ー由梨ー
もうもうと立ち込める煙り。それは煙草だったり、肉を焼く煙で、目が霞み、肺が苦しくなってくる。
油こい匂いに、アルコールの匂い、色んなものが混ざり合っている。統一感のない安っぽい匂いだ。笑い声に、早口で捲し立てる黄色い声、大声で喚き散らす男。とにかくここは人の声で騒然たる賑わいをみせていた。
由梨は、同級生の山口隆俊と居酒屋で、酒を飲みながら夕食を楽しんでいた。
「彼氏と上手くいってないの?」
茶系のパンツに緑色のセーターといった、軽い服装の由梨が肯いた。その後、何かのスイッチが入ったのか、睨みつけた。
「そんなこと、あなたが訊く? あんなことになったっていうのに・・・・・・」
「はあ。で、あの後、どうなったんだよ?」
「あの後、大変だったんだからね。言ったでしょ。私もアパートから追い出されたって」
「追い出された?」
「そうよ。吹き付ける夜風の中に、ポツンとね」
「荷物持って?」
「いや、手っ取り早く、ま、小物だけど、ナップに詰め込み、あとはまた取りに来るか、郵送で送ってもらうつもだった。
それで、出て行って、私行く宛てがなかったから、一人で公園にいって、そこのベンチで座っていたの」
「ああ、アパートから二、三分の所にある、あの公園ね」
「そう。で、一時間、いや二時間くらいいたかな。寒くて、手は痛くなってくるし、肌はカサカサに乾燥してるし、もう嫌になっちゃって、でもしょうがないから、我慢しなくちゃ、ってね。
そしたら、自然に涙が出てきた。私このままどうなっちゃうんだろって。
でも、しばらくすると、彼から電話があって、何処にいるんだ?
って迎えにきてくれたんだ。こんな時間に外に出すわけにはいかない、って。しょうがなく。
でもさ、今まで放り出してたのに、よく言うわ、って思ったけど、その言葉は、自分の腹の中に仕舞っておいた」
「お前、戻ったのか?」
「だって、寒かったし、心細かったんだもん」
「それで、仲直りして、今に至るわけか? ったく、つまんねえな」
「仲直りは、正直、まだしてない。だって、あれ以来口聞いてくれないし、ご飯だって、私に作らなくていい、って言うんだもん」
「そっか、なんか、お前、地獄みたいな所にいるんだな」
「さっきも言ったけど、あんた、よくそういう言葉を、口にできるねわね。えらそうに」
「それを言われると、辛いが。ま、俺にも原因があるわけだけど・・・・・・。でも、お前、前から不満持ってたじゃないか、彼氏に。
そりゃ、社会人は、仕事があるから、俺たちと違って、忙しいだろうし、そうそう時間も取れないだろう。でもさ、それを分かってのことだったんじゃないの、お前」
「うん。最初はね。あの人、優しくて、何でも私の思い通りにさせてくれるからいいと思ってたんだけど、実際長いこと、付き合っていると、ただそれだけだったんだよね。それだけの人」
由梨は、同じ言葉で表現した。それは少し、苛立ちが混ざってのことだったのかもしれない。もう少し、私の事、構ってくれさえしてくれていれば、っていう意味の。
「どういう意味だよ?」
「もしかしたら、この人、私に興味なんかないんじゃないか、ただ、私には、縫い包みのように、その場に居てくれればいい、そんな風に思ってんじゃないかって、ね」
意外と、こいつ、繊細な所もあるのよね。私の抱えている、この思いを、引き出してくれる。
「いいじゃん。家賃だってタダだし。学校にも近いわけだからー。お兄さん。お兄さん。生中追加ね!」
繊細? それは、ないか、とすぐに訂正しておく。山口の声は、アルコールも手伝い、大きくなっていた。
「ん? どうした」
「あんたの声が耳に響いたの。キーンって。もう少しトーン下げてよ」
由梨は眉間に皺を刻み、耳を手で塞いだ。
「そんなことはいいから、お前も呑めよ」
「呑んでるわよ。もう少し、小さな声で喋ってよ。頭悪いんじゃないの、ほんとに」
由梨は、山口の煙草の煙りに、あからさまに嫌な顔をした。
「どうせ、俺は頭悪いよ」
由梨は、酒は飲むが、煙草を吸わないので、どうにもその目が霞むような煙に、耐えられなかった。
山口は、主に肉、脂っこいものを食べていたが、由梨は、ポテトサラダを小さな口でゆっくりと食べていた。別にダイエットしているわけじゃない。ただ、肉を食べる山口の顔を見ていると、食欲が失せただけだ。
「どんな話しだったっけ。ああ、そうだ。そんな男と、別れろよ。そして、俺のところにこい」
急に真顔になって、その後、ニヤリとした。
「だって、こないだだって、もうすぐ彼氏が帰って来るから、ってことで、やれなかっただろ。もうこんなん、嫌だな、俺。もっとムードがある所で、ゆっくりと・・・・・・」
「いつもそればっか。それに、あんた、実家暮らしじゃない。そんな所に、私がいってもいいの? 困るでしょ」
由梨はめんどくさそうに、生中を飲みながら、髪の毛を掻き上げた。
もし、山口が一人暮らしだったら・・・・・・。私は、こいつの所に、転がり込んでいただろうか。
「ま、そりゃそうだけど」
「なんだかね。だって、まさかよね」
「何が?」
「良く考えたら、彼氏の家で、違う男とやる、っておかしいよ。それは、ないな」
「じゃ、今からホテルにいくか?」
「切り返しが早い」
