってもらいたい、と思ったのか。




 千晶は、店内の柱時計を見ながら考えていた。私は、何でこんな話を彼にしたんだろう。

 俺はそんな男じゃない、と言ってほしかったのか、あるいは自己防衛の線を、自分で引いて、こんな男とは、付き合えないんだよ、という、防御的な、そういう一種の表現のつもりで言ったのか。






「もうそろそろ、行かなくちゃ」

 

 時刻は八時を過ぎていた。


「そうね」


 俺は、彼女と栄から地下鉄に乗り、金山に向った。俺たちは一緒に座っていたが、彼女は、それ以上話してはこなかった。まだ俺と話しがしたいようだったが・・・・・・。

 きっとこの先は、お互い、自分の中にある問題のような気がした。俺が由梨のことをどうするのか、ではないか。

 そして、彼女の方は、昔の恋に、どう対処するのか。恐怖や、もしかしたらあるのかもしれない未練に対し。そんなことを考えていた。




 やがて、金山に到着した。何か話さなければ、そう思ったが、言葉が出てこない。やがて、俺たちは改札口まできていた。


「今日は、有難う。楽しかった」


「身の上話だけで?」


 千晶が悪戯っぽく微笑んだ。


「え?」


「だって、ちょっとした近況と、昔のことを話しただけよ。それだけで楽しかったの?」


「いや、ま、その・・・・・・」




 彼女はニコリとした。


「ほんというとね、私も、楽しかったよ。有難う」


「ほんと?」


「うん。嘘はつかない」


 

 今だ二人は帰りがたいようだった。まるで別れを惜しむカップルのように。




「実は、私ね。指定難病の二十に指定される病気、もやもや病なの」


「え?」

 

 突然の彼女の宣言に、絶句せざるを得なかった。


「あの日、栄の駅に着いた時、私、痙攣起こしてたでしょ」


 俺は頷いた。




 千晶は言うことにした。この人ならば言ってもいい、と思ったからだ。言ってなんになる。もしかして、彼に、私の重荷を背負ってほしい、とでもいうの?


「えっとね、もやもや病は脳の血管に生じる病気。内頚ないけい動脈という太い脳血管の終末部が細くなり、脳の血液不足が起こりやすくなる病気なの。

 そのため、一時的な手足の麻痺や、言語障害を起こすことがしばしばあるのよ。

 それは、ね。血液不足を補うために拡張した脳内の血管、もやもや血管というものが脳底部に見られることが特徴なの」


「もやもや病? 訊いたことないな」


 取り敢えず俺は、正直に、口にしていた。


「そうかもね。変わった病名だもんね。だって、もやもや病は、人口十万人あたり、六から十人程度しかいないと考えられているのよ。

 それで、もやもや病というのは、家庭内発症する方が十から十二パーセント程度。見られると言われている。

 本人がもやもや病の場合、その親や兄弟姉妹、いとこなどにもやもや病の方がいる可能性が一定程度ありうるということだけど、私の周りにはいないのよね。何でかは、わからないけど」


「難しい問題というのか、いまいちイメージが・・・・・・わかないな」


 俺は、はっきりと言った。


「そりゃそうよ。一般的にも知られていない病気だもん。そして、病気の原因はまだ解明されてはいない」


「そのもやもや病の病気に関してだけど、遺伝なんかは、どうなの?」


「遺伝は、わからないわ」


「そう」


「でね、詳しく言うと、前頭葉ぜんとうようの血液不足による症状が起きやすくて、症状が一時的に起こり、回復することがしばしば見られるから、やっかいなのよね。

 それが一般の人に認知されない理由の一つのうちでもあるわけ。典型的には、手足の麻痺が生じるの。

 あの日もそうだったけど、私、言葉が話せなくなったり、所謂、言語障害や、ろれつがまわっていなかった、なんてことなかった?」


「そんなことは、なかった。ただ、意識が朦朧としてたみたいで、最初の頃と違って・・・・・・」


「症状は出てたみたいね。ごめんなさい」


「そんな、そんなことはいいよ。俺、何もしてないし、ただ付き添ってただけだから」


「ううん。あなたの言葉に、すごく安心できた。有難う」


「いやぁ」


俺は言った。


「言語障害、か」


「言語障害、それはしばし見られることが多々あるのよ。そもそもこの病気が発症したのが、小五の時で、はっきりと覚えてなかったんだけど、激しい運動の後に、息がきれることで病気の発症が、引き金となったみたいなのよ。

 脳内の二酸化炭素濃度が低下して脳血管が収縮し、さらに血液不足になったことが原因だった、って先生が言ってたわ。

 それでね、その時。小五の時だったけど、口の周りや手足のしびれ、頭痛が起きてね、病院に運ばれて、検査をした所、この病気が判明したの」


「小五の時から・・・・・長い付き合いなんだね」


「そうよ。あの時は、まだ軽度の発作だったけど、過去には、酷い時もあって、けいれん発作や、手足が意思に反してガクガクと動いてしまう不随意ふずい運動という症状も稀に見られこともあったわけよ」