「それが、俺の良い所だろ。ところで、その彼氏は、今日、何時に帰ってくるんだ?」
「今日は遅いから、別に待っていなくてもいい。先に食べていてくれ、って。ただそれだけを冷たい口調で言っていた。だから、こうして、今あなたといれるんじゃない」
「もしかして、彼氏も今頃は、違う女と・・・・・・」
「そうかもね・・・・・・。それは、それでいいかもって思ったけど、実際は、それは、ないな」
もし、そうだったら、私、一体どう思うんだろ。怒るだろうか。怒る権利なんか、私にはないけど・・・・・・。それとも悲しむのだろうか。
分からない。私は、あの人のこと、一体、どう思ってんだろー。ただの便利屋? 眞人は、私にとって便利屋でしかないのかな。
「えらい自信だな」
「自信とかじゃなくて、あの人の性格なのよね。これが」
「どういうこと?」
「真面目なのよ。あの人は。だから、私、贅沢なのかもしれないけど、物足りないのよね」
「物足りないね・・・・・・。だから俺と、こんな風に付き合っているわけか」
由梨は頷いた。
「たく、間一髪入れず、頷かれた時には。俺のこの気持ちはどうなるんだよ」
「それで納得してるでしょ。隆俊は」
「まあね」
「だったら、いいでしょ。じゃ、ホテル行こうか」
「え、え? 本当? お前も、切り返しが早いじゃないか。よし。行くか。ああ。でも、待てよ・・・・・・」
「でも、何?」
「金がないんだよな・・・・・・。お前の家だったらな」
「もう、何言ってんの、今更。私も少し出すから。あんたさ、もっとバイトして、お金稼いでよ」
「はい、はい」
二人は割り勘で、支払いを済ませ、そして、外に出てくると、肩を抱き合いながら、駅の裏通りへと、いそいそと向かっていった。
どうしようもないな、私。
由梨はそう思った。何でこんな男といつまでも続けているんだろう。私、眞人と一緒に暮らしているのに、満足していないのかしら。
こんなんでいいのか、と自己嫌悪に陥り、そして、私は、一体、何がしたい? 何を目指しているんだろう、と考える。
こんなことを続けていても、幸せになれないことくらい分かっているんだ。
今の、私のこの荒んだ心を、この男が晴らしてくれるとは思えないし。何やってんだろな、私。
もう少しすれば大学を卒業して、就職して、いずれは結婚する。それが眞人であれば、何の問題はない。
でも、恐らくは違う人になるかな。私にはわかる。
だとすれば、問題だ。はやいところ、ケリをつけなければならないんじゃないか、そう思える。卒業してからでは、遅いのかもしれない。
出ていくのなら、すぐに出ていかなければ・・・・・・。今が潮時なのかもな。
自分の気持ちもそうだが、眞人の心の中に、大きな挫折感と傷を作りかねない。私だって、心が傷つくし、何よりも、あんなに良くしてもらったのに、そんな冷酷なことをしても、いいわけがない。でも・・・・・・。
由梨は、隆俊の腕を取った。この男は、問題ない。こう見えて頭のいい男で、ちゃんと自分の立ち位置を把握しているし、なにより私のことを何とも思っていない。
それがいい。それが楽だわ。だから、私はこの男と付き合うんだし、この付き合いは、いつだって、後腐れがない。
私は・・・・・・。ほんの一時でもいい、我を忘れたいがために、こいつに、身を委ねるているんだ。
私、きっと、自分でも認識していないほどのストレスを抱えているんじゃないのかな。恐らく、そう。
だから、こいつといることで、私は、ストレスを発散させることができる。だって、何も考えなくていいんだもん。きっと、何もかもが解き放たれていくんだわ。
この男といると、山の中にいるようで、気が楽になるの。私はこいつの身体の中にある洞穴。その奥の方へと、何の躊躇もなく、入っていくことができる。だって、そうすれば、雑音もない静かな所に身を置けるのだから。
どうも、私、という人間は、そうやって、目の前のトラブルにも、目を背け、対処するでもなく、休憩なり、回避してしまうんだろう。
そうやって、綺麗事を考えてみても、結局、私は、現実から目を反らして、生きているに過ぎない人間なんだ。
「はああっっ。何か、そんな気分じゃなくなってきたな」
由梨は、そう一言呟いて、山口の腕から、自分の腕を振り解いた。
「え? 何だ? 一体、どういうことだ。もうそこまで来てるっていうのに・・・・・・。もう勘弁してよ。いつも、そうやって、突然、気が変わるんだから」
山口は、今日は、珍しく苛立だっていた。
「だから、ごめん。何かね、白けちゃったの。もう帰っていい?」
「お、お前、本気でいってんのか? よくも、俺をその気にさせておいて・・・・・・。そりゃないだろ」
「男でしょ。しつこいのは、嫌われるわよ」
由梨は踵を返すと、一人だけで、歩き始めていた。由梨は、後ろを振り返らない。
あいつは分かっているんだ。こういう私のことを。だから追いかけて来ることがない。もし、道端で駄々をこねるような男だったら。そもそも私はそういう男とは付き合わない。
由梨は、少しの罪悪感を気にしつつ、足を緩めることなく、帰っていった。
私は、満たされてない。心がぽっかりと、がらんどうのように空いている。上手く言えないけど、何をしても、誰といても満たされたことがない。贅沢なのかもしれないけど、そういうのも淋しいわけよ。