 俺は、ただ彼女の話しに頷くことしかできなかった。ただ、顔が硬くなっていくような気がした。それは、多分嫌とかじゃなくて、話しの内容に付いていくのが難しかったからだろう。


「脳卒中も起こしたことがあるんだけど、その予防のためには手術治療が効果的なんだけど、まだそこまでの勇気が持てなくて・・・・・・。

 その手術はね、原因となっている内頚ないけい動脈の閉塞へいそくを直接治すものではなく、新たに血液の供給をするようなバイパス経路を作成する手術よ。怖いでしょ」


 俺は、硬い表情のまま肯いた。


 千晶は、微笑みながら続ける。


「その手術は、血液の中の血小板という成分の機能を抑えて血液を固まりづらくする抗血小坂薬が使用されることもあり、一定の効果があるって言われているのよ。

 でね、脳の血管の閉塞に関しては、最初の診断時と同じ状態が何年も何十年も変わらない人もいれば、徐々に進行していく人もいるの。従って、定期的なMRIなどによる検査が必要になってくる」


「大変、なんだね」


 もっと気の利いた言葉を言いたい、でも今の俺には思いつかなかった。その言葉しか、知らなかったからだ。俺は、何て無知なんだろう、と腹の中で自分を罵り、情けなく思った。


「ごめんね。最初のデートに、こんな重い話しなんかしたりして。引いたでしょ?」


 俺は不定した。そんなことない。一緒にその病気と闘いたい、そう思ったのに、それを言う勇気がなかった。なぜそれを言えなかったのか。

 会ってすぐにいうことじゃない。そんな軽い言葉を言う男に、思われたくなかったからなのか。

 あるいは、いつでも逃げ出せる準備を残しておきたかったからなのか・・・・・・。俺という人間は、意外と優柔不断な人間なのかもしれない。


「いいのよ。嫌いになったでしょ。こんな重荷は、背負いたくない、そうじゃない?」


 俺は不定した。それしかできないのか、とまた自分の心に罵声を浴びせた。





 

 彼は、どう思っただろう? こんな難病の女を抱えたくはない、と思ったのかもしれない。

 だったら、どうなのよ。それに、彼には、まだ彼女がいるのよ・・・・・・。

初めてのデートで、こんなことを、自分の全てを曝け出して、一体、どういうつもりよ? 私、バカ? 

 自分でもわからなかった。ただ、こんな私のことを、少しでも知ってもらいたい、そう思ったことは確かだ。


「だから、私は、病院に勤めているの。だって、安心でしょ。発作なんて、いつ起きるか分からないじゃない。病院にいれば、いつでも診療できるし、私が倒れても、すぐに対応してくれる人がいる。とにかく、安心なわけよ」


 しばらくして千晶は言った。


「ああ。なるほど。そうだよね。うん」


 俺は、バカか? 何でもっと気の利いた言葉を言ってやれなかったんだろう。もしかしたら彼女は、ジョークのつもりで言ったのかもしれないのに。 


「そうよ。これ以上安心できる職場はないでしょ。そのまま入院だってできるし、家族にだってスムーズに連絡がいくこと、間違いなし」


 千晶は笑っていた。でも、何処となく淋しそうな笑顔だった。少し自棄になっているのかな。そう思った。

 そんな彼女を見て、守ってやりたい、そう思った。歯がゆかった。何で俺という男は、気の利いた言葉の一つや二つを言えないし、そもそも何でこんなに知識が乏しいんだろう。

 でも、気持ちだけは持っていた。これは本当だ。何か、彼女に対し、何でもいい、力になってやりたい、そう思った。






 もう、これ以上、この人と一緒にいると、私・・・・・・。


「また明日」


 千晶は言った。なんか、好きに、なってしまいそうだった。


「え?」


「だって、また明日、ここで会うから。でしょ?」


「ああ、そうそう。俺の方は、いつもの時間に出勤するから」


「私もよ」


「あ、」


「何?」


「電話番号、メールでもいいんだ。教えて下さい」


 千晶は、キョトンとした。


「だって、今日みたいに・・・・・・」


「ああ、また、私が遅れるから?」


 千晶は笑顔を浮かべた。


 俺は頷いた。


「いいよ。眞人君も電話番号とメアドも教えて」


「うん」


 俺たちは、通行人がいるにも限らず、二人だけの世界の中に入っていた。


「じゃ、また明日よ」


「また明日」


 俺は微笑んだ。


 彼女も微笑んだ。




 そして、俺たちは違う方向へと足を向けた。十メートル歩いた所で、俺は振り返った。


 彼女の背中が見えた。俺は肩を落し、歩き出した。


 そして、また振り返る。だが見えたのは、またしても彼女の背中。




 いや、ちょっと待てよ。彼女、あまり進んではいなかったな。もしかしたら、タイミングが違うだけで、彼女も俺の後ろ姿を見送ってくれていたのかも・・・・・・。


 俺は、もう一度振り返ったー。





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